5.出国

* * *


 ガレンドールには、王侯貴族の子どもらが通う学園が王都にあるらしく、おれもそこに留学することになるようだ。大使館を通じてあれこれ調整が済むのを待ち、約二カ月後におれたちは出立した。


 その間おれは、先方の大使館から派遣された語学教師からガレンドール語を教わった。ほんの二カ月でどれだけ話せるかと思ったが、意外と順調に課程が進んだ。実力かと思ったら姉上が「陰ながら応援していました」と言ったので、どうやら例の恩寵のおかげらしい。行った先で不自由しなくて済むのは助かるぜ。ただ、「ガレンドール語でなら、その乱暴な口調も多少は控えめになるでしょう」とも言われちまったが。


 また、日取りを選んで親戚を集め、区切りの一献を受ける儀式もやった。ふさふさの髭を蓄えた大人が大勢広間に居並ぶのは壮観だった。朱塗りの平盃に注いだ酒を、親父殿を始まりに年配の者から順に一口ずつ回し、最後におれが受け取る。飲み干した瞬間から一人前だ。

 隊商で面倒見てくれた叔父オーランも駆けつけてくれ、両肩を力強く叩いて祝ってくれた。留学についても、「三年の辛抱だが、その後は足の届く限り遠くの景色を見届けるがいい」と励まされた。帰ってこいと言わないところが、親父殿と違っておれをほっとさせる。


 むかっ腹の立つこともあった。パリーヤは姉上を何とか屋敷に留めておきたくて、お務めの後フィニークへ帰ってこいとしつこく言い続けた。しまいには、シャヤールの嫁になって縁を結び直さないか、そうすれば親父殿に万が一があっても奴が世話を続けられるし、ユーシェッド家の安泰もさらに永らえる――などと抜かした。


『姉上! こんな気色悪い戯言たわごとに耳を貸すことねえぞ!』

『わかっています。二代に渡ってお世話になる予定はありませんし、「シャヤールの妻」はお務めの要件に入っていません』


 あんまりしつこいんで、姉上は自分が不在でも心配することがないとわからせるのに苦労した。


『お父様、パリーヤ様。この部屋さえあれば、ユーシェッド家は当面揺らぐことはありません。そして、サイードが屋敷に戻るまでは、お父様は盤石に総督を務められることをお約束いたしましょう』


 ……それって、考えようによっちゃあおれが戻らない方がありがたいってことになるよな。


 嬉しそうな顔と微妙な顔が二つずつ、きれいに分かれたのをおれはしっかり見たからな。


 どのみちおれは、フィニークにいる限り世界が広がらねえと思ってたからちょうどいいっちゃいいけどよ。文字通り、渡りに船って奴だ。


 いまおれたちは、最新式の定期船でガレンドールへの航海途上にあった。帆が多く操作が複雑だが、航海日数が大幅に縮まるため、食材の輸出入もしやすくなったとか聞いた。基本はそういう交易品の輸送だが、商人などの旅行客も同乗している。

 おれには随員おもりが一人付いてきていて、到着後はそのまま向こうにあるフィニーク連邦大使館の一員になるらしい。ガレンドールの者も付けようかとクロウリー外交官に言われたが、道中まとわりつく奴が増えると姉上に迷惑なので断った。


 おれと姉上は上甲板に出て進路を眺めていた。姉上は外出の嗜みで全身も頭も布で覆っていたが、それらは吹き付ける風で激しくはためいていた。後方の陸地は小さく遠ざかり、都市オリフォンテはだいぶ前に見えなくなった。そのうちぐるりと水平線だけの景色になるだろう。船の進む先――東の空は透き通ったうす青色をしていた。


「どうだい姉上、こんな景色初めてだろ」

「はい。この目で見るのは初めて…です」


 姉上はガレンドール語でもこんな調子のしゃべり方なんかな。おれより自分の心配した方がいいんじゃないか。


「お務めって、結局何するんだ?」

「人々を幸せに導くために、助言を与えます」


 今とおんなじってことか。何でガレンドールでやる必要がある?とは思うが、おかげでおれも行けるんでもう突っ込まないことにした。


 姉上は船室へと立ち去った。おれは船上を見回すと、航海長に無理を言ってマストに登らせてもらった。三本あるうちの船首側のマストに近づき、最初は縄ばしごに取り付いて下段の見張り台まで登る。そこからまた上に伸びる縄ばしごに慎重に足をかけ、上段の見張り台の上に頭を出した。足場がすごく狭い。順風を受けて大きくふくらんだ帆の間から前方を見やると、完璧な大海原がおれを迎えた。

 マストのほぼてっぺんのここは、船体に比べて波のあおりで大げさにかしぐ。揺れをうまく乗りこなすと、まるで空を飛んでるみたいで爽快だ。


 ここ数年、いつも船だの馬だのと何かに乗ってあっちへこっちへ旅をしたが、しょせんは決まったルートをぐるぐる回ってるだけだった。どれだけ長く出かけても、最終的には出発点に戻ってくる。ゴールが近づくと仲間たちはみんな懐かしがるが、おれはいつも、居心地の悪い何とも言えない気分になった。連中のように「やっぱり我が家の寝床が一番」とは思わない。野営の星空の方がずっとほっとする。

 道中は面白いしいつまでも歩いていたい。けれど旅のゴールが元いた場所だというのが一番気に入らない。結局は一歩も遠くへ行ってないのと同じだ。

 帰ってこなきゃいけないのがあの屋敷だというのが、さらにおれを息苦しくさせる。あの屋敷も身内も、ときに足枷のように感じて仕方ない。断ち切れるものならそうしたい。でも姉上がいる。恩義のためにまだ家に関わろうとしてくれてる。そんな姉上ごと家を捨ててしまうわけにいかない。


 いつか姉上がお務めを果たして、あの家のことももういいやと思ってくれるようになったら、そのときおれも自由になろう。


 おれは、行ったきりで戻ってこない、そんな旅をしたいんだ。おれがするべき旅は、そういう旅なんだ。地平線を越えて、果てを越えて、もう進めないところまでたどり着いたら、そこがおれのゴールだ。


 行くんだ。いつかきっと。


 おれは浅い青と深いあおの境界に目を凝らし、それをしるべとして胸に刻んだ。

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