2.生き別れの家族
* * *
「サイード坊っちゃん! ようやくいらっしゃいましたね」
母上の部屋に入ると、まずばあやが出迎えた。おれも七歳になるまではこの部屋で育った。だが母上はなぜか留守がちで、もっぱらこのばあやと召使いがおれの世話をした。女部屋を出てからも、会いに来てもやっぱり留守ばかりなのでそのうち顔を出すこともなくなってた。せいぜい新年の挨拶くらいなので、たぶん数カ月ぶりだろう。
手の込んだ紋様の絨毯を踏んで奥へ進み、これまた凝った透かし彫りの仕切りの向こうの寝台へ回ると、そこに母上が臥せっていた。
あんまり笑わないが凛として整ってた顔は、げっそりやつれて目に隈ができている。
「サイード」
母上はおれを視界に認めると呼んだ。
「母上、お…」
いつもの挨拶の癖で、お元気ですか、と言いかけておれは口をつぐんだ。母上が笑う。
「ふ…あなたは元気そうね。シャツも着ないで」
「お、うん。いつもの船便から帰ってきたばっかなんだ。…これ、お土産だ」
親に会うには雑すぎる身なりを突っ込まれた。さすがに着替えてくりゃよかったかな。ろくな返事が浮かばないので腰帯を探り、シャヤールから死守したアンズを突き出す。母上の目がさらに細まった。
「あら、いい色のアンズね。ばあやにむいてもらいましょう」
ばあやがアンズを受け取って下がると少し空気がぎこちなくなり、おれはまた口を開いた。
「母上、病気の調子はどうなんだ」
その聞き方も大概だと自分でも思うが、十歳のボキャブラリーじゃしょうがない。母上は真顔になり、起き上がろうと肘をついた。
「その前に、話しておかなければならないことがあります」
おれはいったん寝台に上がって母上を支えてやり、壁にもたれさせるとまた降りて向き直った。
「サイード」
母上は一言ごとに息をつきながら言った。
「今まで、一度も会わせたことがありませんが、…あなたには姉がいます」
「へー」
異母きょうだいがまだいるのか。おれの下にも弟がいたらしいが、一度も見たことない。その母親である第三夫人てのが一瞬だけ屋敷に暮らしてたが、お産で亡くなったんですぐ親族へ養子に出されたんだ。だからそういう話は別に驚かない。女のきょうだいなら、なおさら見かける機会なんかないだろう。
「他の夫人の子ではありません。私の産んだ娘です。この屋敷でひそかに育てています」
「はあ!?」
思わずすっとんきょうな声が出た。え、じゃあ何でこの部屋にいないんだよ。
「その子には特別な事情があって、隠しておく必要がありました。
「どんな事情だよ!?」
まさかどっかの没落した家のお姫様とか言うなよ。いや、母上から生まれたら別に姫じゃないか。あれ、てことは母上の方がお姫様なのか?
「そうではありません。もっとありがたいものです」
「ありがたい?」
「あの子は――『天上の
「てん…!?」
意味が頭に染み込むまで少し時間がかかった。母上は、十歳にもわかるよう努めながら説明した。
十三年前、母上は生まれたばかりの我が子を抱いてこの家に保護された。父親ははっきりしないが、母上から産まれたのだけは確からしい。前後の経緯も覚えてなくて途方に暮れてた母上は、ユーシェッド家を頼るよう『啓示』を受けたんだとか。
「この世には、そういう子ども――『天上の主の預かり子』が時おり現れると昔から言い伝えられています。宿る母親を自分で選び、頼った家の運気を上げる。けれど人目に触れさせてはいけないし、正体が知れ渡ってもいけない。ぞんざいに扱うと途端に家が傾くと言われています」
聞いたことがあるようなないような。
その話を信じるかは別として、行き場のない女を受け入れるのは何でもないぐらいにユーシェッド家は裕福で度量もあった。そして、ほどなく家業が追い風に乗る勢いで躍進したことから、言い伝えが本当だと実感したらしい。
「私たち
母上は、自分ひとりだけでずっとその娘の世話をしていたそうだ。誰にも見られない部屋で、つきっきりで。
母上が留守ばっかりだった理由がやっとわかった。わかったけどどっかモヤッとするな。
「…おれにも秘密ってのはあんまりじゃねえか?」
実の姉弟が同じ屋敷の中で十年も生き別れとは、とんでもない話だぜ。
「ごめんなさいね。あなたには、もう少し大きくなったら打ち明けるつもりでした。でも…」
「母上!」
母上は大きなため息をつくと、崩れるように横倒しになった。おれは母上の額に浮いた汗を拭き、上掛けをかけてやった。そうして母上はしばらく目を閉じていたが、気力が少し溜まったらしくまた目を開けておれを見た。
「サイード、あの子に会ってあげて」
「おう」
「名前はシェヘラザード、いま十三歳です。あの子の部屋は、ばあやか旦那様に教わって」
「おう」
母上が、顔の脇に置いてた手をわずかに上げたので、おれは両手でそれを取った。そろそろしゃべんないでくれ。ひどい顔色だ。
「…旦那様は、あの子に対して丁重にしていたけれど、内心では気味悪がっていました。私がいなくなったら、あの子と繋がりがあるのはあなただけ。どうか気にかけてあげて」
「い、いなくなったらとか言うなよ!」
さっきからすごく言いそうな気がしてたが、ついに言われた。母上の手がおれの両手を抜けて、顔に触れた。瞼や頬に触れたあと頭を引き寄せられ、額に唇の感触がした。
「お願いね」
いやだ。そんな話は急過ぎる。おれよりその娘の方を優先してるっぽいのも気に入らねえ。
おれは、口を尖らしたまま睨むのが精一杯だった。
「……」
母上は、ちょっと眉を下げたがそれでも黙って微笑んでいた。そのうちばあやが飛んできて、母上はもうくたびれきって限界だから引き取ってくれと言われた。おれは、胸の中がどんよりした気分で部屋を出た。
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