第7話 名前
フェンリルが出て行ったあと、女中たちが二人やってきて、あれでもない、これでもないと着せ替え人形のように服を着せられた。王宮にあるものとは違い、どの衣類もくすんだ色をしていて、華やかさに欠けるものばかりに驚いた。
彼女たちは、ユリウスの耳を触りたがった。「別に構わない」と答えると、容赦なく耳を撫でられる。するとくすぐったくて、からだがもぞもぞとした。どうやら、タヌキの耳は本物で、飾り物ではないようだ。
自分は本当に
一人は自分を救ってくれた男フェンリル。彼は北部警備師団を取りまとめている師団長だと言った。それから、副師団長のトルエノと、ウル。事務官のコルヴィス。彼らはそれぞれにそう名乗った。
トルエノはかなり年を重ねてはいるものの、強靭な肉体を持っている。長身なフェンリルよりも一回り以上大きく見える。その隣にいるウルも、鋭い眼光が印象的だった。二人はフェンリルと同じ、騎士の服装をしていた。
コルヴィスは、生成色のシャツに鼠色のベスト、丸い眼鏡をかけている。彼は神経質そうに、眼鏡の位置を何度も直していた。
「名はなんという? どこからきた」
フェンリルはユリウスを見ていた。本当の名を明かせば、勘のいい者たちは、ユリウスの正体に気がつくだろう。ユリウスは首を横に振った。
「わからない。自分の名も、どこから来たのかも覚えていない」と答えた。そこにいた四人はそれぞれに顔を見合わせた。
「あの濁流の中を流されてきたんだ。どこかで頭を打ったのかもしれないですね」
ウルの言葉に、コルヴィスは不満を漏らす。
「獣人を見つけたら、報告する義務があります。さっそく、王都に報告を上げ、しかるべきところに送り届けましょう」
「しかるべきところって、どこだよ?」
ウルは意地悪そうに、にやにやと笑った。
「それは……、王都です。獣人たちは保護の対象ですから。王都の保護機関に送らなくてはいけません」
「保護機関なんて名ばかりだろう? 絶滅しないように、同族同士で繁殖させるか、相手がいないやつは、貴族に売り飛ばされるって話じゃないか」
「そんな噂を信じてはいけません。あそこは王宮で運営している正当な機関です」
「またまた。きれいごとばっかり言うんじゃないよ。お嬢ちゃん」
「誰が、お嬢ちゃんですか!」
揶揄われたコルヴィスは顔を真っ赤にして怒っているが、ウルは相手にするつもりはないらしい。すぐに真面目な表情を見せてフェンリルを見た。
「タヌキって珍しい獣人なんですってね。見つけた時の、身なりがよさそうでしたから、どこかの貴族の所有物かもしれませんよ。獣人を個人で勝手に保護機関に連れて行ったら、後々、問題になりませんかね」
フェンリルはその細くて長い指を顎に当てると、なにやら考え込んでいるようだった。
(保護機関は、獣人たちを保護する優良な機関だと聞いていたが。そうではないというのか? 相手がいない者は貴族に売られていくだと? そんな話はきいたことがないが……)
ユリウスは困惑していた。保護機関の存在は知っている。だが、どのようなことを行っているのか、詳しい報告は一度も受けたことはなかった。
王座に座ってから、いろいろなことを見せられ、そして聞かされてきた。自分はそれがすべてだ、と信じていたというのに。
(私が見聞きしてきたことは、偽りだった、とでもいうのか……)
胸の奥がざわざわと波打つ。不安がユリウスの中で増長しているのだ。ユリウスは視線を伏せ、自分の中の不安を押し込めようと必死に戦った。深呼吸を繰り返しながら、そっと視線を上げると、ふとフェンリルの視線とぶつかった。
まっすぐなその視線は、まるで心の中を見透かされているようだ。ユリウスは慌てて視線を反らす。彼は誰にでもそうなのだろうか、とユリウスは速まる鼓動を抑えるために、胸のあたりに手を当てた。
その間にも、ウルとコルヴィスのやり取りは続いている。
「貴族が保護機関から獣人をもらい受けるのは、正規なやり方じゃないわけですから。このタヌキちゃんの出どころが明らかになると、困る貴族様がいるってことですよ。これは内密に調査するほうが、円満な方法じゃないでしょうかね」
ウルという男は、なかなか知恵が回るようだった。
コルヴィスは「ううう」と唸った。それを静観していたフェンリルが口を開いた。
「今すぐにどうこうする必要もなさそうだ。おとなしいしな。ランブロス候の帰還を待ってからでも遅くはない」
コルヴィスは「そうですね」と肩を落とした。ウルは「へへん」と自慢げに鼻を鳴らす。どうやら、この二人は仲が悪いようだった。
王都に送り返されるかもしれない危機が先延ばしになり、ユリウスはほっと胸を撫でおろす。フェンリルも柔らかい笑みを見せた。
「それにしても、名がないというのも困るものだ。どうする? トルエノ」
両腕を組んで目を閉じていたトルエノは「そうですね」と言った。
「昔、タヌキの童話を読み聞かせられたことがありましたな。童話の主人公、名はなんと言ったかな……、そうだ。ポコタ。ポコタです」
「ポコタ!?」
ユリウスは声が上ずった。フェンリルは口元を上げて笑った。
「なんだ。いい名前ではないか。嫌か? どうせ本当の名を思い出すまでの間だけだ」
「そ、それはそうだが……」
(なんとも間の抜けた名前だ)
「嫌なら、一日でも早く本当の名を思い出すのだな。ポコタ」
「う……」
(どうやら、この男は意地が悪いようだ)
ユリウスは悔しい気持ちになって俯いたが、フェンリルはお構いなしだ。
「それでは話は終わりだ。ランブロス候がお戻りになるまで、ポコタはこの砦で面倒をみる」
フェンリルの意見にウルが「賛成~」と両手を挙げた。
「ここ数年、同じメンツだし。たまに新しいやつが入るのは新鮮でいいですよね」
トルエノも「そうだな」と笑った。コルヴェィスは額の血管を浮き上がらせる。
「かなりギリギリでやり繰りをしているのですよ。人が増えるということは、それだけ大変でして……」
「いいではないか。おれの食事をポコタに回してやってもらって構わないぞ」
「師団長! そんなこと、できるわけがないじゃないですか」
コルヴィスは大きくため息を吐いた。
(ランブロスが戻るまでに、どうするか決める。時間的余裕ができたということだな)
正直、これから先のことが見えない。ユリウスには、これからのことを考える時間が必要だった。
名乗りを上げたところで、このタヌキの姿では信じてもらえるわけもない。仮に正体が明らかになったとしても、捕らえられ、あの不便な生活に逆戻りするだけだ。いや、最悪の場合は処刑されるかもしれない。
ここを抜け出し、逃げる方法もある。だが、ユリウスには一人で生きるための知恵も勇気もない。どちらにせよ八方塞がりには違いないのだ。だからこそ、しっかりと考える必要があった。
そのためには、タヌキのポコタになりすまし、ここに置いてもらうことが最善である、と判断した。ユリウスは、そこにいる男たちに対し、「お願いします」と頭を下げた。
——王族たるもの、安易に頭を下げるものではない。
周囲にはよく言われていたこと。けれど、人に感謝をするときはそうするのだと、母に教えられてきた。
——みなに感謝しなさい。私たちがこうしていられるのは、周囲の人たちのおかげです。
反対をしていたコルヴィスは言葉に詰まり、眼鏡を何度もずり上げている。その隣では、ウルが「ほらみろ」と言わんばかりに、目を細めて彼を見つめていた。
ウルにせっつかれて、コルヴィスは大きくため息を吐いた。
「仕方ありませんね! ランブロス様がお戻りになるまでですからね」
どうやら、自分はここに置いてもらえるらしい、と思うと、ほっとした。
「それでは解散、ってことでいいですか。また今晩も警備ですからね」と、トルエノは腕を持ち上げて、からだを伸ばす。
「ああ、そうだな。夕暮に出発する」
「へいへい。じゃあ、休むとしますか」
ウルとトルエノが部屋を後にすると、コルヴィスもそれに続いて姿を消した。軽くため息を吐くと、フェンリルと視線が合う。ユリウスはドキドキと心臓が鼓動を早めるのを感じた。
彼はずっとこうして自分を静かに見つめてくる。なにか、見透かされているようで恐ろしくなった。
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