【長編】神木(shinboku)

北 条猿(Kita Jyouen)

 私が8歳の夏だ。あの夏が、ただ規則的で単調な心拍を限界まで繰り返すだけの一生に、極めて精緻な不整脈を起こしたのである。

 

 その日私は、1枚の大きな翠の紅葉が、小さく消えてしまいそうな寝息を立てながら静かに眠る愛しい我が子の顔にそっと手のひらを添える母親のように、私の白く病弱な頬に触れた感覚で目を覚ました。前日の晩、私はこの時寝そべっていた初夏の香り漂う縁側から冷たい下弦の月を見つめているうちに(この縁側のある祖父母の家へ向かう旅路に疲弊したことも原因だろうが)知らぬ間にまどろみの中へ沈んだらしい。甲高い音を立てて軋む床に仰向けに寝転がったまま眺めた東の空は薄紫の羽衣に包まれていた。

 

 眩暈の起こらぬよう人一倍に時間をかけて上体を起こした。風に舞う枯葉が私の目には妙に生き生きと感じられた。頭部で滞っていた血液が下へ下へと流れ込む感覚と同時に、骨とわずかばかりの肉しかない腰に突発的な神経痛を得たが、すぐに止んだ。それからはただぼんやりと、生ぬるい初夏の朝風を受けながら眼前の中庭を眺めていた。

 

 この純日本家屋の中に組み込まれている中庭は、実に不完全である。意図したものではなく、気づけばそうなっていたのだ。このひねくれた中庭は、自己嫌悪の強いこの8歳の少年の心に染みた。彼は自分がそうであるから、周りにも無意識に不完全さを求めている。それもはっきりと、彼の目に映る不完全さである。……この庭の構成を少し話しておこう。縁側をおりてすぐに飛び石が始まり、それは時折方向を変えながら向かいの祖父の部屋のほうへ伸びている。飛び石の西側には私が2歳の頃に叔父が造ったと聞く石造りの池があり、池の中では3匹の錦鯉がゆったりと尾を揺らしながら優美に泳いでいる(人間の眼にはそう映ったのである……。)池のそばには青い苔の生えた、幹が黒く、太く、そして全体的に荘厳な印象を人々に与える老いた枝垂桜がある。この桜は池の上に向かって大きく枝垂れており、春になれば水面が淡いピンクの花びらで覆われる。そして花びらは何とか日光を確保したい錦鯉が必死に動くたびに波紋に沿ってゆらゆらと揺れ、池の端のほうへだんだんと追いやられていくのである。夏になると一仕事を終えたこの老木は葉桜となり、心地の良い日陰を生み出してくれる。対照的に、飛び石より東側は実に殺風景であった。一台の灯篭に、年輪の多く刻まれた松の切り株があるだけである。この年の冬に起こった記録的大寒波による大雪がこの松の木を襲い、雪の重みに耐えられなくなり根元近くから折れてしまったのである……。

 

 すると突然、私の眼前に2人の少年と1人の少女が現れた。少年のほうはどちらも私と同い年くらいに見えたが、少女のほうは当時の私より3,4歳年上のように思われた。2人の少年がおそろいの青い甚平を身に着けていることは違和感など覚えなかったが、少女の白と赤で構成された巫女のような恰好が強く私の記憶に焼き付いている。直感で、この2人の少年は祖父と父だと思われた。しかし少女のほうはなんら思い当たる節が無かった。3人は池の中に足元の石を投げこんで無邪気に遊んでいる。先ほど書いたように、この池は私が2歳の頃に造られたものであるから、この光景は誰かの視点を追体験しているような代物ではなく、まだ夢うつつな私がただ現実世界の風景に祖父らを描いた透明な紙を重ねただけのものである。(そもそも祖父と父が同じ年で存在していることがおかしいのだが…)子供たちが私のほうに手を振った。ただそれは私の後ろに現れた2人の、それぞれ深紅の椿柄と、薄緑の生地に白い菊の刺繍が施された着物を着た女に向けられたものであった。2人の少年の母であろう。彼女らは私の右隣に脚を横に崩して座り、優しげな目で子供たちを見つめていた。

 

 私が現実に引き戻されたのは、突風が吹き枝垂桜の枝が一本折れ、痛みに耐えるかのように葉のこすれる音が庭中に響いたからである。枝は池の水に叩きつけられた。錦鯉の一匹が飛び跳ね、大きな波紋が池の隅々まで繰り返し広がっていた。それ以降突風が吹くことはなく、池の波紋も徐々に弱くなっていった。私の視界にかかっていた透明な紙も、もう遠くへ飛ばされていた……。

 

 池に浮かぶ枝が弱い風が吹くたびに水の上をそろそろと動き、小さな波紋を起こす様子を眺めていると、長く暗い廊下の奥から床の軋む音がした。音は徐々に近づき、大きくなる。まだ姿は見えないが、脚の指先までしっかりと床を踏みしめる、どこか自信に満ちた音でこれが父の足音だと確信した。黒のスウェットにジーパンをはいた父は何も言わず私の右横に胡坐をかいて座りこんだ。私の肩に丸太のように太く頼もしい左腕を回し、右手の人差し指と中指の間で持っている、火がつけられて間もない煙草の先を池のほうへ向けた。


「折れたのか」

「うん」

「そうか」

「…うん」

 

 やや強い風が吹き、私の短く硬い髪を撫で、父の、後ろで一つに結んだ細く肩口まで伸びた髪をなびかせた。煙草の煙もゆらゆらとたなびいていた。私は胡坐をかいている父の大黒柱のように太く逞しい脚に頭を預けて横になった。右耳が塞がり、先程まで二つの耳で捉えていた周囲の音が左耳に集中する感覚が心地良かった。父は私の頭に、私を目覚めさせた例の大きな緑の紅葉に引けを取らない大きな手を置いてくれた。決して撫でてはくれなかった。ただ、置くだけだった。それからはお互い何も言わなかった。あの折れた枝垂桜の枝は、いつの間にか水の底へ沈んでいた……。

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