十四 あかね

 昼四ツ半(午前十一時)過ぎ。

「うむ・・・・」

 徳三郎は日野道場の座敷で、唐十郎と藤兵衛から越後屋の一部始終を聞き、浮かぬ顔になった。

「伯父上、どうなされた」

「大老の堀田様が勘定吟味役を通じて動いておる。そして、堀田様の従叔父の若年寄も動いておる。妙だと思わぬか?」

 徳三郎は説明した。


 本来、政は老中と若年寄の沙汰によって進められ、大老は非常時の世話役的立場であるが、将軍徳川綱吉擁立の尽力により、大老堀田正俊の勢力は絶大である。

 大老からの沙汰で事を進めるなら、若年寄稲葉正休が大店の主たちに沙汰を下すより、勘定吟味役萩原重秀を通じた沙汰が正道である。若年寄稲葉正休の動きは、大老堀田正俊とは別物と見てよい。


「では伯父上、若年寄の稲葉正休が勝手に動いているとお考えか」

 大老堀田正俊の沙汰が正道なら、若年寄稲葉正休の沙汰は、天下普請による商いの利益に絡む物ではなかろうか、と唐十郎は推察した。

「如何にも。そうでのうては越後屋が賂など渡そうとはすまい」

 徳三郎の返答に穣之介が言う。

「父上。勘定吟味役萩原重秀様に問うては如何か」

「すでに堀田様も考えておるはず。特使探索方に越後屋が近づいてきた事自体、堀田様の読みが当たっていたのだ」

 徳三郎から先ほどまでの浮かぬ表情が消えた。今は若年寄と大老の両者に、不正を働く者と、それを正す者の匂いを嗅ぎつけている。


「ならば、鎌鼬は、不当な利益を得る者に、御上が差し向けた刺客と言うことに」

 穣之介は納得ゆかぬ顔で天井を見上げ、一瞬に、傍らに置いた刀の小柄を天井へ放った。


「曲者かっ」

 唐十郎は天井の気配に違和感を感じなかった。

「なあに、心配いらぬ。こちらにおいで下され」

 徳三郎は、誰に語るでもなく、座敷全体を相手するように言った。


 隣室の襖が開き、目鼻立ちのはっきりした見目麗しい女が出てきた。お綾がなぜここにいるのか唐十郎は不思議だった。

「お綾ではない。あかね、だ。伯父上様の忍びじゃ。して、どのように」


 あかねは正座して襖を閉じ、皆に御辞儀した。

「剣術試合は、水無月(六月)十日、昼四ツ(午前十時)、郭内にて雨天決行との由に」

 実践を踏まえ、天候がどうあれ試合を決行する、と言う。勝負の検分は柳生宗在日光祭礼奉行公儀剣術指南役である。

 建前は御前試合だが、大老堀田正俊をはじめ、老中、若年は姿を見せるものの、江戸城郭内に剣客が多数入るとあって、将軍綱吉が姿を現わすか否か定かではない。


「試合の形式は各組に別れた勝ち抜き戦にて行ないまする。

 奇数の人数が勝ち残った折は総当たりにて剣術指南役補佐を選出します故、坂本右近様にも試合に出て頂くように、と伯父上様の仰せにございます」

 あかねは徳三郎に深々と御辞儀した。

 坂本右近はいずれは師範代になるであろう、穣之介に次ぐ手練れだ。大老堀田正俊は、勝者が奇数人の場合の対策に坂本右近を使えと言うのだ。


「承知しましたとお伝えて下され」

「日野様は承知する故、私はこのままこちらに残って唐十郎様にお仕えし、日野様の動きを伯父上に知らせるように、仰せつかっておりまする。

 穣之介様はお内儀様がおりますが、唐十郎様は独り身。今のままでは何かと不便であろうと伯父上の配慮にございまする」


「押しかけ女房にござるかっ」

 徳三郎をはじめ皆が驚いている。

 大老堀田正俊は、徳三郎の動きを連絡させて、徳三郎や穣之介や藤兵衛たちの女房を警護させるため、あかねを遣わした。それだけ事態は危険だ、と唐十郎は察した。


「あかねさん、昨晩、藤兵衛が飯屋で、

『鎌鼬は、不正を働く大店に差し向けた御上の刺客らしい』

 と話したら、越後屋の手代が、主を助けてくれ、と言ってきた」

 唐十郎は越後屋で聞いた事と賂の件を話し、大老堀田正俊と若年寄稲葉正休の対立を問いただした。


「伯父上はその事を承知し、私をこちらに差し向けました」

 あかねの説明によれば、天下普請にかこつけ、若年寄稲葉正休が不正を働いている節があり、唐十郎たちが推察したとおり、大老堀田正俊との対立は事実だった。堀田正俊は、稲葉正休の手が徳三郎の女房たちに伸びるのを懸念していた。

「稲葉正休は伯父上の従叔父。事がやっかいにございます」

 不正を働きそうな者と、それを正そうとする者が親族で幕閣なのだから無理はない。

 あかねは懐から書状を取りだし、徳三郎に渡した。

 書状を読んだ徳三郎の顔が緊張し、

「あかね殿、分かり申した。

 唐十郎、あかね殿が其方に仕えるとの伯父上様の配慮をお受けするのじゃ」

 笑みを含んだ妙な面持ちで唐十郎を見ている。

「はい・・・」

 唐十郎はこれまであかねとは三度会っている。

 徳三郎には、妖刀を手渡された忍びの女について話したが、この場の皆が、唐十郎が話した忍びが、このあかねだ、などと想像すらしていないのを唐十郎は感じた。そして、あかねがお綾に似ているのが気になった。

「あかねさんはお綾さんによく似ている。藤兵衛もそう思わぬか」

 一瞬、あかねの気配が変わったのを唐十郎は感じた。

「へえ、さっきからそう思って見てました」と藤兵衛。


「たまたまに、似ていただけにございます。唐十郎様の妻として、あかねと呼んで下さいませ」

 建前でなく、あかねが本音で話しているのを唐十郎は感じた。

 やれやれ、独り身の気楽な長屋住まいと思っていたが、これでは上屋敷で暮していた時と変わらぬではないか。狭い長屋に衝立を立てて寝起きせねばならぬ。私は気にせぬが、あかねは私を気にするだろう。


「唐十郎様、女房として扱って下さいませ。お綾さんと違い、あかねにはここと、ここと、ここに黒子があります。本物です。触って確かめて下さい」

 あかねは畳に手をつき、てすっと唐十郎の傍へ寄り、唐十郎の手を取って顎の左下と右耳たぶ、右の首筋に触れさせた。

 唐十郎は導かれるままに黒子に触れて摘まんだ。盛り上がりない小さな黒子は確かに本物だった。あかねの黒子の周りの肌は少し赤くなって、目を伏せたあかねの頬もほんのり赤みを帯びている。未だ男に触れられた事がないようだ。


 唐十郎は、狭い長屋で忍びの女と暮す覚悟を決めた。

「分かりました。よろしく頼みます」

 唐十郎はあかねに御辞儀した。

 あかねは顔を赤らめたまま、唐十郎と皆に向かって御辞儀した。


 徳三郎は柏手を二度打った。襖が開き、徳三郎の妻篠と穣之介の妻涼が現われた。徳三郎は、大老堀田正俊が唐十郎にあかねを妻として遣わした、と説明し、今後を語った。


 徳三郎が話している間、唐十郎は藤兵衛に頭を垂れた。

「これからも、お綾に賄いを頼む」

 唐十郎は藤兵衛の女房のお綾に賄いを頼んでいる。月々の賄い代とお綾の手間賃が無くなれば、藤兵衛たちの生活に支障が出る。

「そんな事は気にしないでください」と藤兵衛。

「そうはゆかぬ。親戚筋の藤兵衛との義理を欠いたら長屋では暮らせぬ」

 藤兵衛との関わりは親戚同様である。あかねがいつまで唐十郎の妻として役割を演ずるか不明だ。それに、唐十郎の妻としてふるまってばかりでは徳三郎の妻篠と、穣之介の妻涼、藤兵衛の女房お綾を警護する暇がない。

「わかりました。正直、そうしてもらうと助かります。そのように、綾に言っておきます」

「では、今後も、よろしく頼みます」


 唐十郎と藤兵衛が話している間に、徳三郎は説明を終えた。

「門下生に頼んで、そのように伝えてくれ。

 二人とも聞いておるか。聞いていなかったな。いま一度、説明する。

 長屋の住人と親しき者、門下生を集め、日野道場で、唐十郎とあかねの祝言をする。勘定吟味役荻原重秀様と伯父上様にも、その旨を伝える」


 あかねが持参した書状によれば、あかねは大老堀田正俊の養女で、堀田正俊も祝言に駆けつける故、今宵、あかねを唐十郎の妻にするように、と堀田正俊が指示していた。すでに唐十郎の父母は了承しており、この見目麗しきあかねを妻にせぬ理由は唐十郎には無かった。

 ただ一つ、日野道場師範代補佐の手間賃と上屋敷からの月々の給金の他に禄が無い事が、唐十郎は気がかりだった。


 徳三郎は唐十郎の心中を察していた。

「特使探索方の立場は町奉行配下なれど、実質は公儀勘定吟味役の直属ぞ。

 伯父上様の本音は、剣術試合の勝者を、柳生宗在様日光祭礼奉行公儀剣術指南役の補佐に抜擢し、実質は、武術の優れた者を勘定吟味役直属の特使探索方に組み入れる事にある。

 建前上、勝者は公儀剣術指南役の補佐だ。御上はその者たちに禄を与える」

 徳三郎はあかねを見た。あかねが頷いている。


 あかねは忍びだ。大老堀田正俊の指示により、名だたる剣客を調べ上げている。そうでなければ、私を呼びだして、剣術試合で抜擢した剣術指南役補佐を特使探索方に加える、などとは話さぬはずだ。

 そう思って徳三郎は眉間に皺寄せ、

「剣術試合に、勝つ自信がないと言うか。

 それとも、このあかねに不服でもあるのか」

 目を細めて唐十郎を見据えたが、目尻に笑みが現われている。


 唐十郎は徳三郎に心を読まれているのを察し、徳三郎の意向に合わせた。

「いえ、このように見目麗しき女御おなごを妻に迎えるに、不満などありませぬ。禄が気になっていただけです」

 唐十郎はあかねの傍に寄った。

「あかねさん、妻になってくれるか」

「はい、最初にお目にかかった折から、お慕いしていました」

 徳三郎は驚いた。あかねは唐十郎と初対面ではない。唐十郎と徳三郎を除き、他の者には、はい、と言うあかねの返事しか聞こえなかった。


 この日、夕刻。

 日野道場で唐十郎とあかねの祝言が催された。

 大老堀田正俊と勘定吟味役荻原重秀が、数人の警護と共に、お忍びで祝言に列席した。

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