十二 勘定吟味役の伯父

 皐月(五月)十七日。朝五ツ(午前八時)前。

 日野徳三郎は、奉行所から特使探索方を仰せつかった折に指示されたとおり、神田猿楽町にある勘定吟味役荻原重秀の屋敷へ出向いた。

 徳三郎は奥座敷へ通されてしばらく待った。


 横の襖が開き、徳三郎より若い武家が現われ、上座に座った。荻原重秀の父親だろう、と徳三郎は思った。

「特使探索方を仰せつかった日野徳三郎と申しまする。

 此度は、奉行所の命により、参上つかまつりました」

 徳三郎は深々と御辞儀した。 

 徳三郎は勘定吟味役荻原重秀と面識はない。荻原重秀は大老堀田正俊によって勘定吟味役に大抜擢された若者と噂に聞くだけである。


「私は、堀田正俊と申します。荻原重秀に代わり、日野殿にお願いしたき事があります」

「もしやして、大老の堀田正俊様でござるか」

 徳三郎は信じられなかった。大老とは面識がなく、堀田正俊が大老だと噂に聞くだけである。その大老が警護無しに独りで吟味役の屋敷に居るなど考えつかぬ事である。剣術道場の主とは言え徳三郎は浪人である。大老が直に徳三郎に会うなど想像すらできなかった。


「重秀の伯父と申しておきましょう。私の話を聞いて下さるかな」

 堀田正俊は徳三郎に微笑んでいる。

「伯父上の話とあらば、聞かねばなりませぬな」

 徳三郎はおちついて笑いながら堀田正俊の意向に合わせた。

 徳三郎の承諾に、堀田正俊は柏手を打った。

 横の襖が開き、三人の若侍が酒肴の膳を運んできた。堀田正俊と徳三郎の前に膳を置き、残り一つを襖を背にした位置に置き、若侍の一人が膳に着いて二人が退室した。


「日野殿。これは私の甥で、この屋敷の主の荻原重秀と申します」

「荻原重秀にございます。伯父が特使探索方の日野様にお願いしたき事があると申しますので、御足労頂きました」

 荻原重秀は深々と徳三郎に頭を垂れた。


 徳三郎は、仰せつかった特使探索方は大老堀田正俊の策と理解した。

「荻原さま。面手をお上げ下され。

 ここだけの事にします故、一つ、お教え下され。

 特使探索方は、正式には、どなた様の配下ですか」

「表向きは町奉行ですが、実際は、我が伯父の大老堀田正俊の意を汲んだ、勘定吟味役のこの私、荻原重秀の配下です」

「然らば、どのような事をすればよろしいのでしょう」

 すると堀田正俊が口を開いた。

「なあに大した事ではござらぬ。酒など飲みながら、伯父の話を聞いて下され」

 堀田正俊がそう言うと、荻原重秀が徳三郎に膝詰めで近寄り、杯を取るよう促した。


 荻原重秀が徳三郎の杯に酒を満たすあいだに、堀田正俊は自ら己の杯に酒を注ぎながら尋ねた。

「鎌鼬と呼ばれる事件の特使探索は如何にか」

「はい。巷では鎌鼬と呼ばれておりますが」

 徳三郎は、これまでの検視結果と、与力の藤堂八郎と唐十郎たちの探索を説明した。


 堀田正俊は杯を口へ運び、一口飲んで言った。

「日野殿は、此度の件を如何様に思っておいでか。こう聞くのも妙でござるな。

 この甥が言うには、

『讃岐屋の奉公人を皆殺しにすれば、夜盗は捕縛されたなら死罪になったはず。

 しかし此度は、夜盗は鎌鼬に殺られ、抜け荷や談合をしていた讃岐屋はきつい咎めを受け、抜け荷の儲けを没収されて商い停止の、手緩い妙な沙汰を受けた。

 鎌鼬の出現で、町奉行所と評定所の手間が省けた』

 と申しておる次第で、喜んで良いやら、私も途方に暮れておる。

 無礼講でござる。手酌でやって下され」

 堀田正俊は徳三郎に杯を空けるよう仕草で示し、また杯を口へ運んだ。徳三郎の考えを聞こうとしている。

「・・・・」

『鎌鼬の出現で、町奉行所と評定所の手間が省けた』と聞き、徳三郎は何も言えずにいた。鎌鼬の出没に目をつぶり、捕縛に手を抜けと言う事か、と徳三郎は思った。


「日野様。ここでの話は、ここだけに留め置き下され。他言無用にござる」

 荻原重秀がそう言った。

「あまり形式ぶってもいかぬ。重秀、無礼講じゃ」

 堀田正俊が膝を崩して胡座をかいた。

「はい、伯父上。実は日野様」

 荻原重秀が説明しようとすると堀田正俊が口を開いた。


「私が話そう。

 実は此度、公儀剣術指南役補佐を抜擢すると称して剣術試合を催し、剣豪を探そうと思っておるのだ」

 堀田正俊は手酌でぐいぐい飲みはじめた。剣豪ならぬ酒豪のようだ。

「鎌鼬を炙り出すのですか」

「巷はそう思うだろうが、そうではない。

 日野殿の元に、優れた剣豪がおるであろう。あの者二人が勝つに決まっておるではないか。アッハッハッ」

 堀田正俊は唐十郎と穣之介を調べ上げているらしかった。

「それにしても、二人を良き若者に育てましたな」

 昔を懐かしむように堀田正俊がそう言った。

 徳三郎は、鎌鼬に心当たりがあった。だが、話さなかった。


「二人が勝ち残ったら、戦わせるおつもりか」

「なんの、二人を勝者にして指南役補佐とし、特使探索方に加わってもらう。

 そこで日野殿に頼みじゃ。剣術試合をそれとなく江戸市中に拡めて欲しいのだ」

「如何様に拡めまするか」

「二人とも近う寄れ。公儀勘定方が大老のお墨付きで」

 正俊は説明した。


「なんとっ!」

「堀田様!いや、伯父上!」

 堀田正俊の妙案に、徳三郎と荻原重秀は舌を巻いた。

「伯父の頼み、聞いてくれるか」

「はい、剣術試合の日取りをお知らせ下さい」

「承知した。これで良いのじゃ、良いのじゃ。それでのうては、得体の知れぬ鎌鼬相手に、特使探索方が困るではないか。アッハッハッ

 さあ、飲め、飲め!」

 伯父上は至って機嫌が良い。


 その後。

 徳三郎は堀田正俊と荻原重秀に、武家の知らぬ町人や百姓の事を話し、午後帰宅した。

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