第5話 逃げ出した王としっぽ

 何度も何度も。同じ夢を繰り返し見ていたようだった。

「僕のほうが、王にふさわしいと思いませんか? 兄さんには不似合いだ」

 金色の髪を揺らし、にっこりとほほ笑む男は、腹違いの弟、カストルだ。

(私とは違う。カストルは王の風格を持って生まれてきた人間。私とは違っている。ただ、生まれた順番が違っていたというだけ)

「兄さん。僕に譲ってください。その席を。——大丈夫。この国のことは、すべて僕にお任せください」

 耳元に寄せられるその形のよい唇からは、甘い囁きが聞こえてくる。

(そうだ。私は王として不適格な人間だった。王になってからというもの、ろくに職務を全うすることができていなかった……)

 暗転。

「お前は王位継承者である。心を強く持て。王とは時に孤独なり」

 今度は眉間に皺を寄せた父の姿が立ち現れる。

「だが、きっといい仲間が見つかる。この私にもいた。大丈夫だ。私はお前を信じている」

 父は口元を緩めて笑みを浮かべる。けれど、自分の心はそれに反して塞ぎ込むばかりだ。

(そうだ。私は。みんなの期待に応えようと、そればかりを考えてきた。最初は、それが嬉しくていたというのに。いつからか、苦しくなってしまった。私は王という重責から逃げだしたいと思っていたのだろうか。だから、こんなことに。これはすべて、私が招いた結果なのか……?)

 心が苦しい。目尻から涙が零れ落ちる感触に意識が鮮明になっていく。ふと自分は温かいなにかに包まれていることに気がついた。

(とても心地がよい。ずっとこうしていられたらいいのに。ずっとだ)

 しかし、そうもいかない。重い瞼を持ち上げる。するとどうだ。目の前には見知らぬ男の顔が見えた。

(そうだ。私は……——!?)

「誰だっ!?」

 自分で発した叫びに、朦朧としていた意識が現実に引き戻された。からだを起こそうにも、その太くて逞しい腕に抱え込まれているおかげで、身動きが取れなかった。

 目の前にいる男は、軽く寝息を立てていた。精悍な顔立ちをしてた。彫りの深い顔立ちには、影が差す。

 それにしても、どこかで見たような気がした。記憶の糸を手繰り寄せようと、内なる世界に意識を向けようとしたその時、からだに痛みが走った。

(私は。……そうだ)

 自分の身に起きたことを振り返り、現状を理解する。

 彼の名はユリウス。この国の王でもある。王である彼が、ここに流れ着くまでには、複雑なる理由があるのだが。今はそこまで思いを馳せている場合ではない。ともかく、この男の腕の中から抜け出さなければならないと思った。

 一度目覚めた意識は、ユリウスの思考を動かし始める。

(ここはどこだ? こんなところで寝ている場合ではないのだ。……が、しかし)

 目の前で寝息を立てている男の休息を邪魔するのも気が引ける。それだけ彼は、無防備に眠りを貪っているのだから。ユリウスは軽くため息を吐いた。

(まあ、いいか。この男を眺めているのも悪くはない時間だ)

 ユリウスは男の胸に顔を埋めた。人の温もりは心地がいい。それに、彼の胸板越しに聞こえてくる鼓動は、不安な気持ちを軽くしてくれているようだった。

「くすぐったいな。その耳が原因か」

 ふと頭上から声が降ってきた。はったとして顔を上げると、男は蒼い瞳でユリウスを見つめていた。

 なんだか恥ずかしい気持ちになると、耳まで熱くなる気がした。

「すまない。……起こしたようだ」

「いいや。ずっと起きている。お前がじろじろとおれを眺めるもので、目を開く機会を逸しただけだ」

「なんと! 私がお前を観察している間、起きていたというのか?」

「そういうことだ」

 彼は口元を上げて笑みを見せる。艶やかな笑みだった。世界が一気に華やぐような笑みだ。ユリウスは言葉を失い、つい見とれていた。

(この世界に、このように美しい男がいるというのか)

 大きなあくびを見せ、からだを起こした男は、一糸纏わぬ姿だった。鍛え上げられた逞しい肢体が露わになる。褐色の肌に長い艶やかな黒髪が絹糸のようにかかっている様を見ると、ユリウスは、ますます顔が熱くなり、思わず視線を背けた。同じ男であるというのに。どうだ。自分は貧弱で痩せている。

 気恥ずかしい気持ちを隠すように、「何故、お前は服を着ていない?」と声を上げた。チラチラと視線を戻すと、すぐにその優しい瞳とぶつかってしまう。彼は動じることなく、まっすぐにユリウスを見つめていた。

「お前のからだを温めるためだ。素肌の熱を直接与えるのがいいと思った」

「素肌?」

 そこで、自分も裸になっていることに気がついたユリウスは悲鳴を上げた。そして慌ててそばにまるまっている寝具を引き寄せた。

「一体、なにをした?」

「なにもしてはいないだろう? 温めてやっただけだ」

「……っ」

 ユリウスは寝具を頭からかぶると、その場にうずくまってしまった。

(一体、どうなっている? 宰相の手の者たちに追われた。それから、あの実を食べて、川に流されて。あの実? あの実!!)

 今度はがばっと寝具を剥ぎ、それから自分のからだを見回した。腰に触れているもふもふの毛に驚き、さらに悲鳴を上げた。

「し、しっぽだ。しっぽが生えているぞ!」

 目の前の男は肩を竦めた。

「当然だろう? 獣人けものじんだから」

「け、獣人……だと?」

「そうだ。耳も。ふわふわで気持ちがいいな。その耳はタヌキというそうだな。随分と珍しいと、医官が言っていた」

「た、タヌキ!?」

 ユリウスは慌ててベッドから下りると、転がるように暖炉とは対照的な場所に据えられている姿見の前に走っていった。

 そこに映る姿は、自分であって自分ではないようだ。

 頭の上には、丸みを帯びたふさふさとした耳。そして腰から伸びている太い縞模様のしっぽ。漆黒の髪は、いつの間にか鳶色に変化している。

(お母さまが私に託した実。あれは獣属の実だったというのか?)

 ユリウスは思わずその場にしゃがみこんでしまった。確かに姿かたちが変われば、追手からは逃れられるかもしれない。困難から逃れるために必要なもの。それがこれだったというのか。

「わ、私は……」

「なにを驚く。自分の姿がそんなに珍しいか?」

 背後からゆっくりと寄ってきた男は、ユリウスの露わになった肩に、そっと寝具をかけた。

「風邪をひく。せっかく回復してきたというのに。裸でうろつくな」

「裸にしたのは誰だ」

「おれだ」

 彼はにっこりと笑みを見せたかと思うと、寝具にくるまったままのユリウスを抱え上げた。いくら華奢なからだつきとは言え、男のユリウスをここまで軽々と抱えるとは。

「離せ。一人で歩ける!」

「いや。まだ調子が出ないようだ。黙っていうことを聞け。助けたのはおれだ。命の恩人の言うことはきくものだぞ?」

「それは……」

 ユリウスはしぶしぶ口を閉ざした。男は「いい子だ」と笑った。

「おれはフェンリル。北部警備を担当している者だ」

「北部の警備……フェンリル?」

 ユリウスが彼の名を繰り返すと、フェンリルは漆黒の瞳でユリウスを見返していた。心臓が鼓動を早める。その理由が自分には理解できない。けれども、からだは熱くなり、そして彼の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。

 フェンリルの首に腕を回し、しっかりとしがみつくと、いい匂いが鼻を掠めた。

「嫌がる割には、くっついてくるのだな」

「からかっているのか」

 フェンリルは「そうだな」と軽く笑った。なんだか悔しい気持ちになる。王宮では、みんながユリウスを王として扱い、まるで腫物にでも触るかのように気を使っているというのに。

 フェンリルはそんな素振りを一つも見せない。ユリウスの中に、いとも簡単に入り込んでくる。そんな彼との距離がうまくつかめずに、ユリウスは困惑していた。

「そう怒るな。お前はどこから来たのだろうな」

「そ、それは……」

 黙り込んだユリウスを見た後、フェンリルは、ユリウスをベッドに下した。

「着替えを持ってこさせる。落ち着いたら話を聞こう」

 彼はそういうと、部屋を出て行った。

「随分と流されてしまったようだ。……私は。これから、どうしたらいいのだろうか……」

(王都に戻らなければならない。私は民を残してきてしまった。王のすることではない。けれど……)

 ——帰る場所などあるものか。

 この姿。髪色も、瞳の色も、まるで違っている。それにふかふかとしている耳としっぽ。

(我こそは、と名乗りを上げたところで、誰が信じるというのか。この格好で王宮に行ったところで、獣人として保護機関に送られるだけ。——私は、完全に居場所を失った)

 もうなにもかもが、どうでもいい気がする。温かいベッドに顔を埋めて横になる。からだが重かった。まるで鉛のようだ。指先が痺れている。それなのに、頭だけは妙に冴えていた。

 

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