第8話 魔物と無知なる王


 ユリウスは言い訳をするように「本当だ。私は名を覚えていないのだ」と言った。口を開くほどに、それは言い訳染みていて、無意味な気がする。

 ユリウスはフェンリルを見返した。蒼い湖面のような色の瞳が濡れ、憂いの色が浮かぶ。どうしてだろうか。ユリウスの胸がチクリと痛んだ。

(なぜだ。なぜ、そんな悲しい顔をするのだ。私はお前を知らない……)

 彼のことを思い出そうとすると、頭の後ろがズキズキと疼いた。思わず手で頭を抱えた。

「どうした?」

「わからない。ただ思い出そうとすると、頭が痛い」

「そう、か。おれのことは覚えていないということだな?」

「本当になにも覚えていないのだ」

 ユリウスはフェンリルを見返した。彼はしばらく、真剣な眼差しだったが、諦めたように溜息を吐く。

「いずれ思い出す時もくるだろう。それまでは、ポコタとしてここにいてもらうことになる。皆が特別扱いはしない。それは覚悟しておくことだ」

「特別扱い、だと? 私は、ただの……、獣人だ。特別扱いなど、されるような人間ではない……」

(……そうだ。私は。ただの獣人。王などではない。王とは名乗れない)

 自分自身が嫌いだった。王家に生まれたことも呪っていた。なのに、その地位が失われたというのに、喜ぶことができない自分に驚いていた。

(昔から、王家の呪縛から逃れたいと思っていたはずなのに。自由を手にいれたというのに。なぜ、嬉しくないのだ?)

 黙り込み、うつ向いていると、フェンリルはその手を両手で握り返してきた。温かい手だった。

「上を向いて。ここに流れ着いたのもなにかの縁。今度こそ、この手を離しはしない」

 ユリウスの心臓がドキンと大きく鼓動した。

(やはり、この男は私を知っている)

 ユリウスは動揺していた。自分の正体を隠すためにあの実を口にしたというのに。いとも簡単に正体に気がつかれてしまうというのであれば、なんの意味もないことだ。今のユリウスにとって、それは脅威である。

(この男は、私を王宮に突き出すかもしれない)

 王宮の騎士だ。王宮に追われている王を見つけた、となれば、それは当然のこと。

(この男のことを早く思い出す必要がある。最優先事項だ)

 目の前にいる美しい男のことを思い出そうとするが、やはり頭痛が悪化するばかりで、彼のことを一つも思い出せそうになかった。

 じっと黙り込み、視線を伏せると、フェンリルはそっと手を放した。

「おれたちは仕事に戻る。この部屋でゆっくりと休むがいい」

「これから、森に行くのか?」

 フェンリルに握られていた手が熱い。その温もりが恋しくて、つい顔を上げたが、気恥ずかしい気持ちになり、慌てて両手を握りしめた。

「モストロの魔物を討伐する。それが我々の任だ」

 ユリウスの国は小さい。しかし自然に恵まれた場所にあった。東西を山脈が通り、山に囲まれているおかげで、季節というものがある。冬は雪が降り、春になると、その雪解け水を使い、農耕が盛んになる。夏は暑い日差しが照りつけ、農作物はすくすくと育ち、秋になると収穫の時期を迎える。国内にある山々からは鉱物が採掘され、農耕業ともに充実している豊な国だった。

 そのおかげで、他国からの侵略の危機を何度も経験してきた歴史があるのだが、いずれも恵まれた地形を生かし、撃退に成功している。

 得に北の国境にある森モストロには、北方の隣国も恐れる魔物たちが巣食う。魔物の存在は知っていたが、王都という安全地帯にいた時は、まるで他人事のように思えていた。だが、今は違う。その脅威がまさに身近にあるというのだ。ユリウスは身震いをした。

「魔物は見たことがない」

 フェンリルは苦笑した。

「王宮はその存在を隠している。国民たちに無用な混乱を招きたくはないからな」

「王都が平和でいられるのは、お前たちの働きがあってのこと、というわけか。魔物と戦えるのか? 人間が」

「ああ、ここには百戦錬磨の手練れが多い。皆、自分の好きな武器で戦う。魔法を使える者もいる。魔物と戦うのも、すっかり慣れっこだ。ここに配属されて、長くいる者が多いからな」

「王都には戻らないのか」

「戻らないのではない。戻れないのだ。帰還の命が来た者は一人もいない。帰れるとしたら、棺桶に入ったときだろうな」

 ユリウスは息を飲んだ。

 自分が無知な王であったことを恥じるしかない。うまくやっていると思っていたのは大間違いだったのだ。

「ここに送られてくる者は、王都で用なしになったやつばかりだ。増援も見込めなければ、帰還もできない」

(ここは荒くれ者が集まる場所)

「お前もなにかしでかしたのか?」

 はったと気がついて、フェンリルに尋ねると、彼は「そうだ」と笑った。

「お前は、いったい何をしたのだ? 王宮に反旗でも翻したか」

「今の王宮にだったら、そうするかもしれないな。頼りない王に、国民はうんざりしている」

「頼りない王……。みんな、そう思っているのか」

 ユリウスの問いに、フェンリルは「当たり前だろう」と答えた。黙り込んでいると、フェンリルは続けて言った。

「一度も姿を見せないだろう?」

「え?」

「国民の前に姿を見せない。戴冠式以来。我々国民は王の姿を見ていない」

「王は、病気がちだ、という噂があったのではないか」

「そんな噂は嘘だ、というのが国民の大半の意見だ。シャウラを黙らせることもできない臆病者の王。シャウラの傀儡。国民に背を向けた王……。そんな噂がある」

 ユリウスは目の前がチカチカとした。

「お前は、そんな噂を信じるか?」

 そっと視線を上げると、フェンリルは笑みを見せた。

「さあな。おれにはわからない。こんな辺鄙な場所に飛ばされて四年。王宮のことは一つもわからない。王は本当に病に伏しているのかも知れないな」

 フェンリルの顔から笑みが消えた。ユリウスも黙り込んだ。自覚していたこととは言え、こうして他人から突きつけられると、心が痛んだ。

「まあ、それはそうと。ここにいる者たちに『なぜ、ここに来たのか』と問うのは止めておけ。殺されるぞ」

 先ほどまで、ここにいたウルやトルエノを思い出す。確かに。彼らは、フェンリルと和やかに話をしていたが、時折、不気味な気配を感じた。あれは、騎士たちが持つ、独特の雰囲気。死線を幾度も超えてきた男の持つものだった。

「わかった。余計なことは聞かぬ」

「賢明だ」

 フェンリルは口元を上げると、ユリウスの頭を撫でた。

「なんだ?」

「不安そうな顔をしている。大丈夫だ。ここにいれば魔物は襲ってはこない。夜は外に出るな。おれたちも不在で手薄になるからな」

 彼はそういった。

「そんなに不安そうな顔をしていたか?」

「していたさ」

 フェンリルの笑顔は眩しい。なぜだか、ユリウスまで嬉しい気持ちになる。頭のてっぺんまで熱くなった。フェンリルは「さて、行ってくるか」と腰を上げた。

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