参 クリング その二
私がトシヒコという人と結婚したのは、今から丁度五年前でした。
実はアユミちゃんとは、今でも友達関係が続いていて、彼女の紹介だったんです。
最初、自分の皮膚感覚のこともあって、結婚には少し躊躇したんです。
でもトシヒコは、他人から悪意を持たれそうなタイプではなかったので、結局結婚することに決めました。
実際トシヒコは、ルックスは十人並みでしたし、性格も地味で温厚な人でしたので、彼の皮膚から、強い<クリング>を感じることはありませんでした。
ですので、私たちの結婚生活は、当初割と順調だったのです。
結婚して二年が経った頃でした。
結婚当初は私も働いていたので、夫婦で話し合って、当面子供は作らないでおこうと決めていたんです。
しかし二年経って、生活も安定してきたので、そろそろ子どもを作ろうかと、夫が言い始めたんです。
私は、そのことで少し悩みました。
自分の体質が、子供に遺伝したらどうしようかと考えていたからです。
私が悩んでいるのを感じたせいか、夫はそのことをあまり言い出さなくなったんですが、結果的に夫婦の間に、少し気まずい空気が流れるようになりました。
そしてその頃から、夫の体に纏わり付く<クリング>が、少しずつ増え始めたんです。
最初は、とても小さな変化でした。
それまでは、仮にあったとしても、一時的なものだったのですが、それが徐々に、継続的に纏わり付くものに変わっていったんです。
「会社で何かあった?」
少し心配になって、私は夫に訊きました。
でも夫からは、「何もないよ」という答えしか返って来ません。
彼は営業職だったので、彼自身のストレスはそれなりにあったと思うんですが、<クリング>は他人から夫に向けられる負の感情です。
つまり、<クリング>が大きくなるということは、誰かが夫に対して向けている負の感情が、大きくなっていることを意味します。
私はそのことがとても心配になったので、夫を問い詰めました。
すると、夫から返ってきたのは意外な答えでした。
彼の会社に今年入社した女子の新入社員に、少し問題のある子がいたのです。
不真面目だとか、やる気がないとかいうのではなく、逆なんですね。
やる気に溢れすぎて、常に前のめりで、思い込みで軽率な行動をとることが多かったようなんです。
そのせいで、得意先からのクレームが絶えなかったらしいんです。
その子の指導は夫が担当していたんですが、結構手を焼いていたようです。
それでも夫は、後輩にきつく当たるような性格ではなかったので、やんわりと指導していたらしいんです。
上司から様子を聞かれた場合でも、それとなく庇っていたそうなんですよ。
私はその話を聞いて、首を傾げました。
だって、その子から夫が感謝されることはあっても、恨まれる筋合いではないからです。
もしその子が夫に悪意を持っているとしたら、逆恨みじゃないですか。
それでも夫に憑いた<クリング>は、どんどん大きく、そして凶悪なものに変わっていったんです。
私は、気が気ではありませんでした。
ところがある日突然、夫の<クリング>が、綺麗になくなったのです。
私は何が起こったのだろうと思い、再び夫に問い質しました。
すると夫が言うには、例の問題児の子が、突然泣きながら夫に謝って来たそうなんです。
理由を聞いてみると、課長に呼ばれて直接注意された際に、夫がその子のことを庇ってあげていたことを、告げられたそうなんですね。
それまでその子は、自分の仕事が上手くいかないのは、夫の指導が悪いせいだと思って、かなり怨んでいたらしいんです。
それが、課長から話を聞いて、自分の思い違いに気づいたらしく、夫に涙ながらに謝ったみたいです。
単純な子だったんですね。
夫もそう言って笑ってましたし、私もホッとしました。
それで済んでいたら、良かったんですけどね。
それから少しして、今度は私の体に、大きな<クリング>が纏わり付いてきたんです。
私に思い当たる節は全くなかったのですが、触るとそれからは、かなり強烈な悪意を感じました。
その<クリング>は、急激に膨らんでいきました。
それまでに、それ程大きな<クリング>に憑かれた経験がなかったので、私はその強烈さに圧倒されてしまいました。
だって自分の体に、そんな凶悪なものが纏わり付いているのを、四六時中感じてしまう。
そんな状況を、想像してみて下さいよ。
私は他に思い当たる節がなかったので、夫に例の問題児について、問い質したんです。
すると夫は、困ったように笑って白状しました。
その問題児はサキという名前なんですけど、単純で思い込みの激しい子だけに、それまで夫に抱いていた悪意が、好意に変換されてしまったらしいんですね。
しかも悪意が強烈だった分だけ、それが変換された好意も強烈で、突然夫に、私と別れて自分と結婚してくれと申し出たらしいんです。
さすがに夫も、引いてしまったらしいです。
そして、いくら私と別れることはしないと言い聞かせても聞かないので、課長に事情を話して、サキの指導を他の社員に変えてもらったそうなんです。
すると何を思ったのか、サキは辞表を出して、会社を辞めてしまったらしいんです。
ビックリしますよね。
でも私は、夫の話を聞いて合点がいました。
私に憑いているこれは、サキの嫉妬や憎悪なんだと。
さらに<クリング>が消えずに、大きくなっているということは、サキは夫のことを諦めず、私を憎み続けていることを意味するんだと、私は思いました。
いずれ私は、サキに何かされるだろと覚悟を決めたのです。
夫には、そのことは言いませんでした。
それを言うと、私の特異体質のことも、彼に説明しなければならないと思ったからです。
そしてその日はやってきました。
仕事帰りに、私が夜道を歩いていると、後ろから奇声が響いたんです。
振り向くとそこには、包丁を手に持って、目を血走らせた女が立っていたのです。
こいつがサキか――と、私は思いました。
サキらしい女は、私に近づきながら、喚きました。
「トシヒコさんを返せ!」
――何言ってんだ、こいつ。
私は思いました。
だってそうでしょ?
トシヒコは私の夫なんですから。
こんな小娘に、返せと言われる筋合いはない。
まあ、そんな道理は通用しそうもなかったので、私は身構えました。
そして近づいて来て、包丁を振りかざしたサキの顎を、意識ごと回し蹴りで刈ってやったんです。
実は私、空手三段なんです。
子供の頃からアユミちゃんと一緒に、20年近く空手を習っていたんですよ。
私はその場に警察を呼んで、意識を失くしたサキを突き出してやりました。
「ユキエちゃん。無茶するんだから」
後から話を聞いたアユミちゃんは、そう言って笑っていました。
そしてそれ以来、私に纏わり付いていた<クリング>は、消えてなくなりました。
サキも諦めたみたいですね。
殺人未遂で有罪になったそうですけど、私に実害はなく、初犯ということで、執行猶予が付いたそうです。
それでも私や夫を怨んでいたら、私の皮膚感覚が検知してくれるんですが、今のところそれはなさそうです。
それを考えると、結構便利な体質だなと思ったりもします。
結婚生活ですか?
あれから子供も出来て、割と順調ですよ。
家族に、大した<クリング>も憑いていませんしね。
私のお話はこれで終わりです。
もし自分に<クリング>が憑いているか、触れて欲しい方がいらっしゃれば、執事さんにお伝え下さい。
この会が終わった後に、触れて差し上げますから。
もしかしたら、とんでもなく大きくて強烈な<クリング>が、あなたに憑いているかも知れませんよ。
了
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