マロウブルー 7

「落ち着かれましたか」


「ぐすっ……はい、少しは」


 あれから15分ほどが経過した。

 少女は大粒の涙をひたすらに流し続け、ため込んでいたものをすべて吐き出した。

 今ではようやく落ち着きを取り戻し、涙でぬれた顔をハンカチで拭いている。


「実は私も俗にいういじめを受けたことがあるんです」


「え、そうなんですか?」


「はい。私は高校時代でした。頭から水をかけられたり、殴られたり蹴られたり、お弁当を捨てられたりもしましたね。それが原因で学校をさぼるようになったのですが」


「……その、どうしたんですか?」


「私もコミュニケーションが苦手で友達もいませんでした。親に頼ることも怖くてできず、お客様と似ていますね。ある時、私が暴行を受けているとき偶然、家庭科の先生が来られましてね。私はそれきり被害を受けなくなりました。運がよかったんです。先生は私の思いを受け止めて、私の心を救ってくださった。今でもあの日のことは覚えています」


「いいですね。そういう方がいるのは、とても……」


「そうですね。ですが、案外どこにでもいると思いますよ」


「そうですかね。私にはとてもそうは思えないです……」


「自分の目に見えているものがすべてではない、というとかなり抽象的な言い方にはなりますが、これが存外あてはまらないということもない。人と人とがともに暮らし、支えあい生きていこうとする。なにも人だけに限った話ではありませんが、これは変わることのない生物の本質ともいえます。自分とは全く違う価値観を持って、目的をもって、感情を持っている他人とともに生きるなんて、無謀もいいとこです。ですが、だからこそ面白いともいえる。きっとお客様の周りには、普段お客様がどんなことをされているか、ということを知っている人もいるはずです。ただそれを黙ってみていることしかできない。自分に矛先が向くのが怖いからです」


「それもいじめだとよく言いませんか?」


「そうですね。見て見ぬふりというのもまたいじめなのかもしれません。でも悪いことでもないと思います。本能に従って生きる、まさに動物らしい生き方です」


「私にはそんなふうに考えられるほどの頭はありません」


「頭など必要ないんです。大切なのは自分と向き合うこと、そして相手と関わろうとすること。ハーブと同じで人も、人によって手をかける時間を変えることでより深いその人というものを抽出することができる。その営みこそが社会で生きるということなんだと思います」


「……すごいですね。私にはそんな考え方はとても…」


 彼女は湯気の立つカップに手を伸ばし、眼鏡を曇らせながら少しずつハーブティーを飲む。


「できなくていいんですよ」


「え?」


「できてしまったら、人生など何も面白くありません。できなくて、悩んで迷って、間違い続けるのが人生の面白いところです。苦痛に耐えきれずに命を絶つ人もいます。私はそんな人を一人でも多く救いたい。だからこそこの店を開いたんです」


 そう。

 この店、「純喫茶ノワール」とは、間違い続けた僕の人生の贖罪のために作り、多くの人の幸せを願った店なのだ。最もそれだけで完結するならば、僕はここまで苦しんではいないだろう。


「お客様、あなたの人生はまだ始まったばかりです。これから多くの人と出会い、広い世界を知っていきます。もしかすると、今回以上に苦しい未来が待っているかもしれません。ですが、あなたは強い。そして一人ではありません。誰もあなたを見ようとせずとも、私はあなたが来店されたことを決して忘れません。逃げてもいい、泣いてもいい、諦めないでください」


 彼女の目が大きく開く。一度乾いた涙も再び顔を出し始めてしまった。だが先の涙とは意味も理由も大きく違う。

 深い悲しみを帯びた彼女の心の色が、暖かい日に照らされ空を仰ぐ向日葵のように、明るく、美しくそして輝いていく。

 

 うん……もう大丈夫だ。


 テーブルで寝ていたリーナがパッと目を覚まし、体を伸ばして彼女の足元に向かう。


「お客様、もうあなたは大丈夫です」


「え…?」

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