第34話 領主の帰還

 フェンリルがいた場所は、彼の血で赤く染まっていた。ユリウスの心臓が大きく鼓動する。

(フェンリル……!)

「オルトロス」

 ユリウスは動揺を押し隠すように、努めて静かにオルトロスの名を呼んだ。彼は、ユリウスの言いたいことを理解したように小さく頷き、フェンリルを抱え上げた。それから、トルエノにも声をかける。

「フェンリルは城に連れ帰る。すぐに医官の手配をしろ」

 トルエノは、頭上を旋回していたウルに「クレアシオン殿を呼んできてくれ」と叫んだ。

「わかったー」

 ウルの乗った大きな鳥は、あっという間に上空に舞い上がると姿を消す。トルエノに町民たちが無事に帰還できるように、護衛をするように指示をしたユリウスは、オルトロスに抱えてもらい、フェンリルとともに城を目指す。

 オルトロスの健脚には舌を巻く。雪深い森の中を、いとも簡単に走り抜けていくのだ。これが獣人けものじんの力。

「この男は、お前のなんだ?」

 ふとオルトロスが尋ねてきた。

(なんだ、と聞かれても。フェンリルは私のなんだ?)

 ユリウスはこめかみを抑えた。先ほどからずっと。頭の芯をなにかにぎゅっとつかまれているみたいに、鈍い痛みが続いている。

(あの時からだ)

 戦場に到着した瞬間。トラの獣人の鋭い爪が。フェンリルに襲い掛かるところだった。城から、オルトロスと共にこの場に来た瞬間。たくさんの人々がいがみ合い、混乱していたというのに。ユリウスの視界にはフェンリルの姿だけが飛び込んできたのだった。

(あの時、フェンリルしか見えなかった。そして。私は過去にも同じ体験をしている——)

 フェンリルの危機に、考える間もなく、からだが動いていた。彼を助けたい——。心がそう叫んでいた。そしてそれは、今回が初めてのことではなかったということ。

 頭の中でなにかが弾けた瞬間から。頭痛が続いていた。

(記憶はないというのに、からだは覚えているというのか。私は確かに、フェンリルを救おうと、同じ行動を起こしたことがある)

「私にはわからないのだ。一度、同じ場面に出くわしたことがある気がするのだが。思い出せぬ。この男のことを思い出そうとすると、頭が痛む」

 ユリウスの様子を横目で見ていたオルトロスがぽつりと言った。

「お前は記憶を抜き取られているのかもしれない」

「記憶を?」

「そうだ。ある特定の部分だけを抜き出す魔法があると聞いたことがある。お前はその魔法にかけられているのかもしれない」

「フェンリルの記憶だけ……を。なぜだ」

「それは魔法をかけた者にしかわからないが。お前が、あの男のことを覚えていると、不都合なことがあるのかもしれないな」

「不都合なこと……?」

 ユリウスは困惑していた。オルトロスは黙って城を目指していたが、「まあ、とりあえず、この男の治療が先だ」と言った。

「冷たくなってきている。死ぬぞ。この男」

 ユリウスの心は、ざわざわと波打った。不安な気持ちに支配され、目の前が滲んで見えた。しかし弱い心に負けてはいられない。ユリウスは、負の感情を振り払うかのように、首を横に振った。

「死なせはしない。必ず助ける」

 ぎゅっと唇を噛みしめて前を向く。

 オルトロスは「わかった。急ぐぞ」と言ったきり、口を閉ざした。

(私は知りたい。この男が、私のなんなのかを……。いや。過去など、どうでもいいのかもしれない。今の私にとって、この男は——)

 フェンリルとユリウスを抱えたオルトロスは走る速度を上げ、城へと滑り込んだのだった。





 城に到着すると、コルヴィスが血相を変えて飛び出してきた。

「おかえりなさい。ポコタ。フェンリル様は……?」

「出血が多すぎる。フェンリルを助けて。コルヴィス。ウルが医官を呼んでくる。すぐに治療を——」

 そう言いかけた瞬間。ホール内に、重々しい声が響いた。

「それはこちらでやる。師団長を彼の部屋へ運びなさい」

 ユリウスが顔を上げると、両階段の上り切ったそこには初老の男性がすっくと立っていた。

(叔父様……)

 ユリウスの父、ノウェンベルクの弟であり、この北部の領土を納める領主でもあるランブロス侯爵だった。

 彼は王都に行っていると言っていたが、どうやら帰還したようだった。コルヴィスは、心配気な視線をユリウスに寄越した後、「フェンリル様をお連れしなさい」と声を上げた。

 すると、周囲から騎士たちが姿を現す。要塞に騎士は残っていないと聞いていたが。ランブロスが引き連れてきた者たちだろう、とユリウスは思った。

 彼らは手際よく、オルトロスからフェンリルを受け取ると、廊下の奥へと消えていった。ユリウスはそれをじっと見送った。

(どうやら、歓迎されていないようだ)

 広間に残っている騎士たちは、ユリウスとオルトロスに対して剣を構えていたからだ。

「ランブロス様」

 しかし、それに対して異論を唱えたのはコルヴィスだった。

「ポコタは勇気ある獣人です。彼は私を助けてくれました。それに、フェンリル様のことも、こうして……」

 しかし、ランブロスは厳しい声色で言った。

「コルヴィス。獣人は保護されるべき存在だ」

 コルヴィスは唇を噛んだ。

「コルヴィス、大丈夫」

 ユリウスはそう言った。彼はなにか物言いだげに口を開く。しかし、ユリウスは両手をあげた。

「従います」

 ランブロスは「よろしい」と口元を引き締めると、騎士たちに「この者たちを連れていけ」と指示をした。

 彼は規範を破るような男ではないことを、ユリウスは知っている。オルトロスと自分なら、このくらいの騎士を蹴散らすのはわけない。しかし、それではなんの解決にもならない。

 オルトロスはユリウスを見る。ユリウスは首を横に振って見せた。すると、その意図を組んだのか。オルトロスもおとなしく両手をあげた。

「なんとでも好きにするがいい。抵抗するつもりはない」

「素直でよろしい」

 ランブロスはしっかりと頷くと、ユリウスに一瞥をくれた後、広間から姿を消した。





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