果てを渡る風

宇野六星

第1章 オリフォンテ

1.ユーシェッド家

 一番古い記憶は、誰かに抱きかかえられてフィニークの港を見下ろす高台にいる場面だ。

 その人は言った。


「いいか、サイード。旅は我らの民の魂だ。我ら――オリフォンテの民の誇りを忘れるな」


 前後の経緯はまったく覚えてないが、その言葉はとても大切なことのように感じられた。おれはうなずく代わりにしがみつく手に力を込め、彼方の水平線を見つめていた。


* * *


「スリだ! 誰かそいつを捕まえろ!」


 後ろから怒声が響き渡るのと同時に、誰かがおれを目いっぱいどついて人混みをかき分けていった。大人の半分もない体重のせいで思わずよろけると、通行人のでかい荷物にまたどつかれる。

 フィニーク連邦随一の交易都市オリフォンテの港は、あちこちから来た船の荷揚げ作業や仕入れに来た商人、街へ繰り出そうとする船乗りや渡航客でごった返していた。


 おれはすぐさまスリを追い、人混みを抜けた。スリの男は一瞬振り向くとまた全力で走り出し、大量に積まれた木箱の荷の山を回り込んだ。おれみたいな子どもの足じゃ追いつけやしないが、近道すれば話は別だ。

 おれは手近な木箱を蹴ってその山へ一気に登り、反対側を走っていくスリを確認した。さらに次の山の向こうへ回ろうとしていたので、そっちの山へ飛び移る。ズボンシャルワールが風をはらんでやや勢いを殺されるが、難なく着地した。

 この山は半分は木箱で、残りは帆布で覆った大籠だ。うまく先回りしたところで、その籠の一つを蹴倒した。中身のアンズがばらばらと黄色い雪崩になって男の頭上から足元へと散らばり、まともに走れなくなったところでおれも飛び降りる。

 両足でドロップキックをお見舞いすると、男はさすがに地面に転がった。おれはすぐに一回転して立ち上がり、そいつの財布を握っている方の腕を踏みつける。男は無様な声を上げた。


「んがっ!」

「へっ、いいざまだ」

「なんだこのクソガキ!」


 男がおれを見上げて悪態をつく。

 濃紺の髪と少々日焼けした金茶の肌をしたおれの姿は、頭には日よけの布を巻き、むき出しの上半身に短いベスト、下は腰回りゆったりで裾のすぼまった白いシャルワールに腰帯を付け、ぺたんこの靴を履いている――典型的なフィニーク人の水夫、ただしクソガキサイズ――だった。


「てめえこそ、うちの船の客に悪さしてんじゃねえよ。これは返してもらうぜ」


 おれはそいつの手からすられた財布をもぎ取り、素早く離れた。男が起き上がったところを狙って、顔面へアンズを二個三個ぶち込む。そうこうしているうちに、被害者やら警備やらが駆けつけた。


「サイード!」


 大げさにも馬で来た奴もいるぞ…と思ったら、うちの船長だった。一面に散らばった黄色い実を見て呆れてる。


「派手な捕り物だな。どこの荷だ?」

「知らねえ」


 けろっとして答えたおれに船長は舌打ちした。


「チッ、しょうがない奴だ。――おい、後を頼むぞ」


 そして伴ってきた船員に顎をしゃくると、おれに手を伸ばした。


「お前の家から使いが来てる。乗れ」

「一人で乗れるって。おれ、もう十歳だぜ」

「ポニーならな。とにかく急ぎだ。送ってやる」


 おれはアンズを一掴み取って腰帯に挟み込むと、船長の手を借りて鞍の前に乗った。船長が馬の腹を軽く蹴ると馬は歩き出し、すぐに早足になった。振り返るとスリは無事に捕まり、船員らは荷を片付け始め、そこへ何か騒ぎ立てながら近づく者――たぶん荷主だな――もいて、最後にこっちを見て片手を上げて立ってる奴がいた。


「…あいつ、うちの召使いか?」

「ああ、この馬で来たんだ。先に行っててくれとよ」

「一体何があるんだ?」

「お前のお袋さんが病気で危ないらしい」

「……」


 おれは黙った。内容のせいじゃなくて、そろそろ舌を噛みそうだからだ。馬は港から市街地へ上がり、さらに山の手へと向かう。


 埃っぽい道の脇には時々棕櫚しゅろが植わり、木陰で行商人がラクダと一緒に昼寝してたりした。市場の入口では、頭からすっぽり外出着で身を覆った女たちが、連れを待たせておしゃべりしてる。身なりや風貌にちょっとずつ差異があるところが、いかにも連邦の中心地でいくつもの民族が暮らすこの都市まちらしい。


 交易都市オリフォンテは、この大陸のはるか西から流れてきた民によって建てられた街だと聞いてる。彼らの名がそのまま街の名として定着したそうだ。ここは馬とラクダと船が行き交うのにちょうどよい地で、彼らが隊商宿の管理や治安も請け負ってくれたおかげでよく賑わった。そのうち周辺の民族間の調停もやってるうちに、フィニーク連邦としてまとまった。オリフォンテは、その中心地にして六つの民族国家の筆頭国となったんだとか。


 おれは、そのオリフォンテの有力氏族の一つ、ユーシェッド家の三男として生まれた。まあ遅くに生まれた三男ともなれば父親も大して期待しない。目が届かないのをいいことに好き放題やっている。

 七歳の時に、家業をもう手伝ってる兄にくっついて初めて港に来た。商談を待ってる間に忍び込んだ船で鬼ごっこやかくれんぼを繰り広げたのが縁で、その船で見習い水夫の真似事をさせてもらってる。船長が親父殿と昔からの顔なじみだとかで、近海を回る安全な航路にだけ乗船もさせてくれてる。今回も半月の行程を終えて帰ってきたとこだ。


 素っ気ない塊のような外壁の豪邸が建ち並ぶ中、一際大きく分厚い壁がそびえる一角まで来た。その壁の正面をくり抜いて設置した門扉の前で、馬は止まった。船長はおれを下ろすと、馬を返すために裏手に回っていった。


 門扉に近づくと、召使いが現れておれを通した。トンネルのような通路を折れて抜けると、広くて整然とした中庭が目に入る。中心には蓮を浮かべたきれいな円形の人工池があり、それを通路と植え込みが対称形に取り囲んでるデザインだ。中庭の周りは柱廊と格子の窓が囲んでいて、屋敷の中へと風を通している。日に照らされた中庭に比べると、薄暗くてだいぶ涼しそうに見える。


 広間の窓から長兄ハフェズがおれを見つけて手招きした。ところが柱廊から広間へと足を踏み入れると、いきなりおれの首根っこを掴んだ奴がいた。そのまま引き寄せられて、後ろから腕で首元を押さえられる。


「よう、海賊がこんなところに何しに来た? お前がこの家から盗めるものなんかないぞ」

「…離せ」


 次兄シャヤールだ。九つも年が離れているにも関わらず、いつも陰険に絡んできやがる。今も抗議にかまわず腰帯を探り、しまっていたアンズを見つけ出した。


「さっそくお宝があるぞ。どこからくすねてきた?」

「離せって!!」


 おれは片足を振り上げてかかとを奴の向う脛に叩き込んだ。注意がそれた隙に腕から抜け出す。


「ぐっ、生意気な…」

「シャヤール、何を足止めしてる!」


 陰険野郎がうめき声を上げているところへ、ハフェズが駆けつけた。


「挨拶だよ。可愛い弟とじゃれ合ってただけさ」

「何が挨拶だ、いい年してみっともないぞ」


 白々しい言い訳に耳を貸さないだけ、ハフェズの方が分別ある。まあ当然か、こっちは二十一でもうすぐ嫁さんが嫁いでくることになってる。


「サイード、来い」


 おれはハフェズに引き立てられ、広間を抜けてまた柱廊に出た。中庭を横目に屋敷の奥の棟に向かう。


「母上が病気って本当か? 半月前は誰もそんなこと言ってなかったぜ」

「医者の話だと、気づかないうちに少しずつ進行してたらしい。最近の気候で体力を奪われて一気に悪化したようでな」

「……死ぬのか?」


 おれの問いに、ハフェズは立ち止まってこっちを見た。


「持ち直してくれたらいいとは思ってる」

「そうか…」

「今亡くなられると、俺の婚礼も仕切り直しになる」

「けっ」


 おれは聞こえないように舌打ちした。


 ハフェズは奥の棟に通じる扉を開けた。この先は女部屋ハレム――女たちの生活領域で、具体的にはおれたちの母親とその召使いたちがいる。鍵は掛かってないが、この扉を抜けられるのは身内の男だけだ。女たちも扉からこっち側へ出てくることはない。中庭を歩くこともないし、外出する時も横手の出入口を使う。


 廊下のとある角まで来ると、ハフェズはまた立ち止まった。ここから横手に入ると第一夫人の部屋、真っ直ぐ進むと第二夫人の部屋がある。で、ハフェズとシャヤールの母親は第一夫人、おれの母親は第二夫人だ。母親じゃない方の夫人に会ってはいけない決まりはないが、夫人同士の折り合いがいまいちなのでお互いの子も召使いもなるべく避けるようにしている。

 ハフェズは横にずれると手を後ろに組み、おれを先へ促した。

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