壱 異臭 その二
その後、校内で女の人を見かけることはなかったんですが、クラブの練習には全然集中できなくて、先輩にえらく叱られてしまったのです。
一人で下校している間も、僕はずっとびくびくしていました。
――帰るまで、何事もありませんように。
僕は必死で祈りながら、急ぎ足で家に向かったのですが、願いも虚しく、前方からあの匂いが漂ってきたんです。
女の人は、うちのマンションの前に立って、僕をじっと見ていました。
僕は必死でマンションに駆け込むと、部屋の窓から外の様子を確認しました。
女の人は、何故か僕の部屋を知っていたかのように、こちらを見上げていたのです。
――まったく、何でこんな目に会うんだよ!
僕は本当に泣きたくなりました。
暫く部屋で考え事をしているうちに、気がつくと匂いがしなくなっていました。
多分、あの女の人は、廃屋に帰ったんだろうなと思ったのですが、もう外を見ることもありませんでした。
――一体いつまでこんなことが続くんだろう。
僕は心底、嫌になりました。
ただぼんやりと立っているだけなので、そのこと自体は、害はなかったんです。
ちょっと不気味でしたけど、見なければ済むんで、我慢できる範囲でした。
でもあの悪臭は駄目でしたね。
我慢の限界を超えてました。
でも、僕以外誰にも見えないし、誰も臭いに気づかなかったんです。
だから親にも友達にも、相談することが出来なった。
その結果、僕は無謀な決断をしたんです。
今から思えば、よくあんな無謀な真似が出来たなと思います。
だって、一人で廃屋に入ろうと思ったんですよ。
考えられないですよね。
高校生と言っても、やっぱ子供だったんですね。
友達を巻き込まなかったのは、我ながらナイスだったなと思います。
ただ、いきなり中に入った訳じゃなく、何度か家の前から中の様子を探りました。
女の人は、僕が毎日廃屋に行くようになると、学校や家について来ることはなくなったのです。
それで僕は少しホッとしたんですが、かと言ってそのままの状態を続けることは、とても我慢できなかったんです。
そして日曜日の午後。
僕は防臭マスクを二重に掛けて、廃屋を目指しました。
敷地内に入ると、家の入口に、あの女の人が立っていました。
相変わらず表情の欠けた顔で、僕を見ていました。
臭いはやっぱり強烈でしたね。
だって、防臭マスクを二重にしても効果がなかったんですから。
僕は女の人に、直接真意を問い質そうかと思いました。
でも、多分言葉は通じないだろうと思い直し、諦めました。
僕がドアの把手に手を付ける前に、女の人はドアをすり抜けて、中に入って行きました。
――やっぱり幽霊だったんだな。
僕はそう思いました。
ドアには鍵が掛かっていなくて、把手を回すとすぐに開きました。
中に入ると、薄暗い屋内にあの女の人が立っていました。
女の人は、僕が入ってきたのを見定めると、僕に背中を向けて、奥に進んで行きました。
その足取りは、床の上を滑って行くようでした。
女の人は玄関から入って、家の一番奥にある八畳間の畳部屋に立っていました。
そしてじっと畳を見つめていたのです。
部屋の中は、あの臭いで一杯でした。
とにかく僕は、防臭マスクを手で強く鼻に当てて、臭いに耐えました。
女の人は、僕に何かを訴えようとしていたのだと思いましたが、無表情な顔からは、何を訴えたいのか、読み取ることは出来ませんでした。
「お前、そこで何してんだ?」
その時、僕の背後から声が掛かったんです。
驚いて振り向くと、大柄な男の人が立っていました。
僕よりも頭一つ分背が高く、がっちりした体格の人で、僕を見下ろすようにしていたのです。
「何してんだって、訊いてんだ。答えろよ」
その人は、物凄く兇悪な顔で、僕を睨みつけました。
その顔を見ただけで、僕は縮み上がってしまったんです。
「この間から、この家の前をウロチョロしてやがったよな。お前、何を探ってやがるんだ?ここの入口には、監視カメラ仕掛けてるから、全部分かってるんだよ。おお?」
そう言いながら男の人は、恐怖で棒立ちになってしまった僕に近づいて来ました。
そして男の人が僕の目の前に立った時、僕は見たんです。
それまでじっと床を見ていた女の人が、その男の人に絡みついていくのを。
そしてそれと同時に、床から真っ黒な煙のようなものが、立ち昇ってきたんです。
『待ってたよ』
女の人は、男の人の耳元で、そう囁きました。
その顔は、さっきまでの無表情とは打って変わって、僕が怖く感じるくらい、嬉しそうでした。
「な、何だ?何なんだ?」
男の人には、体に纏わり付く女の人と、煙のようなものが見えていないようでした。
そして床から立ち昇った煙は、男の人の体を這うように昇って行き、やがて両方の鼻腔に入って行ったのです。
その時僕は、煙の正体に気づきました。
あれはきっと、女の人から漂ってきていた、あの臭いだと思ったのです。
男の人は、突然僕の前に倒れ込み、もがき苦しみ始めました。
女の人は、倒れた男の人に纏わり付いたままで、黒い煙はどんどん鼻に吸い込まれて行きました。
その様子を、僕は声を失くしたまま、見守るしかありませんでした。
やがて男の人は、ビクビクと大きく二度痙攣し、動かなくなりました。
その眼からも、耳からも、そして鼻からも、血が流れ出ていました。
そして女の人も黒い煙も、いつの間にか見えなくなり、部屋中に漂っていた臭いも消えていたのです。
漸く我に返った僕は、恐る恐る倒れた男の人の肩を揺すってみました。
しかし何の反応も返って来ませんでした。
――死んじゃったんだ。
そう思った僕は急に怖くなり、家の外に飛び出したのです。
その後僕は警察に連絡しましたが、当然のことながら大騒ぎになりました。
男の人は、やはり亡くなっていたからです。
何故廃屋に入り込んだのか。
あの男の人は何故あそこで亡くなっていたのか。
警察から厳しく追及された僕は、本当のことを言っても信じてもらえないと思い、嘘をついてしまったのです。
僕があの廃屋に入ったのは、中から異臭がしたためで、入ったら男の人が倒れていたと。
結局警察は、僕の言い分を信じてくれたようです。
実際僕は、あの家とも、あの男の人とも、何の関係もなかったからだと思います。
まあ、両親からも学校からも、えらく叱られてしまいましたが。
あとからニュースで知った話ですが、あの廃屋は、亡くなった男の人の持ち物だったようなんです。
そして男の人が倒れたあの床下からは、女性の死体が出てきたのです。
その女性は、男の人の奥さんだった人で、一年以上前から行方不明になっていたようです。
テレビのニュースによると、警察は男の人が奥さんを殺して、床下に埋めたと考えているみたいでした。
あの男の人は、奥さんを殺害した後、あの家を放棄して、別の場所に住んでいたようです。
ただ奥さんの遺体が見つかるのを恐れて、廃屋の入口に監視カメラを設置して、誰かで入りしないか、見張っていたらしいのです。
あの女の人が、何故僕に取り憑いたのか、今でもその理由は分かりません。
推測ですが、臭いに敏感な僕が、あの日偶々女性の屍臭を嗅いだのが
あの日僕が廃屋に忍び込んだ時、あの男の人が入ってきたのは偶然だったのでしょう。
ただ、女の人を埋めた床の上に立ってしまったため、復讐されたんじゃないでしょうか。
僕の話はこれでお終いですが、面白かったですか?
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます