第2話 契約

ーーー



 これは、昔の記憶…俺、意識があるのか?


 瞼を持ち上げ、身体を起こす。その時、手元に雫が落ちるのが見えた。


「…」


 指で目元をすくい、その指先を見る。


「泣いてたのか......」


 すぐに涙を手で拭い、辺りを見渡す。目の前には地面とどこまでも続く薄暗い黒紫の闇が広がり、その他は何もない不思議な空間だった。


 なんだ、ここは...。そうだ、俺は…!


 俺は咄嗟に腹部を手で触れてみた。


 痛くない、傷もない…。おかしい、腹を貫かれたはずなのに...。


 俺はハッとし、目を見開く。


 あぁ、そうか…。


 自嘲するするような薄笑いを浮かべた。


 …絶望とはこういうことを言うのだろうな。


 俺は口の端を上げたまま、片膝に腕を乗せて俯く。その時ー。


「…目覚めたようだな、舞葬の死神」


 俺は後ろを振り返り、鋭く睨みつけた。

 声の主は闇の中から現れる。大きい耳が上にぴんと伸び、鋭く赤い瞳が闇の中で光っている。

 身体は筋骨隆々で、闇に溶けるような漆黒。金の装飾と複雑な紋様が刻まれた衣類を身につけていた。


「その呼び方はやめろ。…というより、お前の方がよっぽど死神に見えるぜ」


 嘲笑うかのように、皮肉をこめて言ってやった。


 …俺を二つ名で呼ぶな。


 そいつは冷めた目で俺を見下ろし、鼻を鳴らす。


「ふん…可愛げのないガキだ。私が誰か気にならないのか?」


 片膝を立てて座ったままそっぽを向く。


「…どうでもいい。どうせ俺は死んだんだろ。…ここは冥界か、地獄か」

「正解はどちらでもない。ここは冥界と地上界との狭間。お前の力は使えそうだ…だから諸事情でここに留まってもらった」


 肩越しに視線を動かし、そいつを見る。


「…何故俺のことを知っている」

「退屈凌ぎに冥界から地上界をよく覗いていたからな。お前ほどの戦士の戦いぶりを見るのは、中々面白かったぞ」

「…そうかよ、俺はお前の見世物か。それで、その諸事情ってなんだよ。死んだならさっさと冥界に連れていけばいいだろ」


 目を背け、ぶっきらぼうに言い放った。


 …俺はもう終わった人間だ。天才だと言われようが、結局あの時何もできなかった。


 俺は歯を噛み締める。


 死後の世界でどうなろうだなんて、心底どうだっていい…。


「まぁ、そう言うな。これはお前にとっても悪くない話だと思うんだがな。1つ取引をしないか?」

「…簡潔に言え」

「お前、千年後の世界に生き返ってみるつもりはないか?やつが封印から解き放たれる、その時に」

「……!」


 勢いよく振り返る。そいつは口の端を上げ、俺の方に向かってゆっくりと歩いていた。


「どう言うことだ……。そんなことができるのか?」


 そいつの方へ身体を向け、立ち上がる。


「……できる。何故なら私は、死者の魂を導き、冥界の秩序と均衡を守る神であるのだからな。」

「お前が……? こんな胡散臭いのに?」

「一言余計だ。」


 人差し指を口元に当て、ほんの数秒だけ考えた。

 ……都合が良すぎる気もするが、もし本当にできるなら願ってもないチャンスだ。


 封印の儀でやつと共に封じられたルシアを救えるかもしれない。封印が解かれた時、彼女を救い出さなければ…。 

 死んだ以上、俺に失うものなど何もないしな。


「その話受けた、千年後に生き返らせろ」

「クックック、そういうと思ったよ。だが、大まかに3つの条件がある。今から言うからよく聞け」

「わかった。」


 息を呑み込み、呼吸を静かに整える。冥界の神は指を立てながら説明を始めた。


「一つ、ゼオリスを倒す約束をするのが復活の条件だ。これは俺の都合でもある。」


 目を尖らせ、まっすぐそいつを見据える。


「…二つ、再生した魂は輪廻転生の輪に戻れない。つまり、死後は永久に冥界を彷徨うことになる」 


 冥界の神は3本目の指を立てた。闇に輝く真紅の瞳を細め、ニヤリと笑う。


「そして三つ…再生の代償として記憶を失う。…とまあ、こんな感じだ。話を聞いて考え直す気になったか?」

「……」


 目を伏せ、口を固く結ぶ。


 こいつはゼオリス打倒が目的か……。意図は不明だが、理由はなんだっていい…いずれにせよ、俺の答えは変わらない。


 顎を引くと、前を睨んだ。


「……いいって言ってんだろ。さっさとしろ。」


 冥界の神は目を見開く。


「お前…話を聞いていたのか?何故迷わない。死後の魂は悠久とも呼べる時間を冥界で彷徨い苦しみ続けるのだぞ?」

「別にいい。正直、こんなチャンス願ってもなかった。千年後の世界がどうなろうが俺には関係ない。けど彼女を…ルシアを救えるっていうなら…俺はなんだってやってやる!」 


 冥界の神を鋭く睨みつけた。


 これは俺の彼女への償い…いや、それだけじゃない。


 指が食い込むほど強く拳を握る。


 ルシアは、俺にとって…大切だったから。

 できることならもう一度、笑った顔が見たい。


「ほぅ…面白い。たかが1人の人間のために、躊躇わず決断するか。人間という生き物は実に興味深いな!」


 冥界の神とやらは高らかに笑う。俺は思い切り眉間に皺を寄せて睨んだ。


「…あぁ、わかったわかった! そう睨むな。なら取引は成立だ……契約の刻印を刻もう」


 冥界の神は俺の肩に触れた。

すると、俺の視線からは見えにくいが、肩のあたりが光り、何か紋様が刻まれているようだった。


「その刻印がある限り、お前は契約に縛られる。契約は果たせばそれは消えるが…だからと言って死ぬことはないから安心しろ」

「わかった。この後は俺はどうしたらいい?」

「そうだな…」


 冥界の神は杖をトンっと地面に叩きつけると、何もない真っ暗な空間の中に、厳かで禍々しい装飾の巨大な扉が現れた。


「この扉を潜って歩いて行け。そうすれば、お前は約千年後…やつの復活の少し前あたりの時代に出るはずだ。復活までに記憶を取り戻し、倒してみせろ」

「...あぁ。別にお前のためじゃないけどな」


 巨大な扉は徐々に開かれていく。

 中は真っ白で僅かに光が滲み出ていた。俺は扉に向かって歩いたが途中で立ち止まる。少し振り向き冥界の神に話しかけた。


「…それと最後に。ありがとうなんて言わないからな。全部上手くいったら言うかどうか考えてやる」


 そう言い捨て、前をまっすぐと睨む。扉の中へと入った。



ーーー(全知)



「最後まで可愛げがないガキだったな...。まあいい。お前の行く末がどうなるのか、この目でしっかりと見届けてやろう」


 扉の向こうへ消えていく背中を見て、冥界の神は笑った。



ーーー(アラン)



 中の空間は相変わらず真っ白だった。


 俺はどこへ向かっているのだろう…。


 方向もわからずただ彷徨うように歩く。ひたすらに歩く。


 …考えるのが億劫になってきた。


 歩く度に、視界がぼやけていく。意識も次第に遠のき、やがてー俺の意識は完全に途絶えた。



ーーー



 どれだけの時間が経ったのだろうか。星空が巡る夜空のような、抽象的で不思議な夢を長いこと見ていた…。だが、それを夢だと自覚できる程度には意識がはっきりとし始めているようだ。


 ...そうだ、あの後俺は一体...!?


 勢いよく目を開く。天はどこまでも深い紺青色が広がっている。俺は呆然としながら、ゆっくり半身を起こす。


 ピチャッ…!


 なんだこの音…。足元を見ると波紋が広がっている。乱れた茶髪から覗く朱の瞳が微かに揺れた。波打つものを手で掬ってみる。これは、水…?膝下くらいの深さか。


 顔を上げ辺りを見渡す。自分をぐるっと囲むように12個の青白く光る柱が建っている。驚きで跳ねるように立ち上がった。


「なんだ、これ…どこだ、ここは…。この状況は…っ?!」


 剣の柄に手をかけながら、目の前の柱に駆け寄る。手で触れながら柱を観察し調べた。

柱には数字が刻まれている。この柱は…6。その隣は…。


 手当たり次第柱の数字を調べて歩きながら、俺は思考を巡らせた。…わかったことが2つ。一つは、この柱は左回りで順に数字が並んでいるようだ。これは一般的な右から順の表記とは逆だ。


 もう一つは、全部で柱の数が12個だということ。12は、俺の故郷では昼夜それぞれの時間を分割する数字だ。


 つまりこれら2つから考えると、この柱は時間の逆行、あるいは過去の象徴を意味していそうだ。ふっ...これから失う記憶を取り戻せってか。


 近くの12と書かれた柱に手をつくと、目を細め天井を見上げる。


「にしても、ここは現実の世界とは思えないな。まだ再生の途中なのか、或いは…」


 すると唐突に、頭の中にぼんやりと何かの景色が見え始めた。俺は思わず頭を抑える。


「なっ…なんだ?!」


 これは…青空、それと森の中。この視界は…まるで誰かの視点を共有しているような…。なんだ…なにが起こっている…?


 その時、ふと頭に触れる手の感触に違和感を感じた。頭から手を離すと掌を見つめる。大腿ホルスターから短剣を抜くと、自分の人差し指を切りつけた。


「...痛くない...。やっぱりそもそも感触がないのか...」


 切り口からは血が流れず、みるみると傷が塞がった。なるほど、つまりこの世界は現実じゃない。俺自身も実体がない存在といえるだろう。


 俺は瞳を閉じ、頭にぼんやりと浮かぶイメージに意識を集中させた。


 視界の中では、誰かが森の中を進んでいく視界がぼんやりと見えた。意識を研ぎ澄ませると、風が肌を撫でる感触、草木の匂い、葉が擦れる音までなんとなく感じられるようだった。


「何故こんなものが見える...?それにただのイメージにしては生々しすぎる。間接的に誰かと感覚を共有しているような...まさかっ!」


 目を見開き少し後ずさった。


 異次元的空間、実体のない身体、そして感覚の共有…根拠はまだ薄いが、これらから一つの仮説が立てられそうだ…!


「俺は誰かの中にいるのかもしれない。その誰かはおそらく、再生したもう1人の...! くそっ!」


 強く歯を食いしばると、近くの柱に拳を振り下ろす。拳は少しも痛まなかった。

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