第15話 生きるということ


「聞こえるか。おれの鼓動が。これが生きているということだ。お前も生きている。同じように。命とは、神が与えたものではない。お前を大事に思い、産み育てた母や、父がいる。人は誰しも必要とされて生まれてくるのだ。お前のことを必要としている者がいる」

「私を、必要……だと?」

 ユリウスは黙り込んだ。

(幻だ。そんな人間いるものか。皆、私が遠ざけた。シャウラの甘い言葉にそそのかされて。大事な人たちをみんな遠ざけたのだ。きっと怒りを通り越してあきれているに違いないのだ)

「私を必要とする者などいるものか……」

「そうだろうか。少なくとも、一人はいるぞ」

「誰だ」

「おれだ」

 ユリウスの心臓は大きく跳ねた。唇がぶるぶると震えて、言葉が出ない。

「お前が……私を? ひ、必要としている……だと?」

「そうだ」とフェンリルは頷いた。

「どこにも行く必要などない。ここにいればいい。王都の者は追ってこない。ここにいれば、怖い思いをすることもない。そしておれがいる」

「お前は……、一体……」

(この男は、なにをいっている。なぜだ。なぜ、そんなに優しくするのだ?)

 混乱していた。フェンリルという男は、どうして自分に優しくするのか。その理由がわからなかった。素性もわからない、タヌキの獣人けものじんだ。ここまでしてもらう筋合いはないというのに。

 フェンリルはいつもユリウスのことをまっすぐに見つめてくる。その瞳は慈愛に満ちており、ユリウスはくすぐったい気持ちにばかりなる。

 狼狽え、言葉に詰まっていると、フェンリルがむっくりとからだを起こした。彼の鍛え上げられた美しい肢体が露わになる。ユリウスは、慌てて両手で顔を覆った。

「なぜ、お前はいつも裸なのだ!」

「これは失礼。習慣というやつだ」

「こんなに寒い場所なのに?」

「寒いからこそ、室内は暑いくらいだ。これが北部の暮らしというものだ」

「北部の人間は、みな寝るときに裸になるというのか?」

 ユリウスは、指の間から見え隠れするその逞しい肢体に、耳まで熱くなった。

「そう恥ずかしがる必要はないだろう。ポコタとおれのからだは、同じ造りだ」

「そ、そういう問題か! 服を着ろ、服を!!」

 フェンリルは「わがままなお嬢様だ」と笑ったかと思うと、そばにある寝具をひ引き寄せ、それを腰に巻いた。それから肩をすくめて見せる。ユリウスは咳払いをした。

「お前といると、調子が狂う」

「そうか? よく言われることだ」

 フェンリルの瞳は、ユリウスをじっと見据えていた。その瞳に、あっという間に吸い込まれそうになる。

(ああ、どこだ。この瞳を、どこで見た?)

 からだの芯が熱くなる。けれど、彼のことを思い出そうとすると、頭のどこかがズキズと痛んだ。

「私はなにも覚えてはいないのだ……」

(違う。覚えていないのはお前のことだけだ……)

 フェンリルの漆黒の瞳は翳りを見せた。彼はただ黙って近くに脱ぎ捨てられている服に手をかけた。ユリウスの心はチクリと痛む。

(まただ。この男が悲しい顔をすると、私の心も痛む……)

 身支度を整えたフェンリルは「人手がない」と言った。

「補充の人員が来ないのだ。お前も、ここにいるつもりなら、自分のできることをしろ。働けば、寝る場所と食い物くらいは確約できる」

「しかし……。私にできることなどあるのだろうか」

「そんな難しいことを頼むつもりはない。お互いに悪い話ではなかろう」

「森に行く」と言ってみたものの、そんな勇気も湧いてはこない。追手が来たときにモストロに逃れても遅くはない。ユリウスは小さく頷いた。

「わかった。世話になろう」

「ああ、そうしてくれると嬉しい」

 彼はユリウスがいるベッドのすぐそばまで戻ってくると、そっとユリウスの腕を握った。なにごとかと、からだを固くして身構える。フェンリルはユリウスの目の前で屈み込むと、そっと手の甲に口づけを落とした。

 目の前に傅くフェンリルの伏せられた睫毛が震えて見える。なんだか気恥ずかしい気持ちになり、ユリウスは慌ててその手を引っ込めた。

「私は……ただの獣人だ。丁重に扱われるような者ではない」

 フェンリルは立ち上がると、「ならその偉そうな口調をなんとかしろ。誤解を招く」と言った。

「そうだな。……いや、違った。そうであろう……。いやいや、なんだ。なんと言うのだ?」

(私の言葉は横柄だというのか。しかし、どういう言葉遣いがいいというのだ!)

 ユリウスは無知を恥じ、両手で顔を覆う。

「いや。いい。そのままでいいだろう。余計におかしなことになりそうだ」

「からかったのか?」

「面白いからな」

「なんと性悪な奴だ!」

 両手を握りしめて、フェンリルをぽかぽかと叩く。フェンリルは笑みを浮かべてユリウスの両手を優しく握った。

「な。なんだ。なんなのだ?」

「いや。おれは、嬉しいのだ」

「なにが嬉しいのだ? わけがわからないことを言うな。不安になる」

「そのうち思い出すだろう。きっと。思い出させてみせるから」

 フェルリンのその大きなからだに抱きすくめられてしまうと、返す言葉もない。

(やはり、この男は私を知っているのだ。いくらタヌキの姿になったとしても、この男は私を知っている——)

 心が熱くなる。こんなにも感情が揺さぶれられることなど、今までにあっただろうか。昔。あった。あったような気がする。けれども、すべては霧に包みこまれたように不明瞭で思い出せない。

 王宮で過ごした日々は、ユリウスを屍に変えていた。いいことなど一つもなかった。そう思っていたのに。過去に彼と出会っていたというのか。どうして自分はその記憶がないのだろうか。

(わからない。なぜだ。わからないことばかり。私の知らぬことを、この男は知っているというか?)

 ユリウスの止まった時間は、ここにきて確実に動き出していた。

(ここにいてもいいのか。……いや。ここにいたい。私は初めて、自分の意志でここにいたいと思っている)

 ユリウスはそっと手を伸ばし、フェンリルの背中にそれを添えた。からだがぴったりとくっつくと、彼の鼓動が、熱が伝わってくる。まるでその熱に焼かれてしまいそうだった。







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