弐 カクテルパーティ効果 その二
その頃には、年度末の決算もピークを過ぎて、オフィス内のピリピリした雰囲気も漸く収まっていました。
時折警察の人らしい部外者がオフィスを訪れるのですが、ケイコの事件は、相変わらず進展がないままでした。
私がデスクに座って、外部倉庫に保管されている輸入商品の在庫データを、管理ソフトを使って整理している時でした。
遠くから、またあの声が聞こえてきたのです。
「あのハゲ課長、超ムカつくぅ」
『どうした?何があった?』
私は思わず、その声に耳を澄ましていました。
「この前、帰りに呑みに誘われてさ。
断ったら、次の日から嫌がらせが凄いんですけどぉ」
『マジか?最低だな。
あいつお前に気があるんだぞ。
キモッ。それで、どうする?』
「また、あれ使っちゃう?」
『いや、立て続けに使うと、さすがに警察にばれるかも知れない』
――次は課長が狙われるんだ。
会話を聞いた私は、恐る恐る声のする方を振り返りました。
しかし後輩三人のデスクは、私の席から離れた場所に固まっていて、誰の声なのか、区別がつきません。
「じゃあ、別の手で行く?」
『そうしよう。そうしよう』
会話はそこで途切れたので、結局誰だったのか、特定することは出来ませんでした。
そして私は、自分がどうしたらよいか分からず、頭を抱えてしまったのです。
――課長に知らせて、注意を促すべきだろうか?
――でも、何の根拠もなく注意しても、きっと信じてもらえないよね。
結局私は、何も出来ないまま、その会話をやり過ごしてしまいました。
それから数日は、何事もなく過ぎました。
そして週が明けた月曜日の朝、課長が事故に遇って亡くなったというニュースが、飛び込んできたのです。
それを聞いた私は、確信しました。
課長は、あの会話をしていた子に、殺されたんだと。
――これって、課長に忠告しなかった、私のせいなんだろうか?
私は、訳の分からない感情が込み上げてきて、トイレに駆け込みました。
――どうしたらいいんだろう?
鏡を見ながら、いくら考えても答えは出ませんでした。
暫くしてトイレから出た私の耳に、またあの声が聞こえてきました。
「やったね」
『やったな』
咄嗟に振り向いた先には、ミチオが立っていました。
彼は不審な表情を浮かべて、急に振り向いた私を見ていました。
私は、あの会話の主が、ミチオだということを、直感的に悟ったのです。
そして私が気づいたことに、感づかれては不味いと思い、すぐに彼から目を逸らすと、急いでオフィスに入りました。
――もしかして、感づかれたかも。どうしよう。
私は急に不安になりました。
それからの私は、いつもミチオの挙動が気になって、落ち着いて仕事が出来なくなっていました。
それだけではなく、会社の行き帰りも、周囲のことが気になって、ビクビクしていました。
――課長のように、事故に見せかけて、殺されたらどうしよう。
そういう考えが、頭から離れなかったのです。
そしていつの頃からか、オフィス内でじっと私の様子を伺っている、ネットリとした視線を感じるようになっていたのです。
多分私が、ミチオのことを意識しすぎていたため、返って不審に思われたんじゃないかと思います。
それは非常に拙い状況でした。
常に周囲を警戒しなければならなかったので、緊張によるストレスが、半端じゃないくらい高まっていたのです。
私は精神的に追い詰められ、クタクタになってしまいました。
多分そのせいだったのでしょう。
ある日私は、無防備にビルの外側に設置された非常階段に、一人で出てしまったのです。
大急ぎで、二つ下の階に届けなければいけない書類があったのに、その時に限って、エレベーターが全部出払っていたのがいけませんでした。
焦った私は、つい非常階段を使ってしまったのです。
非常階段の扉を開けて、外に出た途端、私は後ろから腕を掴まれてしまいました。
いつの間について来ていたのか、ミチオが後ろに立って、私を捕まえたのです。
「カナコ先輩。やっと二人きりになれましたね」
ミチオは、気持ち悪いくらい嬉しそうな顔をして、そう言ったのです。
私は恐怖のあまり、声も出せませんでした。
「先輩、僕らの声が聞こえてるんでしょ?」
「な、何の声?」
私は声を絞り出すのがやっとでした。
「惚けちゃ困るな」
『この声だよ』
その声が聞こえたのは、ミチオの口からでした。
でも私は思ったんです。
それは、何か別のものが、彼の口を借りて喋ってるんだと。
「こいつはね。
子供の頃から、僕の中に住んでるパートナーなんですよ。
先輩」
それを聞いて、私は一瞬、彼が多重人格障害を患っているんじゃないかと思いました。
でも違ったんです。
「今、僕のこと、多重人格とか思いました?」
『ハズレ。俺は俺だよ』
笑いながら言うミチオの声に続いて、別の声が口から発せられました。
その声を聞いて、私はミチオとは別の何かが、彼の中にいるんだと確信したのです。
「ケイコ先輩に毒盛ったの、僕とこいつだよ」
『課長の糞野郎を、線路に突き落としたのも、俺とこいつだ』
「あんたたち、何言ってるのよ」
私は、必死で抵抗しましたが、腕を掴まれて身動きが取れませんでした。
「惚けちゃ駄目ですよ、先輩。聞こえてたんでしょ?」
『聞こえてたんだろ?』
「惚けんなよ」
『惚けんなよ』
「
『
ミチオとそれの声が、とうとう重なりました。
「これからどうなるか、分かってるよな」
『これからどうなるか、分かってるよな』
そう言いながらミチオ
――突き落とす気だわ。
私は咄嗟にそう思いました。
その後は、無我夢中でした。
私が手に持った書類を離すと、音に驚いたのか、ミチオの腕の力が少し緩んだのです。
私は咄嗟に、護身用に持ち歩いていた、痴漢撃退用のスプレーをポケットから取り出しました。
そしてミチオの顔に向けて、思い切り中身を吹きかけたのです。
目をやられたミチオは、喚き声を上げながら、私から手を離しました。
その隙を突いて、私は彼から離れました。
そして目が見えないミチオは、足を踏み外して、非常階段を転げ落ちたのです。
途中の踊り場に倒れた彼は、そのまま動かなくなりました。
私はその様子を確かめることもなく、オフィスに駆け込みました。
そして上司を捉まえ、今起こったことを必死で訴えたのです。
結局ミチオは打ちどころが悪く、救急隊が到着した頃には、亡くなっていました。
事件は、彼が非常階段で私を襲おうとして、転落死したというストーリーで決着したのです。
私が口を噤んでいたので、ケイコと課長の事件は、有耶無耶になったままです。
ミチオの中にいたあいつが、どうなったかですか?
あいつは…。
『ここにいるよ』
そうなんです。
こいつ、いつの間にかミチオから離れて、私の中に住み着いちゃったんです。
ですからね、今回ここでお話する代わりに、執事さんにこいつを取ってもらう約束をしてるんです。
『お前、何言ってやがんだ』
煩いわね、まったく。
執事さん、ちゃんと約束守って下さいね。
了
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