プロローグ後編:樽での漂流とクッキー作り

 どうやら、私は海に捨てられたようだ。


 周囲からは、人の声が全く聞こえなくなり、私の周りの物体──樽に、水の当たる音が響いてくる。

 私はもう一度体を動かそうと、指先に集中する。

 が、指はピクリとも、動かない。


(おーい!!)


 声を出そうにも、やはり喉の奥に詰まった感じがし、音にならない。

 必死でもがき、大声を上げてみるが、どう足掻いても体が動かず、声も出ない。

 クルクル回りながら上下に揺れる樽の中。楽な姿勢に整えることも叶わず、私は吐き気を催し始める。

 しかし、体が動かない。ということは、吐くことが出来ない。

 ……それはラッキーなのか、アンラッキーなのか、正直分からない……。


 樽の動きを制止したい。

 けれど、体は動かない。

 樽から出て動かない大地を踏みしめたい。

 しかし、声すら出せない。

 早く楽になりたい。

 どうすれば、楽になるのか分からない。


 数十時間、いや数百時間くらい経ったのだろうか。

 ようやく私は、樽の中で意識を失えた。



* * *



「……というわけですよ、魔王様」

「……なるほど。地人ちびと族に召喚されたというわけか」

「地人族って何ですか?」

「お前達……いや、お前を召喚した、種族のことだ。異世界人が何処どこに属するのかは分からんが。……見た目でいえば、地人族が一番近い、か」


 この世界には、主に『地人族』『魔族』『獣人族』『妖精族』の四種類、人間が住んでいるそうだ。

 妖精も人間の一種だというのは驚いたけれど、フェアリー系ではなくエルフ系やドワーフ系のことをいっているようだ。

 そして、この世界で私に近い人種……地人族は、魔王様が属する魔族と敵対し、争い合っているのだという。

 私が魔王様に説明を終えると、魔王様は合点がいったように頷き、すぐに熟考し始める。


 私が喚ばれたのは恐らく、その争いに関することだ、と考えているのではないだろうか。だが、私が何の目的で召喚され、どういう能力を持っているのか等、全然知らず、覚えていない為に、頭を悩ませてしまったのだろう。


 ……短気で申し訳ない。


 本来なら、不穏な種は即座に始末すると思う。しかし、この優しい魔王様は、そこを考え込んでいるようだ。

 もし殺すなら、死ぬ前に美味しいスイーツが食べたいな、とかいったら、聞いてくれるだろうか。


 ……そういえば、私の作ったクッキーはどうなった?!


 私はベッドから上半身をもたげ、己の鞄を探しだす。

 枕元に置いてあったそれは、ひしゃげてはいるが、無事な姿を見せてくれた。


 あの魔法、GJグッジョブ


 案の定、鞄の中のクッキーは粉々だったが、二重ジップ付き密閉袋に入れていた為、真空状態を保っている。

 袋を開けると、辺りに仄かなバニラの香りが漂い始める。

 私は恐る恐る、それを口へ運んだ。

 

 小麦の香ばしさが鼻腔を擽り、小麦と卵にバターや砂糖のコクや旨味が合わさって、柔らかな甘味を作り出す。

 僅かな塩気は甘さと風味をより一層引き出し、お互いを引き立たせながら混ざり合い、口の中に溶けていく。


 うん、まだ美味しい。ということは、漂流して一~二週間以内か?

 いや、もしかすると、鞄の中も静止していたのかもしれない。

 あまり時間が経つと風味がなくなり、果ては、油臭くて酸っぱい状態になるそうだ。

 匂いで分かるとは思うが、そんな物を食べる羽目にならなくて良かった。


 袋からそのまま口へ注ぐ私の動きを、魔王様が腕を掴んで制止させる。


「……ちょっと待て。先刻から食べている、その粉は何だ?」

「え? ……ええ、と……。……クッキーの成れの果て、です、が……」

「くっきー? ……よく分からんが、何やら甘い匂いがするが……」


 必死の形相になる魔王様の顔に私は若干引きながら、魔王様が目を向ける場所へと己の視線を動かした。

 ゴクリと喉を鳴らす、魔王様。


 ……もしかして、食べたいんだろうか?


 粉になってしまったから、こちらの世界に同じような物があるかどうか確認は出来ないが、クッキーという言葉がないことは、よく分かった。

 私が袋を掲げ、魔王様と視線を交わして首を傾げると、魔王様はゆっくりと頷き、私の目をジッと見返してくる。

 側近がそれを制止しようと魔王様に詰め寄るが、魔王様は肘鉄を食らわせ、側近を黙らせてしまう。


 ……ヤバい物が入ってたら困るしね。私が大丈夫でも、魔族に何かあるものかもしれないし。


 偉い人のお付きも大変だ。と私が脳内で敬いながら粉を咀嚼していると、肘鉄を食らった側近は即座に立ち上がり、私に向かって手を差し出してきた。


「まず、自分が毒味します」

「……それは貴様が食したいだけ、ではないか?」

「任務ですよ、任務」


 ……自分が食べたいだけだったんかい。


 魔王様が眉をひそめて側近を見ると、側近は清々しい笑みを浮かべて魔王様に返答する。

 しかし、魔王様の鋭い眼光による睥睨へいげいに、側近の額から汗が滲み出す。

 怒気をはらんで威嚇する魔王様に、引き攣った笑顔で冷や汗を流しつつ、そっと視線を斜上に逸らす側近。


 何だか微笑ましいな、魔族さんらは。


 私は二人のやり取りに苦笑しながら側近を手招きし、寄ってきた側近に袋の粉を少し分ける。

 側近は、掌にある粉を口内にあおった。

 口を動かしながら、鼻の穴を広げてうっとりと瞼を閉じる側近の姿に、魔王様は慌てて私へとにじり寄る。


「コンセルにだけとはずるいぞ! 私にも寄越よこせ!!」


 何だか子供の言い分としか思えない魔王様の要求に、私は噴き出すのを必死で堪え、元クッキーだった粉を魔王様の掌に載せた。

 魔王様は逆の手で粉を少量摘み、口内に落とす。

 だが、少なすぎて味が分からなかったのだろう。次はもう少し多めに摂取する。

 その瞬間、目を見開いて掌をあおり一気に粉を飲み込むと、私へ視線を動かし、声を荒げて問い質してきた。


「何だこれは?!」

「だから、クッキーですって。こっちの世界じゃ無いんですか?」


 私は、元の形が直径約五センチ、厚さ五ミリ程度の円形の物体であったことを告げると、酷く興奮した様子でまくし立てる。


「それを食いたい! 作れるのか?!」

「材料と機材があれば……。多分、作れますけど……」


 体調は、魔法か何かのお陰で、すっかり好調だ。

 しかし、ここの生活様式が全く分からない以上、作れるかどうかの断定は出来ない。

 私が渋った様子で魔王様を瞥見すると、魔王様はこちらの煩慮はんりょを把握したのか、提案してきた。


「必要な物の特徴をいってみろ。近い物を全て、掻き集めさせる」


 魔王様の決意は本物だった。

 私が説明する端から手下らしき者を呼び出し、入手に向かわせる。



 まず、小麦粉だ。

 米粉とか、おからで作る場合もあるが、私は小麦粉で作る、サクッとしてホロッと溶けるクッキーが一番好きだ。

 麦と乾燥する場所、石臼のような物があれば、長時間掛かるが全粒粉が出来なくはない。

 白米のように精製すれば白い小麦も出来るが、ここに麦はあるのか、あるとすればどんな物なのか。強力粉、中力粉、薄力粉という分類はあるのだろうか。


 この世界では、硬いパンやビスコッティー的な、少々歯応えのある全粒粉の小麦製品が、主食としてまかり通っているらしい。

 軟質小麦を挽いた物といっても通じなかったが、ライ麦風と大麦もどき、そして、小麦にそっくりな物は数種類あった。

 パン用の小麦粉、パスタ用の小麦粉、ムニエルなどの調理補助用の小麦粉等々、結構細かく区分されているそうだ。

 恐らく調理補助用が薄力粉で、パン用が普通の強力粉だろう。

 白い小麦粉は、やはり上流階級主流の物らしい。

 何れが良いか分からぬと魔王様は、全粒粉と白い小麦粉など、それらしい粉を全種類、入手してきた。


 ……そんなに貰っても、使わないのは悪くするだけで勿体ないと思うんだけど……


 私が悩み悶えていると、心を見透かされたのか、顔に出てしまったのか。魔王様は、使わない物はここのシェフに渡せばいい、と一言付け足してくれた。随分と気配り上手な魔王様である。

 強力粉でもクッキーは美味く作れるが、今回は、粉になったクッキーと同じ物をご所望なので、白い薄力粉を使おう。



 そして、バター。

 この世界では『ギュー』という、元の世界でいう象と同じくらい大きく、少々? 気の荒い牛がおり、牛乳はあった。

 ただ、搾乳だけで一波瀾あるせいか、生クリームやバターというのは家庭では個々で、少々身分が高いトコでは料理人が作るそうで、魔王様のお抱えシェフから分けてもらったそうだ。

 今度があるなら牛乳から作ってみるか。私の知る方法だとかなり時間が掛かるが、こちらではどうやって作っているのか、実に興味深い。

 乳搾りもどうやっているのか、是非とも見学させていただきたい。



 次に、卵。

 これも鳥類の卵で入手してもらったところ、様々なサイズがあった。

 コッケーの卵というのが一番近そうなので、それを使わせてもらう。



 最後に、砂糖。

 これは貴重な薬だそうで、かなり高価な代物らしい。

 もう少し安い物では、メープルシロップのような樹液を煮詰めた独特の風味がある糖類や、蜂蜜のような虫が集めた花の蜜などあるらしい。

 何だかとても高価そうで申し訳ないが、取り敢えず一番癖のない白砂糖かグラニュー糖に近い物を使わせてもらおう。


 材料を全部揃えたところで見てみると、元の世界で何気なく使ってきた物が、こちらでは一部の上流階級にしか流通してない高価な品ばかりなようで、かなりのプレッシャーを感じる。

 ドコの王様が食うんだよ?! といったレベルの材料だそうだ。


 ……魔王様が食うんだけど。


 というわけで、城にある厨房へと案内される。

 魔王様はこの城に住んでいるため、この城には魔王様のために色々と貯蔵されているようだった。


 案内された厨房は中世ヨーロッパ風だが、魔王様という身分の高い御方の城にある厨房だからだろうか。

 魔術のお陰もあってか性能は近代寄り、いやそれ以上かもしれない物や、中世レベルのやや使いにくい物とが混ざり合っていて、実に面白い。

 

 「ここにある物は好きに使え。詳細は、シェフに聞くと良い」

 「あざっす! もとい。有難うございます!」


 私は魔王様に敬礼し、言われるがままに遠慮なく周囲を見渡し、様々な器具機材を熟視する。


 機材に関しては問題が発生しなかった。寧ろ私の家の物より最新型、を超えて近未来型だ。

 窯やオーブン、コンロは魔術の力を常設しているらしく、温度管理も完璧な上に細かい数字での保持も出来る。

 同じ理由で冷蔵庫と冷凍庫もバッチリだ。


 器具も色々と取り揃えられており、一応、泡立て器やボウルも揃っていた。

 こちらの泡立て器は、木の棒に不思議な形の突起を幾つか付けた物で、小さめの棍棒みたいで面白い。

 中世でも……アレはアメリカだったか? ハンドルで回るホイッパーがあった気がするが、アレは菓子の発展で開発されたんだっけ? まあいいか。

 ボウルも、木で出来た深めのお皿といった形状で、深さが足らない気もするが、ないよりはずっといい。


 計量は、目盛りが掘られた分銅で量る竿秤や天秤、体重計のような台秤などの重さを量る物や、液体などを量る用か、大きさが数種類ある円筒状のカップなど、多種多様に取り揃えられていた。

 

 カップは透明じゃないのが惜しい……! いや、そのために幾つかあるんだろうけど!

 

 こちらの世界での目方を知らない私には透明だったとしても難しそうだが、元世界の計量カップと同じ大きさのカップと大さじサイズのスプーンがあれば、何とかなる……かな?

 ……一カップで小麦粉は百グラムちょい、スプーン一杯でバター十五グラム弱だったっけ……?

 うん。まあ多分、大丈夫……だろう。


 というか、異世界転移でのお約束『会話が成り立つ』が可能なら『文字が読める』も付いてくるべきじゃないのか?


 あの、私を召喚したとかいう偉そうなヤツにはそこまでの力がなかったのか、もしくは召喚し続けるために省略したのか。

 取り敢えずはどうでもいいことだ。考えるのは止めよう。


 私は先日のクッキーレシピを思い出し、試行錯誤しつつ、何とか似た材料でそれなりの物を作り上げた。

 魔王様はご満悦の様子で山盛りのクッキーを頬張っている。


 側近にも少し分けてやれよ……。指をくわえて見ているぞ?

 ……あれ? そういえば、私の対処はどうなった?!

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