第3話 タヌキと古傷
最北の地には、モストロと呼ばれる魔物が巣食う広大な森がある。魔物に食われるのか。迷ってしまうのか。一度足を踏み入れたら最後、戻ってくる者はいない。
魔物たちは、普段は森の中で暮らしているのだが、時々、国の治安を脅かすような行動に出る。魔物たちの脅威に対抗するために、砦として建築されたのが、セプテン城である。
山間の切り立った岸壁に建造されたセプテン城は、夜の闇に溶け込んでしまうように黒色に塗られていた。王都にある優雅な城とは対照的に、その姿は軍事要塞だ。
フェンリルが団長を務める北部警備師団は、モストロの魔物から国を守ることを目的に、セプテン城を拠点として任務にあたっていた。
北部の警備の要として、この地を治めたのは、国王の信頼厚き貴族たちであった。しかし。国内の治安が安定し、平和慣れした今となっては、北部の地を任されるということは、面倒ごとでしかない。
現領主のランブロス侯爵は、前王派の中核を担っていたが、前王の逝去により失脚。北部へと追いやられていた。
フェンリルもまた、王都に詰める騎士団を外された一人でもある。いや、フェンリルだけではない。ここに配属させられている騎士たちは、荒くれ者や、問題を抱えた者たちばかりだった。
フェンリルは「それでもいい」と思っていた。まだ自分には居場所がある。求められているのであれば、それを精一杯こなすだけ。そうしていれば、いつか王都に戻れる。王都を追放された時。フェンリルにはなにもなかった。全てを失い、生きている意味が失われそうになった。
けれど——。
(おれは生きる)
夜空に瞬く無数の星の中から、目的の小さな星を見つけることくらい、叶う可能性の低い希望ではあるが、それでもよかった。フェンリルには、生きるための理由が必要だったからだ。
ここで出会ったのは、なにかの縁かも知れない。無事でいて欲しいと、フェンリルは心の中で願いながら、医官たちの動きを見つめていた。すると、ふと医官が手を止める。
「昨晩は王都で嵐があったようです。あの濁流の中、ここまで無傷とは。これは奇跡に近いですな」
彼は感嘆の声を上げた。
ベッドの上に横になっている
ランブロス候は公務で王都に行っている。その留守を預かる身として、この獣人の正体を突き止めることが最優先事項だ。
しかしながら、彼は身分を示す手がかりのようなものは、一つも身に着けていなかった。伺い知れるのは、医官たちの手により、きれいに整えられた鳶色の髪が、よく手入れが行き届いているということ。これは、ただの野良ではない。どこか高貴な家にいた可能性がある、とフェンリルは予測した。
(しかし、獣人だぞ? 獣人は珍しく、国内では保護されるべく人種だ。贅沢な暮らしができるはずもない)
頭の上についている動物の耳は、先が黒色で、根元に行くほど褐色になっている。丸みを帯びているその形は、愛らしい気持ちにさせられた。
「これはタヌキという動物ですね」と医官は言った。
「まったくもって珍しいことです。タヌキは、北部地方に生息しており、昔から『神の使い』と大切にされている動物です。しかし、その神聖なるタヌキの獣人など、聞いたことがありません。これは、かなり希少価値が高い獣人、ということになるでしょうね」
「希少価値が高い……か。この風貌からすると、どこかの貴族に囲われていて、そこから逃げ出してきたというわけか?」
医官は少々考え込んだ後「その可能性は、極めて高いでしょうな」と頷いた。
「遥か昔、獣人と人間は共存していたと聞きます。けれども、我々人間たちは、彼らの能力を恐れ、片っ端から捕獲し、絶滅寸前まで追い込んでしまいましたからね。なかなかお目にかかることはできません」
(確かにな。王都に居た頃、どこかの貴族の屋敷で見かけたことがあるくらいか)
フェンリルは顎に手を当てると頷いた。
「現存する獣人のほとんどは、王立の保護機関で保護しておりますが。野生にいる者たちは、孤独と飢えに苦しみながら人生を終えるか、もしくは金持ちの道楽の道具になるしかないといいます。そう考えると、この獣人はどうやら後者のほうではないかと思われます」
現在、獣人は国内では絶滅危惧種に指定され、保護される方向で動いている。けれども、一部上流階級の間では、愛玩の目的で売り買いされているとも言われている。フェンリルが王都にいた頃に目撃した獣人はその類いだ。貴族たちは、権力にものを言わせ、獣人たちを好き勝手にしているというわけだ。
フェンリルが見た獣人は、白い兎のような長い耳を持っていた。とても愛らしい容姿をしていたことは言うまでもない。
(人間という生き物が一番残酷で、非道だ)
フェンリルはベッドの上に横たわっているタヌキの獣人を見下ろしていた。医官は「それから」と言うと、獣人の肩を捕まえると、そっとそのからだを動かした。するとそこには、陶磁器のように蒼白な肌が露わになる。
見てはいけないものを見せつけられたような気持ちになり、顔を背けようとしたが、「見てください」という医官の声に、視線を引き戻した。
「この傷。魔法で焼かれたような跡です」
彼の肩の後ろには、紅斑が見て取れる。フェンリルはそれを確認すると、息を飲んだ。ある一つの疑念が脳裏を過ったのだ。黙り込んでいるフェンリルを不審に思ったのか、医官が彼の名を呼んだ。
「どうかされましたか。この傷に見覚えでも?」
「——いや。なんでもない。なんでもないのだ」
(そうだ。気のせいに違いない。まさか。まさか、こんな場所に……。いるわけがないのだ。偶然だ)
フェンリルは首を小さく振ると、頭の中に浮かんだ疑念を消し去った。
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