第4話 匂いと願望

「これは魔法で焼かれた傷です。この獣人は魔法を使うのでしょうか」と医官は表情を険しくする。しかし、フェンリルは首を横に振った。

獣人けものじんが魔法を使うという話は、聞いたことがないな」

 医官は「それでも用心されたほうがいいです」といった。それから、彼に寝巻を着せる。その様子をフェンリルは黙って眺めていた。

「目が覚めて、暴れ出すかも知れません。素性の知らぬ者です。人間に対して、悪意を持っているかもしれません。見張りをつけたほうがよいでしょう」

「そうだな。忠告、感謝する」

 医官は、皺のある目尻を細めて笑みを見せた。この町で一番の腕前の医官。名はクレアシオンという。フェンリルがここに配属された四年前から世話になっている男だった。彼は町民たちからの信頼も厚く、城主であるランブロスのお抱え医官でもある。彼は手際よく作業をこなしながら、ふと声色をやわらげた。

「それにしても。タヌキとは。まったくもって愛らしい。今回は獣人ということが彼の命を救ったのかもしれませんね」

「どういうことだ?」

「獣人とは、人間の姿を持ちながらも、その動物の特性も兼ね備えております。タヌキは泳ぎが得意ですし、このしっぽが、からだを守ってくれていたのだろうと思われます」

 クレアシオンが片手をあげると、補助の者たちは一礼をしてから部屋を出て行った。それを見送りながら、フェンリルは「なるほどな」と頷く。

「人間だったら、とっくに死んでいたかもしれない、というわけだな」

「そうですね」

(確かに。随分と立派なしっぽだ)

 寝具の合間から見えているしっぽは、黒色と褐色の縞模様。美しい毛並みのふかふかなしっぽだった。思わず触りたくなるのは当然のことかもしれない。フェンリルは、そっとそのしっぽに触れた。

「温かい」

「立派なしっぽですね」とクレアシオンは笑った。

「落ち着いたら、王都に報告をし、保護機関に保護してもらうのが最善かと」

「保護機関か。そうしたいところだが。あそこは、あまりいい噂は聞かないな」

「獣人を見つけた場合、報告をするのが国民の義務でございますよ——と、一応、上申しておきましょう。私は善良なる国民のつもりですからね」

 クレアシオンは片目をつむって見せた。

「大人の事情というやつか。クレアシオン」

「そういうことですね。ランブロス候がお戻りになったら、きっと、この子のいいように取り計らってくれることでしょう」

 フェンリルは、息が止まっているのではないか、と思われるくらい静かに横たわっている獣人を見下ろして、首を横に振った。

「そうだな。ランブロス候も、もうすぐお戻りになると聞いている。それまでに、身の上を聞いておくとしよう」

 クレアシオンは満足げに頷くと「それでは失礼いたします」と頭を下げた。

「すまない。お前にも迷惑をかけるな」

「迷惑などかかりませんよ。しかし、差し出た真似をお許しいただけるのであれば、もう一つ、お話してもよろしいでしょうか?」

「なんだ」

 クレアシオンは「ふふ」と笑みを浮かべた。

「タヌキの獣人を保護したこと。決して、砦の外に漏れぬように」

「どういう意味だ?」

 フェンリルは怪訝に思い、クレアシオンをじっと見つめた。しかし、彼は笑みを崩さずに、ベッドで横たわっている獣人に視線をやった。

「先ほどもお伝えした通り、北部では、タヌキは神の使いです。そのタヌキの獣人が現れたとなれば、町民たちが放っておくはずがありません。ランブロス候がお戻りになるまでは、くれぐれもお気をつけください」

 彼は静かに部屋から出て行った。

(タヌキが神の使いだと? 迷信など信じない。神など、この世にいるものか……)

 フェンリルはそこに横たわる少年をまっすぐに見下ろしていた。

(傷……)

 あの傷には見覚えがあった。だがしかし。その傷を持っている人物と、この目の前に横たわる少年とでは、見た目がまったく違っているのだ。

(偶然か。あの人は今頃、王都にいる。それに、こんなタヌキの姿ではないのだから)

 フェンリルは暖炉の前に歩いていくと、薪を放り込んだ。薪を燃料として、赤赤と燃え上がる焔をじっと見据えていると、背後から呻き声が聞こえてきた。

 フェンリルはゆっくりとした動作で彼の元に歩み寄る。すると、少年の指先が震えているのが見えた。

「寒いのか」

 フェンリルは思わず両腕を差し出し、少年を抱き寄せる。どうやら、意識が少しずつ覚醒しているのだろう。寒さを自覚しているようだった。耳元に寄せられた唇から、吐息が漏れ聞こえた。

「まるで氷のように冷たいな」

 彼のからだは芯まで冷え切っていた。空を掴むように伸ばされた指先がぶるぶると小刻みに震えている。からだが体温を欲しているのだろう。

(このままでは、魂が死者の国に連れていかれてしまうかもしれない)

 フェンリルは、それをつなぎとめるかのように、少年をしっかりと固く抱きしめた。温もりを求めている少年もまた、震える腕を伸ばし、フェンリルに縋りついてきた。

 二人は互いを求めあうかのように、ぴったりと抱き合う。ふかふかした耳が鼻先を掠めて、くすぐったい気持ちになった。

 病的な痩せ方だった。食事も満足にしていなかったのかもしれない。劣悪な環境で過していたのかもしれない。そう思うと、不憫でならなかった。

 フェンリルはベッドに腰を下ろすと、寝具の合間から、自分のからだを滑り込ませ、そっとそばに寄り添うように横になった。

 フェンリルの肉体は、トルエノと比べると半分以下の厚さにも見えるが、鎧の下には、日々の鍛錬で培った筋肉がある。熱を帯びているの肉体は、冷え切った少年を温めるには適当なのかもしれなかった。

 少年の腕を少し緩め、フェンリルは上着を脱ぎ棄てると、先ほどクレアシオンが着せたばかりの衣を剥いだ。それから彼の腰に腕を回し、そっと抱き寄せた。直に触れた肌から伝わる冷たさ。けれど、鼓動は確かに感じられた。生きている——。このか細く庇護欲をくすぶるような存在ではあるタヌキの少年。彼は確かに生きているのだ。

 彼のふかふかの耳を撫で上げると、獣人は吐息を洩らした。他人に心を動かされることがほとんどないフェンリルであるが、目の前にいるその存在に、心は大きく揺らいでいた。

(ああ、まるであの人のようだ。会いたいという願望が見せる幻なのだろうか)

 フェンリルは目を閉じる。少年の匂いが鼻先を掠めた。

(ああ、懐かしいにおいがする。春のにおい。このにおいは、あの人のものと同じだ)

 懐かしい記憶がよみがえってくる。こんなにも心地よく思えるのは、何年振りなのだろうか。フェンリルは腕の中で小さく息をしている存在に浸りながら、深い眠りの淵に落ち込んでいった。

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