マロウブルー 8

「大丈夫って、なにが……?」


 手に持っていたカップを乱暴に置き、少女はこちらを悲しい目で見つめている。


「お客様…いえ、あなたが来店されたとき、体も心も、あなたは悲しみで包まれていました。私にはそれがはっきりと目に見えた。だからこそ私はあなたを救いたかった。何に苦しみ、何に怯えているのか、あなたは打ち明けてくれました。だからこそ、あなたに心の強さを見ることができたんです。そして、もうあなたからは悲しみの色は見えません。もうここに居続ける必要がなくなったんです」


「ちょっと待ってください、私が今ここにいるのは、あの狐さんが寝てるから……」


「キュー」


 少女がリーナを指すと、それをわかっていたかのようにリーナは体を伸ばし、むくっと起き上がる。寝ていたテーブルから飛び降り、少女の足元で軽くジャンプをして置かれたカップの横に座った。


「リーナが起きたようですね。店から元居た場所まで彼女が送ってくれます」


「私は、まだ、ここに居たいです……」


 視線を下に向け、左手を押さえる。


「お客様、申し訳ありません。閉店の時間です」


 外はすっかり夕日が落ち、街灯の光が眩しい時間になっていた。


「……わかりました。すいません」


 少女はカバンを手に取り、うつむいたままドアのほうに歩きだした。彼女の歩いた後にうっすらとシミが見える。リーナが何か言え、と言わんばかりの表情を向けてきた。

 わかっているよ、リーナ。


「お客様」


 僕が一言声をかけると少女は立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「お気をつけて。またのご来店をお待ちしております」


 その瞬間、少女の瞳はまた涙であふれ、頬を伝って床にはじけた。


「わ、私、誰かに優しくしてもらうことも、話を聞いてもらうことも、大丈夫って声をかけてもらうことも、全部…全部…全部、初めてだったんです。自分を見せることも怖くて、私がやらなきゃって、我慢しなきゃって、ずっと、ずっと、苦しくて……でも、今日店長さんと出会えて、私は大切なものをもらえました。ありがとうございます……ありがとうございました!」


 深々と頭を下げ、彼女は涙を拭うと顔を上げた。

 顔は涙で濡れていたが、その表情は僕が見たかった悲しみを乗り越えた美しい顔をしていた。


「もう負けません。絶対また来ます。ごちそうさまでした!」



 カランカラン



 少女はドアを開け、店を出る。リーナも彼女の後に続いて外に出た。

 店に呼び鈴の音だけが響く。

 僕は一人になった。

 彼女の最後の言葉が未だに残っている。


「また来る、か……」


 少女が使っていたカップを取り、中に残ったマロウブルーを捨てる。洗剤で洗い、カップを乾いたタオルで拭く。テーブルを拭き、外に出ているテラス席のテーブルと椅子を軽く拭いた後で看板と一緒に店の中へ運ぶ。「OPEN」と書かれた看板をひっくり返す。

 あとは店の中を少し掃除して店を閉めよう。

 ほうきで店の中を軽く掃き、店の窓を全て閉め鍵をかける……おっといけないいけない。リーナがまだ戻っていないのを忘れていた。

 店の中を片付け終わった後、夜風にあたるため外に出た。ポケットから煙草とライターを取り出し、火をつける。


 すーっ、ふーっ


 煙が空に向かって伸びる。

 久しぶりに吸うたばこの味は少し苦いような気がした。


「煙草なんて珍しいじゃないの」


 店に続くタイルの道の奥深くから女性の声がした。

 聞きなじみのある声だ。

 どうやら、先ほどの少女を元居た場所まで送り届け終わったようだ。


「お疲れ様……リーナ」




 

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