4.開かずの部屋

* * *


 奥棟のとある廊下の曲がり角に、小さい棕櫚しゅろを植えた腰高の壺が置かれていた。親父殿は、壺の脇をすり抜けて奥へ進んでいった。

 親父殿の後に続いて、そのただの窪みだと思っていた空間に足を踏み入れたとき、おれは唐突に思い出した。


「ここって…『開かずの部屋』か?」

「そうだ」


 四つか五つの頃、例によって母上の留守に屋敷を探検していてここへ入り込んだことがある。この先には怪しげな扉があったんだ。ものを出し入れできそうな小窓がついていて、そこから中を覗こうとしたら母上に見つかった。目が潰れるぞと、後にも先にもないすごい剣幕で叱られた。そこが『開かずの部屋』と呼ばれていることを、後日ばあやがやっぱりおれを脅かしながら教えてくれたものだった。


 何で今まで忘れてたんだろう。


 親父殿はおれを扉の前まで進ませると、黙ってうなずいて立ち去った。おれは恐る恐る取っ手に手を伸ばし、開け方を確かめた。鍵は掛かってなかった。もう種明かしはされてんだから、目は潰れないだろう。おれは思い切って扉を押し開けた。


 物置みたいに埃っぽくて薄暗いんだろう――というおれの勝手な想像は裏切られた。確かに母上たちの部屋に比べたらちょっと手狭だが、明るくて小綺麗な広間だった。ただ、壁のどこにも窓がなく、代わりに覆いを外した天窓からモザイク紋様のタイルに光が落ちていた。

 なるほど、天窓か。屋根に上がって調べてたら一発だ。

 広間の奥には、一段上がって見事な透かし彫りの仕切り板に囲まれた小部屋があり、そっちは絨毯が敷き詰められていた。


 姉上は、そこに座って待ってた。


「よう」


 おれはすたすたとその小部屋に入っていった。姉上が軽く手をのべて座る場所を指し示したので、そこに腰を下ろしてあぐらをかいた。


 今日の姉上は喪服ではなく、普段着だ。ギャザーをたっぷり寄せてビーズを散りばめたロングスカートに、金糸の刺繍が施された前開きの短い上着、その中には前合わせの白いシャツ。ビーズのネックレスもいくかに巻いて掛けてて、豪華な印象だ。

 室内だからか、濃紺の豊かな髪は惜しげなく晒している。


「こんにちは、サイード。お待ちしていました」


 感情の読めない顔で姉上が挨拶した。


「ああ」


 こないだも思ったけど、どうにも他人行儀なしゃべり方だ。母上もばあやも「かしづくように世話した」って話だったから、そういうしゃべり方しか知らねえのかな。


「姉上って、生まれたときからずっとこの部屋で暮らしてんのか」

「少し語弊がありますが、ほぼその通りです」

「一歩もここから出たことないのか?」

「先日あなたに会うために裏庭に出ました」

「それだけ? まさか、あの時が初めて外に出たときなのか!?」

「おそらく」


 まじかよ。

 たったこれだけしかない場所に十三年も閉じこもってるなんて、おれなら気がくるう。『天上の主の預かり子』なんてありがたそうに言ってるけど、まともに人間扱いしてるとは思えねえ。

 むしろそんな由来なんかなけりゃ、普通に母上とおれと一緒に暮らせてたはずだろうに。


「なあ、姉上はこんなところにこもっててしんどくないのか。一生ここで過ごすつもりか?」


 思わず身を乗り出して言うと、姉上は意外なことを言った。


「辛いとは感じません。ここは、ときが来るまでの仮の宿りですから」

「どういう意味だ?」

「私は、天上の主から一時的に預けられてこの家にいました。今はまだ安全に隠されている必要がありますが、いつかお務めを果たすためにここを去るでしょう」

「去る? 屋敷を出てくってのか!?」

「はい。その後は関係者の皆さんには、私のことを忘れていただいても構いません」

「何だよそりゃ!」


 いきなり何言い出すんだよ。おれと家族付き合いしたいんじゃなかったのかよ。何だよ、「忘れてもいい」って。ばかにすんな。

 だから引きこもりのコミュ障はだめなんだ。他人の気持ちをわかってねえ。母上も気にかけてくれって頼みたくなるわけだよ、これじゃあ。


 おれが責めると、姉上はうつむいて少し考えた。


「すみません、サイード。あなたの言うことももっともです」

「だろぉ?」

「私も今すぐ出ていくわけではありません。あなたが大人になるまでは、ここにいます」


 まあそんならよし。でも出ていくのは変わんねえんだな。


「ただ、あなたは今後暮らし方が変わり、この部屋に来る機会はほとんどなくなります」

「何だって? そんなことわかるのか」

「わかります。そういう『娘』なので」

「部屋に来れないんじゃ、今と変わんねえ。意味ねえじゃんか」

「落ち着いてください。サイード、あなたは私にとってたった一人の家族。おろそかにするつもりはありません」

「…おう」

「それに、私が出ていく時はきっとあなたの力が必要です」

「おれの?」


 虚を突かれて自分の顔を指差すと、姉上はこっくりうなずいた。


「だからそれまでは、私のことは構わず自分のために邁進してください」

「…おれが忙しくしてるうちに、親父殿が姉上を追い出したりしないよな?」

「心配ありません。そんなことをしたら家が傾くでしょう。お父様はそんな賭けはしません」

「そうかい」


 心配するなと言うが…本当に大丈夫なんか。


 姉上をじっと見つめてると、逆に見つめ返された。

 どうやら話は終わりみたいだ。ちょっと釈然としないが、おれは腰を上げた。

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