第32話 王と神の使い
止まっていた時間が動き出す——。途端に、背中に激しい痛みが襲った。しかし、痛みにかまけている場合ではない。フェンリルは突然に現れたユリウスを抱きかかえたまま、その場から飛び退いた。
それとほぼ同時に、トルエノがフェンリルとトラたちの間に躍り出たかと思うと、その鋭い槍先を、トラの喉元に突きつけた。
「引け。死にたいか——」
トルエノの低い声に、トラたちは飛び退いた。
「クソジジイが……っ」
「そのクソジジイに圧されているのは、どこのどいつだ? 若造ども」
トルエノはトラたちを威嚇しつつ、「師団長。平気ですか?」と叫んだ。
フェンリルは脇腹を伝う血の感触に、顔をしかめた。からだの下にいるユリウスは眉間にしわを寄せ、怒ったようにフェンリルを見上げていた。
「なぜだ。なぜかばった」
「それはおれのセリフだ。なぜ、あなたはいつも。おれの命を救おうとする。もうごめんです。あの時のようなことは……」
「あの時……、だと?」
ユリウスの瞳は翳る。
(ああ、そんな顔をしないで。いつもそうだ。一緒にいたい。一緒にいたいのに。おれは、あなたを不幸にする)
「あなたが無事ならそれでいい。おれはどうなっても。……っ」
フェンリルの血が甲冑を伝い、ユリウスの上にも滴り落ちた。ユリウスは「喋るな」と声を荒上げた。
「甲冑があったとはいえ、傷は深い。命に係わる。これ以上は……」
「いいえ。死んでもいいのです。一度はあなたに救われた命。あなたのためなら、惜しくはない」
「なにを言う。お前は……。お前はいったい……」
ユリウスの細い指が頬に触れる。触れ合ったその場所が熱かった。ユリウスに触れられる度、フェンリルのからだの中には、雷のような刺激が駆け巡る。びりびりと指先まで痺れるのは出血のせいではない、とフェンリルは自覚していた。
しかし目の前が霞む。かなりの出血のようだった。フェンリルは口で浅い息を繰り返した。そんな彼のからだを、ユリウスはしっかりと抱きとめた。それから彼は「オルトロス」と大きな声を上げた。
顔を上げるとそこには、フェンリルがあの夜の森で、一太刀浴びせた狼の
「なぜ、その者と?」
フェンリルが困惑していると、ユリウスは「あの祭りの夜に出会った」と答えた。
「あの夜。オルトロスは確かに子の服を抱えていた。彼は、人間の町で一族に必要なものを調達していたようだった。オルトロスは、獣人である私が、人間の中にいたのでは、不幸になるのではないかと心配し、迎えに来てくれた」
ユリウスは目を細めて言った。
「獣人たちと一緒に暮らすつもりはない。だが、お前たちのことが心配だった。だから、ついでに連れてきてもらったのだ」
フェンリルは呆れた。
「危険だとは思わなかったのですか。根拠のない判断は、命の危機につながるものです」
「根拠はあった。お前がいるという根拠だ。だが。お前にこんな怪我をさせた。反省している。私の身勝手な行動が生んだ結果だ」
ユリウスの瞳は涙で潤む。フェンリルは彼の頬をそっと撫でる。
「泣かないで。あなたが無事でいてくれれば、それでいいのです」
ユリウスは唇を噛んだ。人前で泣くことも許されぬ身。彼はこうして涙を堪えて生きてきた。
すると、オルトロスが「どうする気だよ?」と声を上げた。彼は人間と獣人との騒動を見渡して、困惑していたようだった。ユリウスは目元を拭うと、表情を引き締めてから、オルトロスに言った。
「私は、この騒動を止める。お前はどうだ? オルトロス。私の意見に賛同するか。それともこのまま、どちらが優位か白黒をつけるか」
ユリウスの問いに、オルトロスは「協力しよう」と頷いた。
「おれだって、人間と喧嘩したいわけじゃない」
ユリウスは「よかった」と軽く笑みを浮かべると、フェンリルに言った。
「この場は私が鎮める。お前はここにいろ」
(やはりあなたは、王だ)
ユリウスのくもり一つない、まっすぐな瞳に見据えられると、フェンリルは従うしかない。フェンリルだけではない。オルトロスもじっとユリウスを見下ろしていた。
——生まれながらの王。人を従わせる力が。あなたにはある。
力で押さえつけるのではない。彼のその人柄、そして意思の強さ。皆が彼にひれ伏す。
混迷をきたすこの場を収めることなど、不可能に見える。だがしかし、ユリウスの横顔を見つめていると、その不可能なことであっても、可能になってしまうのではないかという気持ちになった。
フェンリルは膝に力を入れ、からだを起こした。
「無茶をするな。お前はここにいろと言ったはずだ」
「大丈夫です。おれにお手伝いできることがあるならば、なんなりとお申しつけください」
フェンリルはユリウスの瞳をまっすぐに見返す。彼は「わかった」と小さくうなづいた。フェンリルの意志を汲み取ってくれたのだろう。
「では、二人で私を持ち上げろ」
ユリウスはオルトロスにも手を差し出す。フェンリルとオルトロスは小柄なユリウスのからだを高らかに持ち上げた。
ふとオルトロスを視線が合う。彼はなにも言わなかった。自分に傷を負わせた相手であるフェンリルを目の前にして、こうも冷静でいられるのか、と感心した。
どうやら、獣人たちは、理性だけで生きているわけではないようだ。この状況を理解し、そしてそれに見合った立ち居振る舞いができるということだ。フェンリルは獣人たちへの理解が誤っていたことを恥じた。
「背中の傷。コトラの仕業か。あいつは血の気が多い。子が生まれる」
オルトロスは静かにそう言った。
「ああ、聞いた。すまない。お前たちの暮らしを脅かしたいわけではない」
「お互い、願うことは同じなのだろう。だがしかし、自らの願いを強く求めれば、他者の願いとぶつかるときもあるということだな」
「うまくかみ合えば、争いなどない世界になるのだが。そううまくはいかないのが世の中というものだな」
「そういうことだ」
オルトロスは口元を緩めたかと思うと、「どけ」と言った。
「ポコタを支えるのは、おれ一人でも十分だ。死にぞこないは横になっていろ」
「お前に任せるとでも思うか?」
二人が言い争いになっているのを見て、ユリウスは呆れた顔をしていた。
「お前たちが喧嘩をしてどうする。この場は私に預けろ。すべては終わってからだ」
彼は咳払いをすると、周囲の人々に向かって声高らかに言った。
「戦い止めい!」
彼の声は、騒々しい戦場にこだまする。周囲の人々が手を止めると、それが波紋のように広がり、いつの間にか静寂が訪れた。
ユリウスは腕を広げ、両者に働きかける。
「話し合うのだ。お前たちは力が引き起こした悲劇を見てきたはずだ! お前たちには言葉がある!」
ユリウスのその声は、その場を黙らせる凛とした響きがあった。町民の一人が「見ろ! タヌキだぞ!」と叫んだ。
「おお、本当だ! タヌキだ。神の使いだ!」
町民たちはユリウスの姿を見るや否や、次々に地面にひれ伏す。獣人たちはなんのことなのかさっぱりわからない様子で困惑していたが、ユリウスを掲げている人物が、自分たちの長であるオルトロスだということに気がついて、戦いの手を止めた。
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