十三 噂
昼八ツ(午後二時)。
帰宅した徳三郎は特使探索方を集めた。
日野道場の座敷に穣之介と坂本右近、唐十郎と藤兵衛、正太が集ると、徳三郎は、勘定吟味役荻原重秀様の屋敷で大老堀田正俊が話した、剣術試合について説明した。
「日取りはいつですか」と唐十郎。
「梅雨の頃に連絡があろう。その後に御触書が出るはずだ。
それより、藤兵衛、頼みますよ」
「がってんです、先生。任しておくなせえ。正太とうまくやりあすよ」
「くれぐれも、話の出所は明かさぬように。そうせぬと効果がない」
「わかりました」
暮れ六つ(午後六時)。
藤兵衛と正太は表通りの飯屋の小上りに居た。正太に給金を渡し、
「正太、鎌鼬が捕まらねえうちは、仕事がねえだろうから、給金を無駄に使うんじゃねえぞ。まあ、飲め」
藤兵衛は正太の茶碗に酒を注いだ。
「いってえ、なんで大工仕事と鎌鼬が関係するんですかい」
正太は藤兵衛の茶碗に酒を満たし、目刺しを摘まんで茶碗酒を飲んでいる。
ぐっと茶碗の酒をあおり、藤兵衛は周りを気にして小声になった。
「そりゃあ、おめえ、施主は大店が多い。立て続けに大店の主が鎌鼬に殺られりゃあ、他の大店だって、自分たちの身を気にし、御店に出入りする者たちを警戒する。ちょいの間の仕事なんぞ、頼むもんはいねえよ」
「親方は、大店がみんな抜け荷や談合をしてるって言うんですかい」
正太は、酒が半分ほどになった藤兵衛の茶碗に酒を注いだ。正太も小声だ。しかし、鎌鼬と聞こえたときから店の話し声がぴたり止み、客は聞き耳を立てている。
「みんなじゃねえだろうが」
藤兵衛は茶碗に手を伸ばした。藤兵衛が声を潜めた。
「談合潰しや抜け荷の取り締りに、御上が刺客の鎌鼬をさし向けた、と勘ぐりゃあ、身に覚えのある奴はおちおち寝てられねえさ。
酒、飲まねえのか」
藤兵衛は酒を飲み干し、正太の茶碗と自分の茶碗に酒を注いだ。
「はい、酒と肴、頼んでいいすか」
「ああ、頼んでくれ。
そのうえ、剣豪集めに、剣術の試合って言うじゃねえか。
どう考えたって刺客だぜ。こうなりゃ、しばらく仕事はねえよ」
藤兵衛は正太の茶碗に酒を注いで、好きな肴を頼め、と言った。
「女将、酒を二本と、目刺しと和え物を頼みます」
「あいよ」
奥から女将が出てきて、座卓に二本、酒を置いた。
「とりあえず、酒、二本だよ。
親方、刺客は本当かい」
女将は途中から声を潜めている。
「聞こえちまったか」
「すまないねえ。聞く気はなかったんだけど、ここは調理場に近いだろう。勘弁しとくれ」
「確かな話じゃねえんだ。大店の主はみんな警戒してる」
「火の無い所に煙は立たずですかい」と正太。
「そう言う事よな。
おう、肴を頼むぜ。頃合い見て俺には蕎麦をくれ。
正太、好きな物、頼んでおけよ」
「俺も蕎麦を、大盛りで」
「あいよ」
女将は機嫌良く調理場へ戻った。
半時余りが過ぎて二人は飯屋を出た。
二人が飯屋から離れると飯屋の角から人影が現われ、二人を追った。
「親方、つけられてますぜ」
正太は前を見たまま、世間話するように呟いた。
「うむ。そのまま止らずに歩け」
飯屋を出た時から藤兵衛も気づいていた。殺気は無いが気配が尋常ではない。
長屋はすぐ先の大店裏だ。藤兵衛は正太を先へ歩かせてふりむいた。人影と正太の間に藤兵衛が立った。
「まちがったら、ごめんなさいよ。あっしらに何か用ですかい」
人影が歩みを止めた。着流しで刀は帯びていない。髪は町人の結いだ。
「私は越後屋の手代で松吉と申します。先ほど」
先ほど長屋へ行ったが、棟梁が弟子と共に表通りの飯屋に居ると聞いたので、飯屋に行った。蕎麦を食って待ったが時がかかりそうなので外で待ち、どう話をしていいやら思案していた、と松吉は説明した。
「いってえ、何のご用ですかい」
藤兵衛は松吉を見た。
「歩きながら、私の話を聞いてくださいまし。
実は、主、越後屋幸吉の指示で」
松吉の話によれば、江戸市中普請に関係する大店の卸問屋に、御上から価格統制の沙汰があり、その寄り合いの帰りに、信州屋と紀州屋の主が鎌鼬に遭遇したと話した。
「御上ってえのは、いずこのですかい。それに、なんであっしに話すんですかい」
「なんでも棟梁は、特使探索方の配下になったと言うじゃありませんか」
松吉は、御上の要請に従った寄り合いなのに大店の主が斬殺され、次は越後屋の主に鎌鼬の手が伸びる、と警戒していた。
「御上の御沙汰なのに、なぜに主たちが、御上の刺客に狙われるんでしょう。
一刻も早く、刺客の鎌鼬を捕まえて、主をお助けくださいまし」
「鎌鼬は、賊を殺害した刺客だぜ」
藤兵衛は松吉の反応を見た。
「表向きはそうですが、棟梁が耳にしているように、大店の主たちの中にも、御上の御沙汰に反対する者を、御上が鎌鼬なる刺客をさし向けて斬殺した、と見る者もございます」
「飯屋での話、聞いていなすったかい」
「はい、それとなく聞いてしまいました」
「御上からの御沙汰で行なった寄り合いの事、町方に話していいのかい」
「話の出所は明かさず、特使探索方だけにしてくださいまし。主からのお願いです」
「わかった。信じるのは裏を取ってからでいいかい」
「ようござんす。いつでも御店においでくださいまし」
松吉は、くれぐれもよろしくお願いします、と丁寧に挨拶し、飯屋の方角へ引き返していった。
翌日。
皐月(五月)十八日。昼四つ(午前十時)。
唐十郎は藤兵衛と共に越後屋に出向き、主の幸吉に会った。
幸吉は、手代の松吉が語った事を詳しく説明した。
「卸値を今までより下げろ、との御沙汰は、勘定奉行彦坂重治様からですが、勘定所を通した若年寄稲葉正休様からの御沙汰、と聞いております」
「寄り合いで何を話し合ったのか」と藤兵衛。
「はい、いくら御上の御沙汰でも、物が売れなければ値下げはできませんから、普請が始って品物が出まわるようになったら値を下げよう、との事に」
「若年寄稲葉正休様というお方は何者か」
と唐十郎は訊いた。
「はい。天下普請の世話役で、大老堀田正俊様の従叔父様とのお話で」
大老堀田正俊の従叔父が若年寄稲葉正休で天下普請の世話役と知り、唐十郎は驚いたが顔に出さなかった。
「では、不正な談合は行なわれなかったのだな」
「はい、いかにもその通りです」
「わかった。忙しい折に済まなかった」
唐十郎は幸吉に頭を下げた。
「日野様、面手をお上げください。これっ」
幸吉は柏手を打って手代の松吉を呼んだ。現われた松吉はお盆に菓子折りを二つ運んできて、幸吉の前に置き、すぐその場を去った。
「お二人に、これを」
幸吉は、すっと菓子折りを唐十郎と藤兵衛の前へ押した。畳の表を滑る菓子折りの様子から、かなりの重みがあると見えた。
「特使探索方に、このような賂は御免こうむる」
唐十郎は、特使探索方日野徳三郎の甥、日野唐十郎、と名乗っている。賂を受ける理由はない。それに、賂を渡そうとするには、それなりの裏があると思えた。
「お茶請けにしていただく、茶菓子にございます」
「・・・・」
唐十郎は無言で立ち上がった。
「そうですか。でしたら、次の機会に」
幸吉は菓子折りを引っこめた。唐十郎と藤兵衛はその場を去って越後屋を出た。
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