3.裏庭
* * *
それから二晩も越えずに母上は亡くなった。あっけなくて実感が湧かなかった。こんな時は子どもは泣き出すもんらしいが、死んだんだとかもう会えないんだとか頭の中で唱えてみても、それで泣けてくるってこともなかった。
ばあやがぎゅうぎゅうと抱きしめても、ハフェズが黙って頭をぐしゃぐしゃと押さえ込んでも、別に気分は盛り上がらなかった。もとからあんまり顔を合わせてなかったから、大して変わりない気がしちまう。おれって冷てえのかな。
大人が葬式の準備をしてる間、おれだけは案外ヒマになってしまったので裏庭まで回ってみた。奥棟の裏手にあるここは、女たちが気兼ねなく散歩できる憩いの場として、中庭に劣らずきれいに整えられている。真ん中にはやっぱり、あっちよりは小さめな池がしつらえられていた。その側に植わった木がいい日陰を作ってる。
シェヘラザードという娘の部屋のことは、ばあやにも親父殿にも聞きそびれてる。母上の部屋で暮らしてた頃を含めて、今まで屋敷の隅々まで歩き回ったはずだが、そんな部屋があるなんてさっぱり記憶にない。
改めて頭の中で屋敷の間取りを思い浮かべてみる。うさんくさい入口とか、繋がらない廊下とか…やっぱり覚えがねえなあ。
おれは池の縁石に腰掛けて、図面ぽい何かを描いてみようとした。
「だめだ、部屋数が多すぎてわけがわかんねえ」
地面を引っ掻いてた小枝を放り投げて、奥棟の壁を眺める。
そういや屋根に登ってみたことはなかったな。上から調べたらなんかわかるかな? いっぺん確かめてみるか。
「ん?」
屋根に向かってた視線を下げると、壁際に誰か立ってた。黒衣――喪服をまとった娘だ。召使いか?
いや、直感した。あれがそうだ。
目が合うと、娘はおれに向かって歩み寄ってきた。遠目では大人かと思ったが、近づいてくるとやっぱり若い小娘だった。黒衣でぴっちりと顔まわりを覆ってるので髪は見えない。つるんとした金茶の肌に、くっきりした目元を長い睫毛が飾っている。額にも大粒の黄緑色の石を飾っていた。
その気で見れば、確かに母上に似てると思う。
「…サイード?」
目の前に立ち確認するように呼びかけてきた彼女を黙って見上げていると、自分から名乗ってきた。
「私はシェヘラザード」
やっぱりか。
「…あんた、おれの姉だってのは本当か。その、母親が同じだってのは」
「はい」
「ふうん。じゃあ、姉…えーと、『姉上』か。ふーん。あ・ね・う・え、か」
呼びなれないんでつい練習した。女のきょうだいって、どう扱えばいいんだ。
彼女は――『姉上』は、いきなりおれの隣に腰掛けた。思わずおれは半
それより、閉じこもってるはずなのに何で裏庭なんかに出歩いてんだ?
聞きたいことはいっぱいある。
「…姉上」
「はい」
「母上が言ってたことは全部本当か? …『預かり子』とかさ」
「はい」
「運気をどうこうする力なんて、本当にあるのか?」
「はい。運気が上がるという解釈になりますが、預かっていただくのですから見返りは必要です」
人ごとみたいだな!
ていうか、姉上のしゃべり方は何だか奇妙だ。変にくどいというか固いというか、よくわかんねえ言い回しだし発音もちょっと棒読みだ。
やっぱり人と関わんねえとコミュ障になっちまうのかな。
「何で姉上は人から隠れてんだ?」
「私は、ここで養育されている存在だということをあまり知られたくないのです。でも子どものうちは手助けが必要なので、お母様にお世話をお願いしていました。稀にお父様にもお会いします」
「よくわかんねえけど、…おれにも秘密って、ひどくねえか」
「お母様やお父様は、あなたがもう少し分別がつく年頃になってから話す方がいいと言っていました」
何かひっかかる言い回しだけど、確かに母上もそんなこと言ってた。
「今なら私も賛成します。屋根に登って私の部屋を暴かれたりしては困りますから」
考えを読まれた気がして、おれは思わず吹き出した。
「でもよぅ、自分からここに出てきちまってるじゃねえか」
「今はみんな忙しくしているので、誰にも見られないように出てこれますし、この姿なら誰も気にしません。裏庭も、もうしばらくは誰も通らないことがわかっています」
「へえ。今はちょうど都合が良かったってんだな」
「はい。都合良くしました」
相変わらず妙な言い回しだけど、おれは聞き流した。
「私は、小さなあなたに会ってみたかった」
「おれに?」
「はい。お母様やばあやさんは私のお世話をしてくださいましたが、どうしても『天上の主の預かり子』ということの方を重視されて、かしずくように接していましたし、お父様はもっと距離がありました」
「まあ、『お父様』ったって姉上にとっちゃ本当の父親じゃあねえ…んだろ?」
「はい。ですから、家族らしい関わりというものをよく知りません」
「おれとはそういう付き合いをしたいってのか?」
「そういうことになりますね」
まどろっこしいなあ。
おれは姉上を上から下まで眺めて、苦笑いした。両手をきちんと膝の上で重ね合わせて、無表情でこっちを見てる。いかにも初対面て感じだ。そんなに礼儀正しくしてちゃ、埋まるものも埋まんねえ。
「家族らしい付き合いってのはな、こういうのだよ!」
おれはその両手を素早くどかすと、入れ替わりに自分の頭を乗っけた。同時に体の残りも縁石に上げて寝転がる。
「へへっ」
昔、シャヤールが自分の母親にこうしてもらってたのを見たことがある。おれがまだ女部屋暮らしの頃、第一夫人の部屋まで遠征したらたまたまかち合ったんだ。
あいつ、おれが
姉上はきょとんとしてたが、構うもんか。
おれたちが座ってるところはちょうど木陰で、そよ風が気持ちよかった。後ろの池からは、こぽこぽとリズミカルな水音がしている。目を閉じる寸前、姉上がかすかに微笑んだ気がする。
「なあ、姉上の部屋はどこにあるんだ?」
「お葬式が終わったら、お父様に案内してもらってください。私からも伝えておきます」
「わかった」
細い指が頭に置かれた気がしたが、瞬間ふわりと浮くような感覚がして、気づくと姉上はいなくなってた。ざくざくと後ろから足音がし、振り返ると女玄関から入ってきたらしい召使いが通っていった。どことなく非難がましい目つきで見られた気がしたので、おれは男部屋に帰ることにした。
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