【完結】傷だらけのダイヤモンド(作品230411)

菊池昭仁

傷だらけのダイヤモンド

第1話 満たされない女

        実際にどう生きたかなんて、大した問題じゃないわ。

        大切なのは、どんな人生を夢見たかなのよ。

        なぜって、夢はその人が死んだ後も生き続けるものだから

                                 

                           ココ・シャネル



 深海の魚になったように、雪乃はベッドに沈んでいた。

 森崎とのセックスは、いつも雪乃を解放してくれた。

 森崎の放出した精液を拭き取る気力もなく、雪乃は心地よい放心状態のまま体を起こすことが出来なかった。


 激しいオルガスムスを感じ、押しては返す波のようなエクスタシーが雪乃のカラダを翻弄していた。

 雪乃は自分自身のコントロールを完全に失っていた。



 森崎は既に身支度を整え、ソファでタバコを燻らせ、25階の高層ホテルからの都会の景色を眺めていた。



 「もう行くの?」

 「ああ、今日は午後からオペがあるんだ。

 雪乃はそのまま少し眠るといい、お前は今日も一段と激しかったからな?」

 「そうさせたのはあなたでしょ?」


 森崎は横顔で微笑むと、テーブルに置かれたBMWのキーを拾い上げた。


 「来週はロスで学会があるから会えないが、お土産は期待してくれ。

 じゃあ先に行くね?」

 「気を付けてね。

 夜、電話してもいい?」

 「もちろん、いつでもどうぞ」


 雪乃はそれが嘘であることはわかっている。

 森崎には家庭があったからだ。

 どうせ森崎は電話には出ない。出ることが出来ないのだ。


 雪乃は偶然、森崎の携帯を見てしまったことがある。

 そこに表示されていた雪乃の登録番号は「大森薬品 田中係長」となっていた。

 明日のない虚しいだけの関係に、雪乃は漂っていた。


 雪乃には森崎の他にも数人、ベッドを共にする男性がいたが、それで寂しさを埋めることは出来ても、心が満たされることはなかった。

 彼らは不味くはないが、かと言って美味しくもない存在。雪乃は彼らに愛情を抱くことはなかった。

 会って食事をしてセックスをするだけの関係。

 寧ろそれは雪乃にとっては都合が良かった。



 「真也を忘れさせてくれる男なんて、どこにもいないわ」


 何度男に抱かれても、それが愛に変わることはなかった。


 森崎が出て行った後、雪乃はベッドから起き上がり、ダラダラとバスルームへ向かい、熱いシャワーを浴びた。


 雪乃は徐々に現実へと引き戻されていった。


第2話 果たされぬ約束

 「ねえ、何を作っているの?」


 高校生だった雪乃は、フライパンを巧みに操る大学生の真也に見惚れていた。


 「雪乃にこれを食べさせたくてね? 紋甲イカとオクラのペペロンチーノだよ。

 結構うまいんだぜ、このパスタ」

 「いい香り、美味しそうー、早く食べたーい!」


 雪乃は真也の背中に抱き着き、甘えてみせた。


 「こらこら、料理が出来ないじゃないか?

 パスタはね、時間との勝負なんだ、特にこのペペロンチーノは」

 「つまんないのー、もっと真也にベタベタしたーい」

 「わかったわかった、もう少しだからな。テーブルを片付けて置いてくれないか?」

 「はーい」


 雪乃はしあわせだった。

 学校が終わると、いつも真也のアパートへ直行した。

 当時、真也は大学生で、都内の老舗イタリアンの店で調理補助のバイトをしていた。

 彼の将来の夢は自分のイタリアンレストランを持つことだった。



 「大学を卒業したら、ジェノバの三ツ星レストランで勉強しようと思うんだ」

 「じゃあ私も連れてって、私も行きたい、真也とジェノバへ」

 「そうだな? 雪乃と一緒にジェノバで暮らすか? それもいいかもな?」


 いつしかそれが雪乃と真也の共通の夢になっていた。



 雪乃はイタリア行きの資金を貯めるためにコンビニでバイトを始めた。

 だが、コンビニの時給では到底追いつかないのが現実だった。

 そこで雪乃はキャバクラでキャバ嬢をして働くことにした。18歳だと偽って。

 

 キャバクラはお金になった。

 通帳を見るのがどんどん楽しくなっていった。

 預金残高が増える度、真也とのジェノバでの生活が近づくのが実感出来た。




 真也が卒業間近になった頃、雪乃は真也に通帳と印鑑を渡した。


 「どう? すごいでしょ? こんなに働いたんだよ、私。

 ねえ、これだけあれば行けるよね? ジェノバ」


 真也は喜んでくれると雪乃は思っていた。

 真也のために貯めたお金だ。お客に胸を触られたり、タバコ臭いハゲオヤジとも同伴もした。

 古株の先輩キャバ嬢に妬まれ、ロッカーのドレスを切り刻まれたりもされたが、それにも耐えた。

 そうして貯めたお金だった。

 だが、真也の反応は意外なものだった。


 「がんばったんだね、こんなにたくさん。

 辛かっただろう? 雪乃。

 でも、これは受け取れないよ、君が稼いだ大切なお金だ、その気持ちだけ貰っておくよ」


 そう言って、真也は通帳と印鑑を雪乃に返した。


 「いいんだよ、真也にあげる。

 だって、真也のために貯めたお金なんだよ。

 ね、だからこのお金で一緒にジェノバに行こうよ」

 「ごめん、雪乃。ジェノバへは俺ひとりで行くことにしたんだ。

 どうなるかわからない俺の修業に、雪乃をつき合わせるわけにはいかないよ」

 「大丈夫だよ、私、真也の邪魔はしないから。

 真也と一緒にいたいの、ただそれだけなの。

 お願い、私を置いて行かないで! ジェノバに一緒に連れて行って!」


 


 成田の北ウイングに真也を見送りに行った時、真也は雪乃に言った。


 「雪乃、俺は必ず一流のシェフになって戻ってくる。

 それまで待っていてくれ。そしてふたりで日本一旨い、イタリアンの店をやろう。

 名前はもう決めているんだ」


 真也は雪乃に紙切れを渡した。



  Cucina Yukino's



 「雪乃のためのお店だ。

 俺と雪乃のための夢のRistoranteだよ」


 雪乃は泣いた。

 成田の出国ゲートが涙の海で沈んでしまうくらいに。


 「じゃあ、行ってくるよ」


 真也は雪乃を強く抱きしめ、キスをした。

 そして彼は右手を高く挙げ、振り返ることもせずにエスカレーターを降りて行った。




 そしてそれっきり、真也は日本に戻ることはなかった。

 彼はジェノバで死んでしまったからだ。



 仕事を終え、バイクでアパートへ帰る途中の事故だったらしい。

 交通事故だった。

 

 やさしくてイケメンで、いつも真也と一緒にいるだけで穏やかな自分でいることが出来た。

 いつも彼の香りに包まれ、癒されていた。



 雪乃の時間はこの時から止まってしまった。


 どんなに美味しい食事をしても、どんなに素敵な男に抱かれても、雪乃の心はそれに追いつくことが出来なかった。


 雪乃は心をなくした着せ替え人形のようだった。


第3話 キリストの瞳をした男

 昨夜はお客の入れてくれたシャンパンを5本も飲まされ、雪乃は少し二日酔いぎみだった。


 雪乃は40歳になっていた。

 若い時の自分なら、朝まで飲んでも平気だった。


 (私もオバサンか・・・)


 雪乃はようやくベッドから起き上がると、冷蔵庫から冷えたペリエを取出しグラスへと注いだ。

 酒を飲む楽しみは、目覚めの後のこの冷えた一杯の炭酸水にあると雪乃は思っていた。

 ペリエは雪乃の渇いた喉を潤した。



 雪乃はシルクのパジャマを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。

 お客のタバコの臭いや、吐く息や唾が、雪乃の白い身体から剥がれ落ちていった。

 長雨が続いていたが、久しぶりに爽やかな日差しが眩しかった。

 雪乃は化粧をして髪をポニーテールにまとめると、シルバーのアルファロメオの幌を外し、カプリオーレにして海へと走り出した。

 レイバンのサングラスをかけた雪乃の美しさに、すれ違うドライバーたちはアクセルを緩めた。



 海岸通りを潮風を感じながらのドライブは爽快だった。

 雪乃は海水浴場にある大型駐車場にクルマを停めた。


 平日の5月ということもあり、駐車場は閑散としている。

 波の音が聞こえていた。

 五月の風を船乗りたちは「MAY KISS」と呼ぶらしい。目の前に広がる太平洋に、雪乃は大きく腕を広げてつま先立ちになり、深く胸に潮風を吸い込んだ。



 防波堤をそのまま歩いて行くと、ひとりの男が海を見詰めて立っているのが見えた。

 俳優のオダギリジョーに似た、長身の髪の長い男の頬には涙が流れていた。

 雪乃はそのまま通り過ぎようとしたが、あまりのその悲しそうな横顔に、思わず声を掛けてしまった。


 「どうかしましたか?」


 男は雪乃に向き直ると、涙を拭わずに微笑んだ。

 その鳶色の瞳は清々しいほどに澄んで美しく、尊厳に満ちたものだった。


 (キリストの眼差しは、多分こんな慈愛に満ちた物だったはずだわ)


 雪乃はそう思った。



 「海は凄いですよね? いつも真剣で。

 穏やかな時も、荒れ狂う時も、いつも海は真剣です。

 よくここへ来るんですか?」


 雪乃は泣いていたその男に気遣い、男を見ずに海を見ながら言った。

 

 「ええ、時々。

 涙が口に入ると、私、思うんです。人間の涙って海の水と同じじゃないのかなって。

 だってどちらも苦くて塩っぱいじゃないですか?

 私たちってやっぱり海から生まれたんでしょうね?」

 「私もそう思います。私たちは海から来たんですよ、おそらく」

 「私ね、寂しい時や悲しい事があると、よくここに来るんですよ。

 そしてこの海に話をするの、こんなことがあったとか、あんなことがあってとか。

 もちろん海は何も答えてはくれません、ただじっと黙って私の話を聞いてくれる。

 忘れさせてくれるんです、嫌なことすべてを。

 この波音を聞いていると、そんな安らかな気持ちになります」

 「私も忘れたい事が多すぎて、よくここに来ます」

 「私たちって似てますね? なんだかお腹空きません?

 あそこのレストラン、海がよく見えるんですよ、いかがです? ランチでもご一緒しません?

 ひとりでは味気なくって」

「では、私が海になってあなたの話を伺いましょう」


 雪乃は自分でも不思議だった。

 食事に誘われることはあっても、自分から男性を食事に誘うことはなかったからだ。


 私たちはレストランに向かって歩き始めた。

 それはまるで、今までずっと一緒にいた恋人たちのように。


第4話 小次郎

 「ここのお店はね、カニピラフが有名なんだけど、私、手が臭くなるのがイヤなのよねー。今日は何にしようかしら?」


 雪乃は渡されたメニューを眺めながら、独り言を呟いた。


 ふたりは海に面した、大きな窓際の席に案内され、有線放送のクラッシック音楽が邪魔をして、波の音が聞こえないのが少し残念に思えた。


 「カニピラフは嫌いなんですか?」

 「いいえ、大好きよ。

 でも手が臭くなるのがねー。一応、フィンガーボールも付いてくるんだけど、今度はそのジャスミンの香りがキツくって・・・」

 「じゃあ、私が殻を剥いてあげますよ。蟹の身を解すのは好きなんです」

 「あら、蟹の殻じゃなくて、女の子を剥くのが好きだったりしてね? うふっ」

 「それも好きですけどね」


 ふたりは楽しそうに笑った。



 「じゃあ、君はカニピラフで。私はカニクリームコロッケにします。

 カニクリームコロッケも名物らしいですよ、このお店」

 「そうな? 知らなかった、よくご存じね?

 よく来るの? このレストランに?」

 「久しぶりに来ました、10年ぶりに」


 男の顔が少しだけ曇ったのを雪乃は見逃さなかった。


 (別れた女とでも来たのかしら?)


 「いいお店よね? 私ね、ここで海を見ながらお食事をするとね、ユーミンの『海を見ていた午後』が浮かんでくるの。

 

    ソーダ水の中を 貨物船が通る

    小さな泡も恋のように 消えていった


 いい歌よねー? 知ってる? この曲?」

 「ええ、素敵な曲ですよね? 私も好きです」

 「行ってみたいなあ、山手のドルフィン。

 そうだ、ここからなら貨物船も見えるわよね?」


 雪乃はドリンクメニューを開いた。


 「あー、がっかり、ソーダ水がないわ」

 「じゃあ、ジンジャエールにすればどうです?」

 「いい、それいい! ジンジャエールなら夕暮れの黄昏の海になるわよね? そこを貨物船が通るなんて、もっとロマンチックになるじゃない?

 すみませーん、ジンジャエールを下さい!

 あなた、飲み物は?」

 「私はビールで」

 「クルマじゃないでしょうね? ダメよ、飲酒運転は」

 「そんな度胸は私にはありませんから安心して下さい」

 「じゃあビールと蟹ピラフのMサイズ、それから蟹クリームコロッケをお願い。

 ご飯は?」

 「要りません、ビールのつまみにしますから」

 「そう、じゅあライスはなしで」

 「かしこまりました、お飲み物はいつお持ちすればよろしいでしょうか?」

 「ビールは食事と一緒で、ジンジャエールは食後にして頂戴」

 「熱々のコロッケを食べてからのビールでいいわよね?」


 男は笑って頷いた。

 

 (男性とこんな楽しい会話をしたのは何年ぶりかしら?)


 真也の笑顔が浮かんだ。

 雪乃は涙を隠そうと、化粧室へと席を立った。


 「ごめんなさい、ちょっと失礼」

 


 化粧室の鏡には、自分の情けない顔が映っていた。


 (ダメ、やっぱり真也のことが忘れられない・・・)


 雪乃の化粧は遅々として進まなかった。



 席に戻ると、男は真剣な表情で蟹の殻を剥いていた。

 その姿に雪乃の憂鬱は消えた。


 「あらあら、本当に上手なのね? 蟹の殻を剥くの?」


 男はそれには答えず、作業に没頭していた。


 一心不乱に蟹の身を解すその姿に、雪乃は胸がキュンとした。

 真剣に自分のために殻を剥くこの男に。


 「ねえ、もうそれくらいでいいわよ、コロッケが冷めちゃうわ」

 「コロッケは少し冷めた方がいいんです、私は猫舌なので」


 男は手を止め、雪乃を見てそう言うとまた手を動かし始めた。

 雪乃はその一瞬で恋に落ちた。

 


 雪乃の前に、どっさりと蟹の身が乗ったピラフの皿が差し出された。


 「お待ちどうさまでした。さあ、召し上がれ」

 「うっわあーっ、ありがとう!

 人に蟹を剥いて貰ったの初めてよ!」


 雪乃は高校生のようにはしゃぎ、喜んだ。

 また泣きそうになってしまった。

 それは真也を思い出したからではなく、自分のためにしてくれた、この男の純粋な無償の行為に。


 「どうです? カニピラフの味は?」

 「ジュエル・ロブションのフレンチよりも美味しい!

 人に剥いてもらった蟹は最高! 手も汚れないしね? あはは」


 男は満足そうに笑っていた。

 ナイフとフォークの使い方に、男の育ちの良さが窺えた。



 食事も終わり、ジンジャーエールが運ばれてきた。

 雪乃は、グラスを沖を通る船に翳した。


 「わあー、ユーミンの曲と同じ・・・」


 すると驚いたことに、今度は男が雪乃を見詰め、涙を浮かべていた。

 雪乃はなぜ、その男が泣いているのかがわからなかった。


 (こんな男もいるのね、女の前で平気で泣ける男が・・・)


 「私、春山雪乃。あなたは?」

 「小次郎」

 「上のお名前は?」

 「無いんだ、苗字は」

 「それじゃあワンちゃんと同じでしょ? 人が真剣に聞いているのに意地悪ね!」

 「どうせ名前で呼んでくれるんでしょう? ファミリーネームなんて不要です」


 小次郎は少し温くなってしまったビールを口にした。


 「それもそうね。じゃあ小次郎さん、私の事も雪乃って下の名前で呼んでもいいわよ、特別に。

 お仕事は何をしているの?」

 「ゴミの掃除です」

 「何それ? 私をからかっているの?

 まあいいわ、仕事なんて別にどうでもいいわよね?

 私の事は聞かないの? 人妻とか?」


 小次郎のスマートな物腰、ウイットのある会話、身なりも好きだった。


 (社長さんかしら? 法律関係? それとも大学教授? 医者には見えないけど・・・)


 服はベルサーチ、時計はフランクミュラーをしていた。

 靴はBARRIE? きちんと磨かれている。

 

 (奥さんが磨いてくれるの? それとも自分で?)


 雪乃は妻帯者であるかは敢えて訊ねなかった。

 それは淡い期待があったからだ。

 独身であって欲しいと。


 だが、小次郎には家族も、そして女のいる気配も感じられなかった。

 ただ時折見せる、悲しそうな表情が妙に気になった。



 「ご主人がいるようには見えませんね? 指輪もしていないし」

 「小次郎さんは? 指輪はしてないようだけど?」


 雪乃は期待を込めて小次郎を真っ直ぐに見た。

 どうか独身でありますようにと。


 「私も独身ですよ。たぶんこれから先もずっと」


 雪乃は安心した。


 「そんなのわからないでしょー? 結婚するかどうかなんて?

 そうゆう人ほどあっさりと結婚してしまうものよ」



 雪乃はバッグから名刺入れを取出し、小次郎に渡した。


 「よかったら遊びに来てちょうだい、クラブをやっているの。

 ウチのお店は美人揃いよ、いい結婚相手が見つかるかも」

 「近いうちに伺います」


 そう言って、小次郎は雪乃の名刺をポケットに入れた。




 帰り際、雪乃は小次郎の携帯番号を聞こうかと思ったが、止めた。

 雪乃は賭けをしたのだ。これが本物の出会いなら、必ず小次郎は雪乃に会いに店を訪れるはずだと。



 「今日はとっても楽しかったわ。お店で待っているわね、必ず来てね? 約束よ。

 それじゃ指切り」

 「必ず伺います」


 そう言って、小次郎は雪乃の指切りを拒んだ。


 「私のクルマで送ってあげましょうか?」

 「ありがとうございます、お気遣いなく」


 小次郎はそう言うと、来た道とは反対方向に向かって歩いて行った。

 雪乃はいつまでもその後ろ姿を見送った。


 夕暮れ近くの海岸には、一羽のカモメが低く波打ち際を飛んでいた。


第5話 風の小次郎

 あれから10日が過ぎたが、小次郎は店に現れなかった。


 (10日も経つのに小次郎のバカ!)


 雪乃は苛立ちと寂しさで、接客も荒れていた。

 常連の市会議員の桃井が雪乃の太腿を触った。


 「ちょっと先生、別料金いただくわよ。ここはそういうお店じゃありませんからね」

 「いいよ、さくらママの太腿に触れるんならいくらでも出すよ」


 有権者の前では誠実そうに振舞うこの男の本性を、テレビやネットに晒してやりたいと雪乃は思った。


 

 その時、店のドアが開くと、雪乃の顔は太陽に向かって咲くひまわりのように輝いた。

 小次郎が雪乃の姿を探していたからだ。


 雪乃は着物の裾を気にしながら、小次郎の元へ小走りに駈け寄った。


 「うれしーい! ちゃんと来てくれたのね? ずっと待っていたんだからー。

 もう会えないのかと思っちゃった」

 「ごめん、ゴミの掃除が忙しくて。

 凄く混んでいるね? 大丈夫だった? 突然来て?」

 「何を言っているのよ、さあ、こっちこっち!」


 雪乃は一番奥のボックス席に小次郎を案内した。


 「お飲み物は?」

 「先日のレストランみたいに今日は貨物船は見えないけど、代わりにママを貨物船にしてグラスに入れようかな? 再会を祝してドンペリで乾杯を」

 「えっー、うれしーい!

 ちょっとここにドンペリをお願い!

 さあ、ノンちゃんにイアン、それから麻美もこっちに来て頂戴!」


 一挙に小次郎のボックス席が華やいだ。


 「はじめまして、ノンでーす。さくらママのお知り合いですか?

 すごいイケメンさんじゃないですかー? オダギリジョーに雰囲気までそっくり!」

 「ダメよノン、小次郎を食べちゃ。私のダーリンなんだから」

 「えー、そんなのズルいですよー、決めるのは小次郎さんでしょ?

 小次郎さんだって、ピチピチの若い子がいいですよねー?」


 ノンは大学院でフランス古典文学を研究している才媛だった。

 いつも出だしのムードを盛り上げてくれる。


 「みなさんもお好きな物をどうぞ」

 「ありがとうございます! 気前のいい男前、大好き!」


 ホステスたちも心から楽しそうだった。



 少し遅れてまた別の黒いスーツに派手なネクタイをした、眼光の鋭い男が三人、店に入って来た。

 そのお客たちはチイママの雪江が応対した。


 

 小次郎のテーブルに酔った市会議員の桃井がやって来た。


 「おいママ、なんだコイツは? 見かけねえ顔だな?

 こんな奴は放っといて、俺のところへ来いよ、さくらママ」

 「ハイハイ、先生、今行くから待っててね?」


 すると桃井が雪乃の腕を強引に掴んで引っ張った。


 「ママの手を放してあげて下さい。そんなに引っぱったら腕が取れてしまう」

 「なんだテメー、この桃井泰造に意見するとはいい度胸だ! 俺を誰だと思っている!」


 桃井は小次郎の胸倉を掴んだ。

 だが小次郎はそれに抵抗しなかった。


 すると、さっきまで奥にいた三人組の男がやって来て、桃井の腹に蹴りを入れた。


 「おめえ、死にてえのか?」


 蹲り、呻く桃井。

 小次郎が男たちを制した。


 「いいんだ、この人は少し飲み過ぎただけだから」


 すると男たちは小次郎に深々と頭を下げ、席へと戻って行った。

 連れの秘書が桃井を抱き上げ、雪乃に言った。


 「さくらママ、いつからこの店は暴力団が出入りするような店になったんですか?

 知りませんよ、うちの先生を怒らせるとどうなるか?」

 「構わなわよ、こちらこそ今日限りであんたたちは出禁にするから二度とお店に来ないで!

 マネージャー、先生たちがお帰りよ。

 お会計をお願いして、私へのおさわり料とお客様への迷惑料も徴収してね?」

 「かしこまりました」


 小次郎が立ち上がった。


 「うちの社員が失礼をしてしまい、すみませんでした。

 お代は私がお支払いいたします」


 小次郎はスーツの内ポケットから札入れを取り出すと、帯封がついたままの札束を静かにテーブルへ置いた。


 「今日はこれで帰ります。

 ごめんなさい、うるさくしてしまって」

 「小次郎のせいじゃないわ、悪いのはこのエロ議員よ!

 まだ来たばかりでしょう? 帰らないで小次郎!」

 「そうはいきません。他のお客さんも迷惑していますから。

 今夜は帰ります、おやすみなさい」

 「ちょっと小次郎、それにこんなにたくさん受け取るわけにはいかないわ」

 「どうぞ受け取って下さい、お清め料です」


 小次郎が出口に向かうと、さっきの男たちも後に従った。

 雪乃は酷く落胆した。


 「必ずまた来て下さいね」

 「・・・」


 小次郎はそれには答えず、無言で微笑み帰って行った。



 雪乃たちが小次郎たちを見送って店に戻ると、マネージャーの木島がやって来た。


 「さくらママ、あの方とはどのようなご関係ですか?」

 「どうしてそんなこと訊くの? 珍しいわね? あんたがそんなことを詮索するなんて」

 「そのスジの人間なら、あのお方を存じ上げない人はいないハズです。

 おそらくあの方は『風の小次郎』です」

 「風の小次郎?」


 雪乃はグラスに注がれた、気の抜けたシャンパンを眺めていた。

 そしてその時、長い眠りについていた雪乃の恋心に再び火が点いた。


 (小次郎にもう一度会いたい!)


 雪乃は小次郎が入れてくれたシャンパンを、ボトルごと一気に飲み干した。


第6話 再会

 マネージャーの木島は言った。

 

 「以前、鳥越の親分さんから聞いた話ですが、5,000人近くの構成員を有していると言われる、あの広域指定暴力団「如月組」の組長のご子息が、オダギリジョーに似た男で、自分の組の子分を殺された仇討ちに、バズーカ砲に手榴弾、ダイナマイトに日本刀、サブマシンガンを持ってたったひとりで対抗する組を壊滅させたという伝説のヤクザがいると。

 そしてその男の背中には日本の至高と言われる彫師、銀天が彫ったという雌雄の双龍があり、怒りに震えると、その二頭の龍が体から離脱して、疾風を巻き起こすという伝説があり、それが「風の小次郎」と呼ばれる所以だそうです。

 さくらママ、あのお方にだけは近づかない方が身のためです」

 「そう、それで如月組ってどこにあるの?」

 「聞いてどうするんです?」

 「お金を返しに行くのよ、貰いすぎたから」

 「お止め下さい! どうしてもというのであれば、私が返しに行って参ります」

 「あなたはいいわ、私がひとりでいくから場所を教えて」




 如月組の本家は街外れの小高い丘の上にあり、それはまるで戦国時代の山城のように堅牢な屋敷だった。

 四方を白い土塀で囲まれ、外からは中を窺い知ることは出来なかった。


 見事な正門には、20代位の若者がふたり、ノーネクタイのまま立っていた。



 「小次郎さんにお金を返しに来たんだけど、いらっしゃるかしら?」

 「姐さん、お名前は?」

 「雪乃って言ってもらえばわかるわ」


 もう一人の若い男が携帯電話で、何やら小声で話していた。


 すると木戸口から先日店にやって来た男が出て来た。


 「若がお会いになるそうです。どうぞこちらへ」


 屋敷の中に入ると、ドーベルマンたちが一斉に雪乃を注視したが吠えることはなかった。


 「めずらしいこともあるもんだ、こいつらが吠えなかったのはアンタが初めてだぜ」


 男は笑って言った。



 そこには広大な庭園が広がり、滝の流れ落ちる池には宝石のような錦鯉が泳いでいた。



 雪乃は紫の絨毯が敷かれた長い廊下の奥にある、大広間に通された。


 小次郎は庭を背にして立っていた。


 「わざわざおいでいただかなくても良かったんですよ。

 ただの迷惑料ですから」


 若くてかわいらしいメイドがお茶を運んで来た。


 「どうぞお掛け下さい。先日、知り合いからマルコポーロをいただいたので、ご一緒にいかがですか?

 紅茶はお好きですか?」

 「ええ、好きです」


 雪乃は圧倒された。

 大きな屋敷にも増して、あまりにも多いその蔵書の量に。

 大広間の本棚は、まるで図書館のように本で埋め尽くされていたからだ。


 小次郎は雪乃のその表情を見て微笑んだ。


 「おかしいでしょう? 読書好きなヤクザなんて。

 みんなから笑われるんですよ、インテリヤクザだって。

 父がこの仕事だったので、私には友だちが出来ず、本が唯一の友だちでした」


 雪乃はバッグから袱紗に包んだ札束を取出すと、それをテーブルの上に置いた。


 「先日はありがとうございました。私、嫌いなんです、あの議員さん。

 丁度良かったんです、出禁に出来て。

 またお店に来て下さい、みんな待っていますから」


 小次郎は紅茶を啜った。

 ソーサーとカップを持って紅茶を飲む所作は、英国貴族のようでもあり、とても一人で対立する組を全滅させた男には見えなかった。


 「本当はあの日、行こうかどうか迷ったんです。

 でももう一度あなたに会いたかった。

 そして結果的にあんなことになってしまい、ご迷惑をお掛けしました。

 どうぞお金は納めて下さい。それがこの世界のしきたりなので」


 すると雪乃は意外にもあっさりとそのカネをバッグに仕舞った。

 雪乃には策略があった。

 もう一度、小次郎に会うための口実が。


 「では、このお金で私と同伴して下さいませんか?

 そしてその後、改めてお店で接待させて下さい。貸し切りで。

 百万円分、たっぷりとサービスさせていただきます」


 小次郎は外人のように両掌を軽く広げ、観念したというように微笑んだ。


 「あなたは面白い人だ。いいんですか? 私のような人間がまたお店にお邪魔しても?」

 「もちろんです。では一緒に来て下さい、まずは美味しいイタリアンをご馳走しますから。

 もっとも小次郎さんのこのお金ですけどね? うふっ」


 庭のねむの木が、やさしく風に揺れていた。


第7話 ヤクザとのディナー

 そのフレンチレストランは高級マンションの2階にあった。


 「ごめんなさいね、イタリアンにしたかったんだけど予約が取れなかったの。

 でも、ここのフレンチも最高なのよ、楽しみにしててね?」



 雪乃がインターホンを押した。


 「春山です」

 「はい、お待ちしておりました。

 どうぞお入り下さい」


 表札も店の看板もない、No.222という玄関プレートがあるだけだった。


 上品な60歳位の銀髪のマダムが現れた。


 「春山様、ようこそいらっしゃいました。

 いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます」


 マダムは笑顔で丁寧に挨拶をしてくれた。

 雪乃はここの常連だった。


 「お久しぶり、今日はイケメンをお連れしたのよ」

 「あらホント、オダギリジョーさんみたいな方ですね?」

 「こんばんはマダム。

 こんな素敵なお店は初めてです。

 よろしくお願いします」


 この優雅な身のこなし、会話のセンス。

 誰が見ても如月組の跡取りだとは、誰も思わないだろうと雪乃は思った。



 店内には大きな8人掛けのテーブルが一つと、その奥に4人掛けのテーブルがある個室があるだけだった。


 白で統一された店内は、薔薇とフリージアがバカラの花瓶に生けてあり、壁にはカシニョールが飾られていた。


 入口付近にはスワロフスキーのシャンデリアが吊るされ、音楽は無かった。

 それは料理と会話を楽しむための配慮だと感じた。


 無駄のない、あるべき空間の演出が、料理への期待を醸成していた。


 真っ白なテーブルクロスを敷いたテーブルには、銀の燭台が置かれ、20代のカップルと、その母親らしき客が食事をしていた。

 

 雪乃と小次郎は奥の個室へと案内された。


 「どうぞ、こちらです」


 マダムはワインリストを雪乃に渡した。


 「本日のお料理は鹿肉のジビエがメインですので、どっしりとしたボルドーのフルボディはいかがでしょうか?」

 「ワインはマダムにお任せします。私にはむずかしすぎてわかりませんから」

 「かしこまりました。それではマルゴーの1985年などいかがでしょうか?」


 すると小次郎が言った。


 「1988年はありますか?」

 「はい、ございます。その年はボルドーの当たり年です、よくご存じですね?」

 「いえ、ただの思い付きです」

 「では1988年をご用意させていただきます」

 「小次郎はワインにも詳しいのね? マダムはパリでソムリエもしていた人なのよ。

 そのマダムとワインのお話ができるなんて素敵ね?」

 「なんとなくね、何となくだよ」

 


 ワインが運ばれ、小次郎がテイスティングをした。


 「いい出来ですね? これでお願いします」


 大きなワイングラスに静脈血のようなワインが注がれた。

 マダムが部屋を出ると、ふたりはグラスを合わせた。


 「何のための乾杯?」

 「雪乃のしあわせのために」

 「だめ、私と小次郎のしあわせのためにでしょ?」


 ふたりは微笑みながら乾杯をした。


 「本当は、雪乃には私の素性は知られたくなかったんだ。

 如月組の小次郎としてではなく、ただの小次郎として付き合いたかったからね。

 ヤクザと堅気の雪乃とでは、君に迷惑だと思ったんだ」

 「そんなの気にしないわ。

 小次郎がヤクザだろうと火星人だろうと、私は小次郎が好きよ。

 このお店、なかなか予約が取れないの、半年待ちなんてザラなんだから。

 今日はオーナーに無理を言っちゃった」

 「もし私が断っていたら、雪乃はどうするつもりだったんだい?」

 「そんなこと考えないわ、私は信じていたの、小次郎が一緒にここで食事をしてくれることを」

 「雪乃は大した自信家なんだね?」

 「自信なんてないわ、ただそう願っただけ」


 上質なシングルモルトのような輝きを持ったコンソメと、サラダが運ばれて来た。


 「フォンドボーのジュレと、さまざまな旬のお野菜をキューブ状に切り揃えたサラダでございます」

 「きれい、宝石みたい!」

 「そのままお召し上がり下さい」


 そして次々と料理が運ばれて来た。


 いちばん見事だったのは、トリュフとデミグラスと粒コショウ、香味野菜のソースをかけた、雌の鹿肉のメインだった。


 「すばらしわ、このメインディッシュ。

 そしてこのお料理を引き立てるのがこのワイン、このワインがあるからこそ、メイン料理がより素晴らしい物になるのね?」

 「私と雪乃もこんな風になれるといいね」

 「なれるといいねじゃなくて、なるの、絶対に」


 小次郎はそれに同意することはなく、再び肉にナイフを入れた。


 近くを通る新幹線の音が、浅黄色のカーテンの向こうから聞こえた。


 (焦ってはダメよ、グラスの氷が溶けるように時間をかけてゆっくりとこの恋を実らせたい)


 雪乃も鹿肉を口に入れた。


 さっきの味と比べると、少しほろ苦いようにそれは感じられた。


 雪乃は小次郎を真っ直ぐに熱く見詰めた。


第8話 銀河鉄道の夜

 デザートの皿を持って、オーナーシェフの村吉がやって来た。


 「ベルギーの生チョコに生クリーム、それにオレンジキュラソーをかけてみました。

 今日のお料理はこれで以上になります。

 本日はお楽しみいただけましたでしょうか?」

 「ええ、とっても美味しかったわ。オーナー、今日は無理を言ってすみませんでした。

 おかげで素敵な時間を過ごすことができました。

 ありがとうございます」

 「どうぞ今日のお料理の余韻をお楽しみ下さい。

 では、ごゆっくり」


 村吉は恭しく頭を下げるとギャレーに下がって行った。

 


 「ああ、美味しかったー。ねえ、予約していってもいいかしら? 次のデートの?」


 だが小次郎の返事は冷たい物だった。


 「今日はとっても楽しかったよ。悪いが今日はこれで失礼する」

 「ダメよ、お店でみんなが小次郎が来るのを待っているんだから」

 「やはり私は店には行かない方がいいと思う。私の正体を知った以上、気を遣わせるのは悪いから」


 雪乃はカプチーノの苦みが、小次郎のこの言葉でより苦く感じた。

 雪乃は角砂糖をもうひとつ、デミタスカップに入れた。


 「そんなこと気にしないで。あの店は私のお店なんだから。

 私がいいと言ったらそれでいいの!」


 小次郎は困った顔をした。

 それは娘のわがままに困り果てた父親のようでもあった。


 「わかったわ、それじゃあこうしましょう。

 お店には行かない、その代わり私がひとりで小次郎を接待するの。

 それならいいでしょう?」


 小次郎は黙ったままだった。


 「さあ、次に行くわよ」


 小次郎は飽きれたように椅子から立ち上がった。


 


 雪乃と小次郎は新幹線に乗って東京へと向かった。


 「まさか新幹線に乗るとは思わなかったな?」

 「たまにはいいでしょ、夜の東京も。

 お買い物にはよく行くけど、夜のデートなんて初めて」


 雪乃は自分の手を小次郎に重ね、小次郎に枝垂れかかってみせた。


 (いい気持ち、この包み込まれるような安心感は久しぶりだわ)


 「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』みたいだね? 彼の発想力はすごいよ、この都会の光の海から銀河に向かって列車が夜空を飛んで行くなんて」

 「私も子供の頃、お兄ちゃんとアニメで見たわ。

 ジョバンニとカンパネルラ。

 同級生のいじめっ子たちにからかわれるの、「ラッコの上着がくるよ」って」

 「そんな話だったかなあ、私も見てみたいな、そのアニメ」

 

 雪乃は深く息を吸った。

 小次郎の甘い香りをしっかりと記憶に留めるために。 


第9話 ナイトクルーズ

 東京駅に着いた雪乃と小次郎はタクシーに乗った。


 「日の出埠頭までお願い」

 「日の出ですね? かしこまりました」


 比較的若い運転手だったが、運転は的確だった。


 

 「日の出に行ってどうするんだ? 船でも見るのか?」

 「シンフォニーという船でね、夜の東京湾クルーズをするの、素敵でしょ?

 一度やってみたかったんだ、海からの東京の夜景を見るの。

 ハワイの海からの夜景も素敵だけど、東京も凄いんじゃないかしら?

 小次郎はあるの? 海から見る東京の夜景?」

 「無いな」

 「じゃあ一緒に楽しみましょうよ、夜の東京湾クルーズ」




 船は定刻通りにゆっくりと岸壁を離れ、夜の東京湾へと静かに滑り出して行った。

 雪乃と小次郎はアッパーデッキに出て、宝石のように光り輝く不夜城、東京を眺めていた。

 心地よいジェントルブリーズが吹いていた。


 雪乃は小次郎と腕を組んだ。


 「ねえ、小次郎。

 私はあなたが好きよ、恋しちゃったみたい、あなたに。

 あなたとこうしていると、とても落ち着くの、穏やかな気持ちになれる。

 恋はするものじゃなく落ちるものだと言うけれど、それが今はよくわかるわ」


 小次郎は雪乃の肩を優しく抱いた。


 「約束してくれないか? ヤクザには明日がない、たとえ今日生きていたとしても明日、生きている保証はない。

 そんな命の保証がない世界なんだよ。私のいる世界は。

 だから雪乃、もし私が死んだとしても、君は決して悲しまないでくれ。

 人は病気や事故で死ぬんじゃない、神様に決められた寿命で死ぬんだ。

 この船に乗船しているあの幸せそうな恋人たちにも、死によって必ず別れは訪れる。

 ほんの3歳で死んでゆく子供もいれば、100歳まで生きる爺さんもいる。

 人はどれだけ生きたかじゃない、いかに生きたかが大切なんだ。

 人間として、どのように生を全うしたかが重要なんだよ」

 「そんな約束、させないで頂戴。死ぬことを前提に恋をする人なんて誰もいないわ。

 恋は落ちるもの、そしてそれが永遠の愛に変わるの。

 私は小次郎との愛を大切に育てたい」


 雪乃は小次郎の腕を強く抱き締めた。


 「お願い、小次郎の背中の龍に会わせて」

 「いいのか? 元には戻れなくなっても?」


 雪乃は小さく頷いた。


 船は東京の夜景が映る海の上を、雪乃と小次郎の決意を乗せて静かに進んで行った。


第10話 双龍

 ホテルのバーラウンジのカウンターで、小次郎はジンライムを、そして雪乃は目の前に置かれたキールロワイヤルのグラスを見詰めていた。


 「私ね、今まで人を愛することが出来なかった。昔、すごく愛していた人がいてね、イタリアンのシェフだった。一緒にイタリアに行く約束をしていたのに、彼は私を置き去りにしたままジェノバで死んでしまったの。交通事故だった。

 だから彼と私の時間はそこで今も止まったまま・・・」

 「今でもその彼のこと、好きなのか?」

 「好きよ、でも好きだけどあなたも好き。これって浮気になるのかしら?

 彼はもうこの世にいないのにね」

 「俺は別に構わないよ。いや、寧ろ忘れて欲しくない。

 雪乃が愛したその彼なら、きっといい奴だろうから」


 今まで、そんなことを言ってくれる男は初めてだった。

 大抵の男は必ずこう言う。


 「俺がその男のことを忘れさせてやるよ」


 そもそも会ったこともない真也に対して、「俺の方が優れている」と言っているようで、雪乃はいつも興ざめした。

 だが、小次郎は「忘れて欲しくない」と言ってくれた。

 雪乃はその気遣いが嬉しかった。


 「ありがとう・・・」


 雪乃は小次郎に凭れて泣いた。




 ホテルの部屋からはライトアップされた東京タワーが見えていた。

 ふたりは立ったまま、唇を重ねた。

 小次郎の唇がやさしく息を吐きながら、雪乃の耳から首筋、そしてうなじへと移っていった。


 雪乃の息遣いは乱れ、膝から崩れ堕ちてしまいそうだった。


 小次郎は雪乃にキスをし、服を脱がせていった。


 やがて雪乃は全裸にされ、ベッドに横たわった。


 「ねえ、見せて頂戴、小次郎の龍・・・」


 すると小次郎は窓を背にして服を脱ぎ始めた。


 スーツを脱ぎ、ネクタイを外しシャツを脱いだ。

 鍛え抜かれた美しいその肉体に、雪乃は見惚れた。


 そして小次郎はゆっくりと雪乃に背中を向けた。

 小次郎の背中には噂通り、見事な二頭の龍が描かれていた。

 その双龍は雪乃を見詰め、今にも小次郎の背中を離れ、天に飛翔しようとしているかのようだった。

 雪乃は言葉を失ってしまった。



 「この龍はね、双龍といって雄と雌なんだ。

 これが私の守り神だよ」

 「凄くきれい・・・、そしてとても強そうだわ。

 ねえ、触ってもいい?」


 小次郎はベッドに腰を降ろし、頷いた。

 雪乃は小次郎の龍を右手で触ると、その雌雄の龍に頬擦りをした。


 (龍神様 どうか小次郎をお守り下さい)


 雪乃は女龍となって小次郎に激しく抱かれ、何度も絶叫し、我を忘れた。


 その夜、二頭の龍はひとつになった。


第11話 出来ない約束

 小次郎はまるで別人のように雪乃を抱いた。

 時には羽毛のようにやさしく、またある時は荒れ狂うドラゴンのように雪乃を求めた。


 雪乃はイッた回数すら数えることが出来ず、今までに味わったことのないような快感が、雪乃のカラダを何度も貫いた。


 そして遂にクライマックスの中で雪乃は叫んだ。


 「小次郎! そのまま出して! 私の中に! お願い!

 あなたの赤ちゃんが欲しいの!」


 だが、雪乃のその願いは聞き入れてはもらえなかった。

 小次郎はそれを寸前で抜き取ると、雪乃の胸にそれを出し、果てた。

 雪乃は落胆した。


 (結婚なんて望まない、でも小次郎の子供が欲しい・・・)


 雪乃は初めて「愛のあるSEX」に満たされていた。

 愛欲の果てのそれではなく、アダムとエヴァがかつてそうであったように、行為を終えた後、とても神聖な気持ちになっていた。


 年齢的にも子供を授かることは限界だった。

 雪乃の本能がそれを要求したのだ。


 エクスタシーの余韻が、まだ雪乃を捉えたまま離さなかった。

 小次郎は雪乃の髪を優しく撫でた。


 「小次郎、私、今、すごくしあわせよ・・・」

 「俺もだよ、雪乃。

 約束してくれ、俺は雪乃を愛してしまった。

 もう一度言う、俺はヤクザだ、ヤクザには死が常に付き纏う。

 雪乃、もし俺にその時が訪れてもお前は悲しんではいけない。

 そして俺のことは忘れてくれ。

 雪乃、人は悲しむために生まれたんじゃない、人生を無駄にはするな」

 「私、約束なんかしない。そんな約束なんて出来ない。

 小次郎のいない人生なんて私には生きる意味がないもの」


 小次郎がベッドから起き上がり、タバコを咥えようとすると、雪乃がライターでそれに火を点けた。

 仕事柄、それが雪乃の習性になっていた。

 小次郎はタバコの煙をスーッと吐き出すと、話し始めた。


 「あの時、海で初めて雪乃を見た時、俺は自分がヤクザであることを呪った。

 どれだけ俺は普通のサラリーマンに憧れたか知れない。

 朝、会社に出掛けて仕事を終え、家に帰る。

 するとエプロン姿の雪乃が俺を出迎えてくれて、ふたりは古いイタリア映画のようにパンとワイン、そしてチーズを食べながら、今日、お互いにあったどうでもいい話をするんだ。

 テーブルには雪乃の活けた花が飾られてある。

 そして週末にはふたりで近くの公園を散歩するんだ、手を繋いでね。

 それが俺の妄想だった」

 「妄想なんかじゃないわ、そうなるの、そうするのよ私たち。

 私も同じ、小次郎と一緒に居るだけでいいの。

 パンもワインも、そしてチーズもいらない、私は小次郎がいるだけでいいの、それが私のしあわせなの」


 小次郎のタバコの先が赤く灯った。


 「もう悲しい恋はたくさん。

 もしもあなたが私より先に死んだら、私もあなたと一緒に死ぬわ。

 だからお願い、絶対に私よりも先に死なないで、死んじゃ嫌。

 小次郎、私と約束して、絶対に私より先には死なないと。

 そしてもっともっと私を愛して。

 私ももっともっとあなたを愛することを誓うわ」


 雪乃は小次郎の胸に頬を乗せ、嗚咽した。


 雪乃をやさしく抱きしめながら、小次郎は思った。


 それは出来ない約束だと。


第12話 捨てた犬

 雪乃の店に突然、森崎が現れた。

 雪乃が森崎からの連絡をずっと無視していたからだ。


 小次郎との関係が深まった今、雪乃はセフレたちとの縁を切っていた。

 だが森崎だけはそれを納得することが出来なかった。


 「あら先生、お久しぶりね? お元気でした?」

 「酷いじゃないか! 僕からの電話もメールも無視して!」


 雪乃は森崎に酒を注いだ。


 「あら、そうでしたの?

 先生ゴメンなさいね、忙しくてつい忘れていましたわ。先生からの電話、「着信拒否」にするのを」

 「雪乃、ふざけないでくれ! 僕にはお前が必要なんだ!

 一体どうしたんだ? 他に男でも出来たのか! 僕が君に何をしたというんだ!

 おかげで僕は仕事が手につかないんだよ!」


 森崎は苛立ち、雪乃の手を握ろうとすると雪乃はそれを振り払った。


 「止めて下さい。森崎先生は私に何もしてはいませんよ。

 正確には「何もしてはくれなかった」ですけどね? うふふっ」

 「他に好きな男でも出来たんだな? そうだな?

 僕からそいつに乗り換えるつもりか!」

 「先生、乗り換えるだなんておクルマじゃないんですから、そんな下品な言葉はよして下さいよ」


 雪乃は森崎をたしなめた。


 「女房とは今度こそ別れる。だから僕と結婚してくれ」

 「そんな安っぽい三文芝居みたいなセリフ、医学部の大学教授には似合いませんわよ。

 先生? 今日もまた手術を終えた後なのね? 消毒液の匂いがするもの。

 手術のストレスで抱きたくなったの? 私のカラダを? あはははははは」


 雪乃は森崎を嘲笑した。

 森崎はついに激怒した。


 「私を誰だと思っているんだ! 神の手を持つ外科医と言われるこの私を!

 偉そうに飲み屋の女の分際で!」

 「あら先生、遂に本音が出ちゃいましたね? 人間は怒ると日頃思っていることがつい口に出てしまう物だと言うけれど、本当なのね?

 ごめんなさいね、卑しい飲み屋の女で。

 だったら先生、私のような下賤な女ではなく、いっそ英国王室のダイアナ妃でも口説いたらいかがです? もう死んじゃいましたけど。

 神の手を持つ森崎先生なら、彼女を生き返らせることも可能でしょう? 羨ましいわ、あーはっは、あーはっは」

 「うううっ、言わせておけばよくも! 今までさんざん貢がせて、他に男ができれば「ハイ、さようなら」か!

 恐ろしい女だよ、お前という女は!」

 「さんざん貢いだ? 何をです?

 私がこの1年で先生からいただいたのは、たった5万円のティファニーの安物のブレスレッドと、エルメスのバーキンの偽物のバッグだけですけど?

 それともどちらかの別の飲み屋さんの女性とお間違えなのかしら?」


 森崎の顔がみるみる怒りで紅潮していった。


 「もういい! お前みたいな淫売、こちらから願い下げだ!」


 すると雪乃は着物の袂からコンパクトを取出し、それを開いて森崎に突き付けた。


 「なんのマネだ!」

 「先生、そこに映っているのが本当の先生のお顔ですよ。

 見て御覧なさい、その惨めな情けないお顔。

 神様の手をお持ちの方には到底見えませんけど。捨てられた野良犬みたい」

 「ふざけるな!」


 森崎は雪乃の手からコンパクトを払い除けた。

 そこにいたのは雪乃という飼主にに捨てられた、惨めな野良犬となった森崎教授だった。


 「支配人、先生がお帰りよ、お見送りして差し上げて」


 雪乃は悔しかった。

 たとえ戯れだったとはいえ、こんな下品な男に自分が抱かれていたことに。


 雪乃はグラスにヘネシーを注ぎ、それを一気に飲み干した。

 森崎のイヤな記憶と共に。


第13話 普通の暮らし

 白い朝日に包まれたキッチンで、雪乃は小次郎のために朝食を作る幸福の中にいた。


 小次郎はシャワーを浴びている。


 鰆の西京焼ときんぴら、出汁巻卵に糠漬、そして豆腐となめこ、ネギの味噌汁。

 雪乃は味噌汁の味見を入念にしていた。


 「うん、これで良しっと」


 エプロン姿の雪乃の心は躍っていた。



 自分のマンションに男を招き入れたのは小次郎が初めてだった。

 男たちはここへ来たがったが、雪乃はそれを許さなかった。


 セックスをする時はいつもホテルか男の家だった。

 ここは雪乃と真也の聖域だったからだ。

 そして小次郎を雪乃は自らここへ誘った。



 小次郎がバスローブを着てシャワーから出て来た。


 「おはよう、小次郎。ご飯にしようよ、ありあわせだけど」

 「おはよう、雪乃。すごくいい香りがするね?」


 雪乃は小次郎にキスをした。


 「さあ、食べましょう。

 あっ、ちょっと待って」


 雪乃は小次郎の手からタオルを取ると、それで小次郎の拭き残した髪を拭いた。


 「もうー、まだ濡れているじゃない。子供みたいなんだからー」


 雪乃は嬉しそうに小次郎の頭を拭いた。

 それはまるで長年連れ添った夫婦のように。



 「いただきます」


 ふたりは手を合わせ、同時に味噌汁を啜ると顔を見合わせて笑った。


 「同じだね、食べる順番が」

 「旨いな? この味噌汁。料亭の味がするよ」

 「料亭だなんて大袈裟よ。でもお味噌はね、金沢からのお取り寄せなの。美味しいでしょう? このお味噌」


 小次郎は静かに頷いた。


 雪乃はこのまま死んでもいいとさえ思った。

 雪乃がずっと欲しかった物、それがこの朝の風景だった。

 好きな男のために洗濯をし、食事を作り、男の靴を磨く・・・。

 そして夜は一緒に昔のサイレント映画を観ながらお酒を楽しみ、男に抱かれて穏やかに眠る暮らし。

 それが雪乃の夢だった。



 テレビは点けなかった。

 朝から悲惨なニュースを見たくはなかったからだ。


 透明感のある小野リサのボサノバが、清々しい朝の始まりを演出している。

 




 小次郎はスーツに着替え、出掛けようとしていた。


 「ねえ、今度はいつ会えるの?」

 「日曜の午後かな?」

 「イヤ、日曜まで待てない!」

 「だって夜は雪乃が仕事だろ? 経営者なんだからしっかりやらないと」

 「だったら休む、お店なんか休んじゃうもん」


 雪乃は女子高生のように駄々をこねる素振りをして甘えてみせた。

 小次郎はそんな雪乃をやさしく抱き締めた。



 雪乃は小次郎に家のスペアキーを渡した。


 「これ、この家の合鍵。

 いつでもここに来ていいからね?」


 小次郎は鍵を自分のキーケースに収めた。


 「じゃあ行ってくるよ」

 「いってらっしゃい。気を付けてね、あ、な、た」


 雪乃は「あなた」というその言葉に、乙女のように顔を赤く染めた。

 雪乃は小次郎に口を尖らせ、キスをせがんだ。


 「行ってきますのチューは?」


 小次郎は雪乃にやさしくキスをした。


 だがその時、小次郎が酷く寂しそうな顔をしていたのを雪乃は知らない。

 雪乃はしあわせの絶頂にいた。


 ふたりの試練が、これから始まろうとしていた。


第14話 小次郎の決意

 「またウチの売人が如月組にやられました」

 「またやられました? それで?」

 「一応、ご報告をと思いまして・・・」


 紅虎組の組長、佐竹は突然テーブルの上にあったギヤマンの灰皿を壁に投げつけた。

 大きな音を立てて、ガラスの破片が辺りに飛び散った。



 「お前、それでも極道か! ヤラれてそのまま帰ってくるヤクザがどこにいる?

 背広着た使えねえリーマンじゃあるまいし、お前、何年極道やってんだ! 冷てえ水で顔洗って来いや!

 殺れ! そいつのタマ取って来いや!

 ドラマでも言ってんだろ? やられたらやり返せ、倍返しだってな!」

 「でもオヤジ、相手はあの小次郎ですぜ、戦争になりますよ」


 佐竹は若頭の後藤を睨み付けた。


 「いいじゃねえか? 戦争。

 ワクワクするじゃねえか、取ったの取られたのってよ。

 いつまでもチンタラやってるわけにはいかねえんだよ。

 もう小銭稼いでヘイコラしている時代じゃねえんだ。

 小次郎みてえなボランティアヤクザなんて目障りなんだよ!

 小次郎のタマ、取って来いや!」


 佐竹と小次郎は暗黒街の双璧をなしていた。

 小次郎は「風の小次郎」として一目置かれ、そして佐竹は「般若の佐竹」と恐れられていたのだ。


 小次郎はその義理堅い温厚な人柄で、そして佐竹はその残忍な恐怖でヤクザ者たちを束ねていた。


 10年前、佐竹は自分の兄貴分たちを小次郎に皆殺しにされた怨みがあった。


 (小次郎。アニキたちの仇、討たせてもらうぜ)


 佐竹は小次郎との抗争の準備に取り掛かった。

 携帯を取り、白蛇会の諸橋会長に電話を入れた。


 「会長、佐竹です。

 はい、そろそろやりましょうよ。はい、小次郎は俺が沈めますんで」




 その頃、小次郎たちは新宿に向かってクルマを走らせていた。


 「今日、真昼間からウチのシマでシャブを捌いていた紅虎のチンピラを1人、掃除しておきました」

 「佐竹か? シノギがキツイんだろうなあ? 紅虎は」

 「益々ウチが目障りでしょうね?

 若、紅虎組の連中、ウチを何て呼んでいるかご存知ですか?」

 「知らないな」

 「闇の清掃会社だそうです」


 小次郎と若頭の佐伯、そして運転手の村田の3人は笑った。


 「ウケるなそれ、中々いいセンスしているじゃないか? あはははは」

 

 小次郎がタバコを咥えると、佐伯が黒のダンヒルのライターで火を点けた。


 「若、気を付けて下さい。アイツら若を狙っていますから」


 小次郎は静かに目を閉じた。


 10年前の抗争では多くの血が流れた。

 やられる、そしてまたやり返す。

 報復の連鎖は止まらなかった。

 憎しみの連鎖は永遠に続く。


 俺たちヤクザはいつから任侠の道から外れてしまったのだろう。

 弱い者を助け、強い悪を倒す。

 それがいつの間にか、金儲けと権力闘争に溺れた政治屋と同じ存在にまで成り下がってしまった。


 雪乃を利紗と同じ目に遭わせるわけにはいかない。

 もう二度とあんな思いはしたくはないと小次郎は思った。


 小次郎は苦悩していた。


 ただの愛欲だけの遊びならいいが、小次郎の雪乃への想いはすでに恋から愛へと変わりつつあった。

 引き返すなら今しかない。


 小次郎を乗せた黒のベントレーは、新宿歌舞伎町のネオンの河に流れて行った。


第15話 御守

 雪乃が仕事を終え、クタクタになって帰宅するとそのままソファに倒れ込んだ。

 

 (あー、疲れたー。こんな時、小次郎に甘えられたらなー)


 突然、インターフォンが鳴った。

 モニターには小次郎が映っていた。


 「キャー、うれしー! 早く上がって来て!」


 雪乃の疲れは一瞬で吹き飛んだ。

 週末を待たずに小次郎が来てくれたからだ。



 雪乃はドアを開けるとすぐに、小次郎に抱き着き激しくキスをした。


 「おかえりなさい、ダーリン!

 鍵を渡してあるんだからそのまま入って来ればよかったのに。

 ちょうど私も今帰ったところなの、すぐ着替えて来るわね」

 「ゆっくり風呂に浸かっておいで、俺も後で行くから」

 「そう、じゃあすぐに来てね、待ってるから。うふっ」


  

 雪乃は先日、小次郎のために買っておいた、自分とお揃いのシルクのパジャマやタオルを用意してご機嫌だった。


 「今日の下着は清楚に若妻風にしてっと。あはっ、もう若くはないか?」


 雪乃はシンプルな白いフリルの付いた下着を準備し、浴槽のお湯張りのスイッチを入れ、シャワーを浴び始めた。


 雪乃が髪を洗い始めた頃、小次郎がバスルームに入って来た。


 ふたりはシャワーの中で抱き合い、唇を重ねた。


 小次郎の背中の双龍は、シャワーの中で鯉が滝を登り、そのまま龍に変身を遂げるという伝説のようだった。

 行為は次第にエスカレートしてゆき、小次郎はまるで別人のように雪乃を求めた。

 乳房を鷲掴みにされ、激しく乳首を吸い、もう片方の手は雪乃の女をまさぐり、雪乃のぬめりはお湯の量を超え、雪乃の声は快感と連動して大きくなっていった。


 小次郎は雪乃を壁に向かわせ、両手を壁につかせると、十分に濡れたそこにいきり立ったペニスを宛がい、一気にそれで雪乃を貫いた。

 小次郎はそのままリズミカルに律動を繰り返した。


 雪乃の喘ぎが、やがてシャワーや浴槽に注がれるお湯の音を上回わり、雪乃は果てた。

 すると小次郎は雪乃のそこから自身を抜き去り、シャワーを止め、雪乃を浴槽に入れた。


 先程の激しさとは打って変わり、小次郎は後ろからやさしく雪乃を抱き締めた。

 雪乃は小次郎にカラダを預けた。

 幸福だった。このままお湯に溶けてしまいそうだった。


 「それじゃあ今度は私がしてあげる。浴槽の縁に腰掛けて」


 雪乃は大きく硬くそそり立った小次郎のそれを愛おしく見つめると、指でなぞり、それに舌を這わせた。

 そしてそれを咥えた。


 次第にエスカレートしていく雪乃に、小次郎はそれを制し、


 「先に上がるよ」

 「いいの? 出さなくても?」

 「寝室で待っているよ、ゆっくり浸かって疲れを取りな」


 小次郎はバスルームから出て行った。

 雪乃は身体を丹念に洗い、浴室を出ると髪を乾かし、香水はゲランを纏い、薄く口紅を引いた。



 「小次郎、続きをして・・・」


 恥ずかしそうに雪乃は言った。

 再び小次郎と雪乃の営みが再開された。

 十分な前戯を終えると、小次郎は雪乃の中心に侵入を始めた。

 押し寄せるエクスタシー、雪乃は遂に最初のクライマックスを迎えた。


 「あっ、いい、いいの、すごくいい!

 お願い、小次郎を私の奥へ! そのまま出してー!」


 小次郎の精子が雪乃の中に放出されてゆく。

 小次郎のペニスはビクンビクンンと波を打ち、雪乃はあそこを強く締めて小次郎の精液をすべて絞り取ろうとした。


 雪乃は何度も絶頂に達し、後から後から押し寄せるオルガスムスに気が遠くなっていった。


 

 雪乃がようやく平静を取り戻した頃、小次郎は想いも寄らないことを雪乃に告げた。


 「そろそろお別れだ。雪乃」


 雪乃は小次郎のその言葉でベッドから跳ね起きた。

 それは落雷にあったような衝撃的な一言だった。


 「イヤよそんなの! そんなの絶対にイヤ!

 どうして、どうしてそんなこと言うの!

 私、あなたに何か嫌われるようなことしたの?

 もししたんなら謝るから許して!

 何でもする、小次郎のためなら私なんでもするから。だからお願い、私をひとりぼっちにしないで!」

 「俺は怖いんだ。もっとお前を好きになりそうで。

 深く愛してしまいそうで怖いんだ。

 俺は雪乃を愛してしまった。

 極道は女に惚れちゃいけない、判断を誤るからだ。

 ヤクザが守らなければならないのは仁義だ。

 それ以外は捨てる、それが極道の宿命だ。

 わかってくれ、雪乃」

 「イヤ、そんなの絶対にイヤ!

 私、小次郎のためなら死んでもいい!

 だからどこにも行っちゃイヤ!

 あなたはもう私のすべてなの!」


 雪乃は叫んだ、泣きながら叫んだ。


 小次郎は黙ったまま、雪乃を抱き締めた。


 

 雪乃は小次郎に抱かれたまま、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまった。




 朝になり、雪乃は隣に小次郎がいないことに気付くと、慌ててリビングへ行った。


 「小次郎? どこにいるの? 私の小次郎?」


 小次郎は部屋のどこにもいなかった。

 そして、ダイニングテーブルの上にはブルーの包装紙にシルバーのリボンが掛けられた、長細い箱が置かれてあった。

 そこには手紙が添えられていた。



   雪乃へ


   このダイヤのネックレスは俺を忘れないでくれ

   という意味の物ではない。

   これは俺自身だ。

   いつもこれを身に着けていてくれ。

   俺はいつもお前を見守っている。

   これは雪乃の御守としての贈り物だ。

   雪乃、愛している。

   俺のことは忘れてしあわせになれ。


                   小次郎



 雪乃はすぐに身支度を整え、地下駐車場へ降りて行き、クルマのイグニッションキーを差し込み、ギヤをオーバートップに入れ、アクセルを踏み込んだ。


 雪乃のアルファロメオはタイヤを軋ませ、シルクのような朝靄の街を引き裂くように疾走して行った。


 「絶対に離さない、離れないわよ小次郎」


 雪乃は小次郎からもらったネックレスを身に着け、それを強く握り締めた。


第16話 若頭 佐伯の独り言

 雪乃はクルマを降りると、如月組の正門へと近づいて行った。


 あの時の若者が二人、また同じように立っていたが、今度は雪乃に深々とお辞儀をした。


 「姐さん、お疲れ様です」

 「ホント、お疲れ様よ。そこ、通して頂戴」

 「すみません、誰もお通しするなと言われてますんで」

 「そう、じゃあ小次郎が出て来るまでここで待っているわ、あんたたちと一緒に」

 「勘弁して下さいよー、俺たちボコボコにされちゃいますって」

 「いいわよ、私もボコボコにされても」

 「そんな姐さん・・・」


 そのうちの一人がまた、携帯で誰かとヒソヒソ話をしていた。



 「ヘイ、そうなんです、この前の姐さんです。ヘイ、分かりやした、そうお伝えしやす」


 するとその若者は雪乃に振り向くと、


 「ただいまアニキが参ります。少しお待ちを」

 

 すぐに若頭の佐伯が現れた。



 「すみませんが雪乃さん、若はお会いにならないそうです」

 「じゃあ待たせてもらうわ、小次郎が会ってくれるまで」


 佐伯は笑った。


 「さすがはうちの若が惚れた姐さんだけのことはある。

 どうです、少し朝の散歩でもしませんか?

 多分その時、私は独り言を呟くはずですから、それを黙って聞いていて下せえ」


 雪乃は佐伯と屋敷の周りを歩き始めた。

 そして佐伯は語り始めた。


 「あれは今から10年前だったかなあ、若が利紗さんと付き合っていたのは。

 若の大学時代の娘さんで、美人でやさしくて、それでいて芯のあるいいお嬢さんだった。

 結婚するとか言ってたなあ。

 利紗さんは弁護士志望だったんだよ、でも笑えるよなあ、ヤクザの彼氏に弁護士の彼女だもんなあ。

 あの頃は抗争が酷くてなあ、ウチの連中もたくさんやられた。

 仁義に堅い若は、俺たちに内緒でたった一人、対立していた組にカチコミをかけた。

 そして相手を皆殺しにした。

 若がデコ助(警察)から逃れるため、利紗さんを連れて貨物船に乗り込もうとした時だった、仲間の組員たちに待ち伏せをくらった。

 その時だよ、若を庇って利紗さんが殺されちまったのは。

 ああ、イヤな話を思い出しちまったぜ。

 それ以来、若は誰も愛させなくなっちまった。

 以上が俺の独り言です。どうぞお帰り下さい。

 いちばん辛いのは若なんですよ、雪乃さん」


 雪乃は足を止めた。

 

 「関係ないわよ、そんなこと。

 小次郎を庇って死んだんでしょ? その利紗って人。

 私も出来るわよ、利紗さんと同じように拳銃の前にだって立って見せる。小次郎の為なら。

 そしてそれは私たち女にとっては名誉なことよ、だって惚れた男を守れたんですもの。

 だから小次郎がどう想うかなんてどうでもいいの。

 佐伯さん、私はもう引き返せないの。

 小次郎のことを愛しているの、小次郎がヤクザだと知ってから、私はとっくに覚悟が出来ているわ。

 この命、捨てる覚悟で彼を愛したのよ」

 「若はしあわせ者です。

 俺もあんたと同じだよ、若のためなら死んでもかまわねえ。若の漢気に惚れてるからな。

 男の俺が惚れるんだ、女のあんたが惚れるのも無理はねえ。

 そんなに若のことが好きなら、このまま帰ってくれ、若のために」

 「好きだからこそ役に立ちたいの。女だから。

 今日は帰るけどまた来るわね、ありがとう、佐伯さん」


 いつの間にか靄は晴れ、黄金色の朝日に街が輝き始めていた。


第17話 宣戦布告

 ワイパーも効かないような、土砂降りの雨の夜だった。


 「アニキ、腹減りませんか?」

 「夕方、とんかつの大盛りを食わせてやったばかりじゃねえか? このブタ野郎」


 横田は咥えタバコで、右手でハンドルを握っていた。


 「俺、まだ18っすよ、育ち盛りっす」

 「しょうがねえなあー、サブの店に寄って何か食って行くか?」

 「アニキ、大好きっす!」

 




 如月組の横田と子分の正雄は、サブの店に寄った。

 サブの店はラーメンと餃子が売りの、街中華の店だった。


 商店街の一角にある小さくて古い店だが、味は悪くなかった。

 グルメ雑誌にも時々紹介されてもいた。



 「サブ、ウーロン茶に餃子」

 「おい正雄、いつまでも横田のアニキに運転させてんじゃねえぞ。いいかげんに免許くれえ取れや。

 そうじゃねえとアニキが酒、飲めねえじゃねえか!」


 サブは中華鍋を煽りながら正雄に言った。


 「正雄、おめえは何がいい?」

 「タンメンの大盛りと炒飯の大盛り、それから・・・、餃子もいいすっか?」

 「おまえ、本当によく食うなー?

 サブ、正雄に餃子、二人前追加だ」


 正雄の家は貧乏で、ロクに小学校すら行っていなかった。

 読み書きが苦手で、クルマの運転免許も取れず、いつも横田が運転していた。


 児相と家を行ったり来たり。

 それを正雄の家に借金の取り立てに来ていた横田が、いつの間にか正雄の面倒を看るようになったのだ。


 正雄はいつもアフリカの子供のように、栄養失調で腹水が溜まっているような子供だった。


 正雄はよく横田に懐いていた。

 横田はそんな正雄を弟のように可愛がった。



 「いつ来ても汚ねえ店だなあ、改装とかしねえのか? 味は悪くねえのによ」

 「横田のアニキ、カネがありませんよ」

 「何でだ? 繁盛してんじゃねえか? けっこうお客も入っているしよ。

 おまけにここはウチの若頭と若のお気に入りで、みかじめも格安じゃねえか?」

 「原価が高くて利益になりませんよ」

 「馬鹿野郎、そんなのおめえがアホ店主だからじゃねえか? 客に利益のねえモン食わせて、商売って言えるのか?

 ちっとは企業努力しろよ」

 「お客さんに旨い物、食べてもらいたくて。

 いいんすよ、店は別にこのままで」

 「そうすっよ、アニキ。

 美味けりゃいいんす、旨けりゃ」


 正雄は旨そうにタンメンを啜り、チャーハンを食べていた。


 「ほんとにおめえは旨そうに食うなー」


 横田はそんな正雄に目を細めた。


 正雄はタンメンを食べながら頷いていた。


 横田がタバコを咥えようとした時、突然、赤いスカジャンを着たチンピラが店に入って来た。


 手にはトカレフが握られ、男は震えていた。


 「うわっー!」


その男が叫び、横田の胸に2発、正雄の顔と腹にそれぞれ1発ずつ、合計4発の弾を打ち込んだ。


 店内は一瞬で凍り付き、お客たちは顔面蒼白で動くことが出来なかった。


 男は慌てて店の前に待機していたクルマに飛び乗り、逃走した。



 店内に響き渡る悲鳴、怯える客たち。

 サブの店は騒然となった。


 「アニキ、正雄・・・。

 救急車! 救急車を早く!」

 

 横田の飲みかけのウーロン茶がテーブルに倒れ、床に滴り落ちていた。


 横田はうつ伏せに、正雄は仰向けに口かっらタンメンを噴き出して転がっていた。


 ふたりのどす黒い血が、床に広がり始めていた。


 サブはすぐに若頭の佐伯に震える手で電話を掛けた。


 「横田のアニキと正雄が、殺られました・・・」


 サブは膝から崩れ落ち、手から携帯が滑り落ちた。


 「もしもし! もしもし!

 サブ、何があった! サブ!」


 遂に戦争が始まった。


第18話 紫陽花の雨

 如月組の屋敷の周りは沢山の警察車両で埋め尽くされていた。


 応接間には小次郎と佐伯、そして県警の捜査一課長、松田がいた。

 松田はポケットからセブンスターを取り出し、火を点けた。


 「小次郎、10年前のヤマは証拠不十分でお手上げだったよ。

 東大法学部出身のヤクザなんて、面倒臭せえ奴が相手だったからな?

 おかげで俺は今でも課長止まりだ。

 だが今度こそ、そのインテリヤクザをムショにぶち込んでやる。

 いいか小次郎、余計なことはするなよ。

 これ以上、俺の仕事を増やさないでくれ」

 

 小次郎は映画『ゴッドファーザー?』のアル・パチーノのように、ハイバックの革椅子に足を組んで座り、両手を胸の前で組んでいた。

 

 「松田さん、あなたが課長止まりなのは私のせいではなく、あなたが上に忖度出来ない人だからですよ。

 あなたは有能な警察官です」


 松田はゆっくりと煙を吐いてニヤリと笑った。

 

 「小次郎、お前の言う通りだよ、俺ももっと賢い人間だと良かった。

 そしてもっと勉強すれば良かったと後悔しているよ。

 そうすればあんなアホな連中の下で、ヤクザ相手に仕事なんてしなくて済んだからな。

 今頃、社長(警視総監)にでもなって、この日本からお前らみたいなダニを消し去ることも出来たっていうのによお、なあ小次郎?」

 「それは無理ですよ。

 いくらあなたが警視総監になったところで、私たちの仕事はなくなりません。

 需要があるからです、この仕事には。

 自分の手は汚したくはない、だからいつまでたってもこういう組織は都合がいいんです。

 だって警視総監のその上の方からのご依頼があるわけですから。

 日本は明治になって近代国家になり、ある程度の自由が与えられるようになりました。

 だがその裏では、自分たちの既得権益を守るために、欧米のようにあからさまではない階級社会、ヒエラルキーが生まれた。

 松田さん、知らないとは言わせませんよ。

 嫌な仕事はみんな私たち「闇の清掃会社」に丸投げですからね?」

 「お前はヤクザにしておくには勿体ない男だよ。

 今度、生まれて来る時は、この国を変えるような大物政治家になってこの腐りきった日本を立て直してくれ。

 期待してるぜ。

 お前らゴキブリがドンパチやって殺し合うのは別にかまわねえんだ。

 これは録音からカットしろよ。

 だがな、善良な国民、罪のない人たちを巻き込むわけにはいかねえ。

 当分の間、お前の周りはガードしてやる。くれぐれも仇討ちなんて変な真似はするなよ、いいな?

 この紅茶、旨いな? また来るからご馳走してくれ」

 「いいワインもありますよ」

 「それは俺が退官するまで取っておいてくれ、あと2年で天下りだから」


 松田が席を立つと、佐伯が封筒を松田に渡そうとした。


 「お車代です、お納め下さい」


 松田は受け取ろうとはしなかった。


 「ありがとな、気持ちだけもらっておくよ。他のデコ助は知らねえが、俺にはそんな気遣いはいらなえ。

 そんなの貰っちまうと、自由に仕事が出来なくなるからな?」


 松田はそう言い残して応接間を出て行った。



 小次郎は携帯を取り、佐竹に電話を掛けた。


 「佐竹さんですか? 如月の小次郎です。

 どうです? 一度会って話しませんか? 今後のお互いの未来について」

 「久しぶりだな? 小次郎。

 いいだろう、だが面倒な仕掛けはなしだぜ。

 いきなりズドンじゃ洒落になんねえからな?」

 「そちらこそお願いしますよ。

 じゃあ明日の15時、場所はその時連絡します」


 小次郎はそう言って電話を切った。


 「若、今、佐竹に会うのは危険ですぜ」

 「いずれ会うことになるんだ、その前に挨拶だけはしておかないとな? 任侠としての仁義は通さないといけない」



 庭の紫陽花が#五月雨__さみだれ__#に濡れていた。


 「佐伯、梅雨はイヤだな?」


 石綿のような雨雲が、街全体を呑み込んでいた。


第19話 龍と虎

 午後3時、歌舞伎町の開店前のキャバクラには、龍と虎が対峙していた。


 佐竹が胸のホルスターからトカレフを抜くと、ガラステーブルの上にそれを置いた。

 

 「どうもこんな重てえ物を持っていると、肩が凝っていけねえ。

 小次郎、おめえは大丈夫か?」


 すると小次郎も、腰ベルトに挟んでいたコルトガバメントを抜き、同じように静かにテーブルに置いた。



 「佐竹さん、先日はとんだご挨拶をいただき、驚きましたよ、本気なんですね?」

 「勘違いするな、小次郎。

 最初に仕掛けたのはおめえの方じゃねえか?

 人のビジネスの邪魔をしやがって、今さら被害者ツラか?」

 「それは言い掛かりと言う物ですよ、私はゴミを見つけたのでそれをゴミ箱に捨てただけです。

 街が汚れないように、ゴミが落ちていたらそれを拾う。

 学校で教わりませんでしたか?」

 「生憎だなあ? 俺はお前と違って中卒なんでね、そんなの知らねえなあ。俺の先公は何も教えてはくれなかったぜ。

 小次郎、10年前の事を忘れたわけじゃあるめえ。

 お前に組を潰された俺は、1日たりともそれを忘れた事はなかったぜ。

 俺の時計は10年間、ずっと止まったままだ。

 それがようやく動き出したまでよ」

 「やられたらやり返す。

 いつになったらその憎しみのスパイラルが終わるんでしょうか?」


 佐竹は上目遣いに小次郎を睨み付けた。


 「それが俺たちの渡世だ。

 強い者が正義なんだよ、勝てば官軍、負ければ賊軍よ」

 「任侠道はどこへ消えたんでしょうね?

 清水の次郎長、森の石松はもう昔話なんでしょうか?」

 「御託を並べるんじゃねえ!

 小次郎、決着をつけようぜ。

 3日後、差しで勝負だ。

 場所は中央大通り、早朝4時、いいな!」


 小次郎はタバコに火を点け、佐竹を見据えた。


 「佐竹さん、お命、頂戴します」

 「それは俺のセリフだぜ、小次郎」


 龍と虎、ついに決着をつける時がやって来た。


第20話 小次郎の妹 弥生

 「若、雪乃さんが・・・」


 屋敷から出て来た小次郎のベントレーの前に、両手を広げて行く手を遮る雪乃がいた。

 

 「しょうがない女だな」


 小次郎はパワーウインドウを下げるとそこから首を出して雪乃を呼んだ。


 「取り敢えず乗りなよ」


 佐伯が後部座席のドアを開けた。


 「どうぞ」

 「ありがとう、佐伯さん」


 雪乃は小次郎の隣に座ったが、クルマは止まったままだった。



 「似合うね、そのネックレス」

 「ありがとう、でもね、これだけじゃイヤなの」

 「欲ばりな女だな?」


 小次郎がニヤリと笑った。


 「小次郎が一緒じゃなきゃイヤ。

 お金もダイヤも何もいらない。私はあなたが欲しいの」


 小次郎はシガレットケースからタバコを取り出すと、銀のオイルライターで火を点けた。

 軽やかなオイルの匂いがKENTの香りで掻き消された。


 「これから俺は出掛けなきゃならない。

 屋敷で待っていてくれ、1時間ほどで戻る」

 「帰って来るまでいつまでも待ってるからね」

 「家政婦なら間に合っているよ」


 すると佐伯はドアを再び開け、雪乃は止む無くクルマを降りた。

 雪乃は時々振り返りながら屋敷へと歩いていった。



 「若、凄い女ですね? 雪乃さんは。

 泣く子も黙る如月組の若のクルマを停めてしまうんですからね? 

 こんなこと、紅虎の佐竹でさえやりませんよ」

 「俺も厄介な女と知り合いになったものだよ。

 出してくれ」

 「へい」


 小次郎を乗せたベントレーはゆっくりと坂道を下って行った。




 屋敷に入ると先日のメイドが雪乃を出迎えた。


 「おはようございます、雪乃さん」

 「あら、この前のかわいいメイドさん、先日は美味しいお紅茶をどうもありがとう」

 「あのマリアージュのマルコポーロは兄のお気に入りなんです。

 特別なお客様にしかお出ししないんですよ」

 「えっ、あなた、小次郎の妹さんなの?」

 「はい、弥生と言います。

 苗字が如月で名前が弥生なんて面白いでしょ?

 私と兄は父は同じですけど母親が違うんです。

 私の母は兄のお母さんが病気で亡くなった後に来た、後妻なんです」

 「そうだったの、知らなくてごめんなさいね。

 あの人、何も教えてくれないから」

 「気にしないで下さい、私、メイドのカッコをするのが好きなんです、かわいいでしょ? このお洋服」

 「お洋服もかわいいけど、弥生ちゃんの方がもっとかわいいわ」

 「雪乃さんって面白い人、美人だし。

 兄が好きになるのも分かる気がする。

 兄が戻ってくるまで雪乃さんのお相手をするように言われたの。

 お茶でもいかか? 私のお部屋で」



 弥生の部屋はピンクとホワイトで統一された部屋だった。

 ぬいぐるみもたくさんあり、ディズニーグッズで部屋は埋め尽くされていた。


 ただ、本棚には難しそうな医学書や洋書がずらりと並んでいた。



 「すごい本の量ね、兄妹で本好きなのね?」

 「兄は法学部でしたけど、私は医学部の3年生なんです」

 「どうしてお医者さんになろうと思ったの?」

 「兄たちを助けるためです。

 ですから一応、外科志望なんです」


 そう言って弥生は悲しそうな顔をした。

 

 雪乃は弥生の淹れてくれた紅茶に口をつけた。

 とても爽やかで奥行きのある味と、数種類のハーブのいい香りがした


 「雪乃さんは兄のどこが好きですか?」

 「全部、全部好き。

 足の先から髪の毛の先まで全部好き」

 「じゃあ私とおんなじですね」

 「弥生ちゃんはブラコンなの?」

 「そうかもしれません。

 私、兄とは20歳も離れているんですよ、だから兄というよりお父さんかな? 若いお父さん。

 小さい頃からよく一緒に遊んでくれました。

 学校の行事はいつも兄が来てくれました。運動会とか入学式とか。

 となるとファザコンかな、私。クスッ」

 

 雪乃と弥生は母と娘のように笑った。


 「私、雪乃さんなら「お姉さん」って呼んでもいいですよ」

 「ありがとう弥生ちゃん。

 私もあなたみたいなかわいい妹が欲しかったの。

 ウチは兄と弟だったから。私が真ん中」

 「えーっ、そうなんですかあー。

 なんだかうれしいなあ。 

 私も欲しかったんです、雪乃さんみたいなお姉ちゃんが」


 雪乃と弥生はすぐに打ち解け、色々なことをおしゃべりした。

 大学の事や芸能人の話など、あっという間に時間が過ぎていった。



第21話 血の契り

 「兄が戻って来たようなので、応接間に行きましょうか?」


 雪乃と弥生は応接間に移動した。


 そこには雪乃たちに背を向け、庭を見詰めて立っている小次郎がいた。

 小次郎は雪乃たちに気付き振り返った。


 「面白い妹だろ? 雪乃の話し相手になったかい?」

 「すごく仲良くなっちゃった。ね、弥生ちゃん?」

 「流石はお兄ちゃんが好きになった人だけのことはあるわ。

 雪乃さんなら許してあげる、私のお姉ちゃんになってもらってもいいわよ」


 小次郎はうれしそうに笑った。

 それは妹というよりも、自分の娘が父の再婚を喜んでくれているようだったからだ。


 「弥生、お茶を淹れてくれないか?」

 「わかりました。

 じゃあ今度はハロッズのオレンジペコーにしますね?」

 「任せるよ」


 弥生が応接間を出て行くと、小次郎は真顔で言った。



 「お別れだと言ったはずだ」

 「そんなの忘れちゃった。嫌なことはすぐに忘れるたちなの、私」

 「じゃあ忘れないように紙に書くよ」


 小次郎は引き出しから便箋を取出し、背広の内ポケットからモンブランの万年筆を抜くと、さらさらとメモを書き、捺印をした。

       


    雪乃へ


    さようなら もう二度とお前と会いません



                    小次郎



 小次郎はそれを雪乃に手渡した。


 雪乃はその便箋を受け取ると、小次郎の目の前でそれをビリビリに破いて宙に投げた。

 白い花吹雪のように紙片が舞った。


 「ほら見て小次郎、綺麗な紙吹雪」


 小次郎は苦笑いをした。


 「雪乃を好きになった俺が悪かった。

 許してくれ、雪乃。

 初めて海で雪乃と会った時、俺は海を見て、死んだ利紗のことを想い出していたんだ。

 そのままお前とカニピラフを食べてお別れするつもりだった。

 極道のくせに堅気の女に惚れてしまった。

 10年前、俺は利紗という女と結婚するつもりだったんだ。

 その頃は毎日が組同士の抗争だった。

 やられたらやり返す、そしてまたやられ、また報復することの繰り返しだった。

 そんな時、利紗は俺を庇って撃たれて死んだ。

 俺はその時誓ったはずだった。

 二度と誰も愛さない、誰も愛しちゃいけないと。

 あの海辺のレストランは利紗とよく通った店だった。

 そして俺は彼女のためにいつも蟹の殻を剥いてやったんだ。

 旨そうに、そしてうれしそうにそれを食べる雪乃に、俺は心を奪われてしまった。

 そしていつの間にか俺は、雪乃を本気で愛してしまった。

 俺はヤクザだ。雪乃もいつかは狙われる、俺の女だからだ。

 利紗と同じ目に雪乃を遭わせるわけにはいかないんだ。

 わかってくれ雪乃、俺のことはもう忘れてくれ、もう二度とここへは来ないでくれ、頼む」


 小次郎は雪乃に詫びた。


 「分かったわ、小次郎の気持ちはよく分かった。

 でも分かることと、それを受け入れるのは別よ。

 私はもう小次郎なしでは生きていけないの。

 花は水と酸素、栄養だけでは生きられない。

 私にもあなたという太陽の光が必要なの。

 小次郎が利紗さんをずっと好きでもいい、いいえ、忘れないでいてあげて欲しい。

 あなたのいない人生なんて、死んだ方がマシ。

 小次郎は私の生甲斐なの! 生き甲斐無しで人は生きられないわ!

 小次郎と出会った時から私は小次郎の物なの、私の命はあなたに預けたのよ!

 命なんて惜しくない! 私はあなたがいないと生きていけないの!」


 雪乃はバッグを開け、ナイフを取出した。そしてパチンという音と共に刃を開くと、その刃先を自分の喉元に宛てた。


 「どうしても別れてくれというのなら、私は今ここで命を絶ちます!

 私がどれほど小次郎を愛しているか、今、証明してあげる!」


 鋭い切先が白い雪乃の喉を傷つけ、一筋の赤い血が流れ、小次郎からプレゼントされたネックレスを伝い、その血は雪乃の胸の谷間に流れて行った。


 小次郎は冷静に雪乃の手からナイフを取り上げ、そのナイフで自分の親指の腹を切りつけ、雪乃の傷口と合わせた。

 ふたりの血が混じり合い、雪乃の体を流れて行った。

 そして小次郎は雪乃を強く抱き締めた。


 「俺と雪乃の血の契りだ」

 「はい」

 「お前は俺の最期の女だ」

 「はい」

 「いいのか? 後戻りは出来ない、それでも俺について来てくれるか?」

 「それでもいい、それがいいの!」


 雪乃は小次郎にしがみ付き、号泣した。


 「わかったよ雪乃、お前は今日から正式に俺の女だ。結婚しよう」

 「はい、よろこんで」



 弥生はそのふたりの光景をこっそりと見ていた。



 「紅茶じゃなくて、シャンパンの方が良さそうね」



 弥生は紅茶を載せたワゴンをキッチンに戻し、シャンパンと救急箱を取りに行った。


 小次郎と雪乃はしっかりと抱き合ったまま、石になったように動かなかった。


第22話 無夜中のプロポーズ

 その夜、雪乃は初めて小次郎の屋敷に泊った。

 久しぶりに小次郎に抱かれた雪乃は、夢中でその行為に没頭した。


 小次郎はそのまま雪乃の体に自分の精子を放出した。

 ドクンドクンと脈打つ小次郎のペニスに雪乃は歓喜した。


 押し寄せる凄まじいほどのエクスタシーに雪乃のカラダの痙攣は収まらなかった。

 

 「うれしい、小次郎。

 私、絶対に小次郎の子供が欲しい・・・」


 雪乃は小次郎の背中の龍にキスをした。


 「どうかこの双龍の子供が出来ますように。

 そしてどうか小次郎をお守り下さい」


 小次郎は雪乃を優しく抱きしめ、雪乃のネックレスを愛でながら言った。


 「このダイヤのネックレスは雪乃のお守りだ。

 いつも身に着けているんだ。

 これを俺だと思え。雪乃がピンチになった時、必ずこのネックレスがお前を守る。

 そして雪乃、もし俺がお前より先に死んでも決して悲しむな。

 俺はいつもお前と一緒だ、お前を守る。

 約束だぞ雪乃」

 「いや、小次郎が先に死んじゃいや。

 私よりも長生きすると約束して。

 あなたのお葬式の喪主になんかなりたくない」

 「雪乃、人は必ず死ぬんだ。

 死を意識して生きることは悪いことではない。

 死は突然の人生の中断だ。

 死を考えることは「どう生きるかを考えること」なんだ。

 雪乃、愛しているよ」

 「私もよ、小次郎・・・」

 「雪乃、今度またあの海の見えるレストランで食事をしような?」

 「うん、行きたい」

 「またカニピラフか?」

 「また殻を剥いてくれる? うふっ」

 「ああいいよ、また剥いてやるよ、雪乃のために」

 「うれしい・・・、だって手が汚れちゃうんだもん」


 雪乃は静かに目を閉じた。

 レストランから見える雄大な太平洋の海が広がり、潮騒の音が聞こえた。


 

 その時、小次郎の携帯が鳴った。

 紅虎組の佐竹からだった。


 「小次郎、いよいよ明日だ。

 ギャラリーはなるべく多い方がいい。

 変な真似はするなよ、必ず来い」


 それだけ伝えると佐竹は携帯を切った。


 「誰からなの?」

 「昔からの古い友人だよ」


 (雪乃、俺は必ず生きて帰る)


 小次郎はそう自分に誓い、雪乃を強く抱きしめた。


 「雪乃、明日、俺の仕事が終わったら、一緒に役所に婚姻届を出しに行こう。

 俺と結婚してくれ、雪乃」

 「うん、待ってる。大変なお仕事なの?」

 「大した仕事じゃない、すぐに終わるよ」

 「すぐに帰って来てね」

 「ああ、すぐに帰って来るよ。

 印鑑だけ準備して待っていてくれ」


 雪乃は何故か胸騒ぎを感じ、小次郎に抱き付いた。


 「小次郎、必ず戻って来てね」

 「ああ、必ず、必ず戻って来るよ」


 池の錦鯉が跳ね、その音が夜の闇から聞こえた。


 何も言わず、ふたりは体を合わせた。


 忘れることが出来ない熱い夜だった。


第23話 仁義

 早朝の大通りには如月組と紅虎組の世紀の対決をひと目見ようと、多くのヤクザ者たちが集結していた。

 ショッピングモールの駐車場には白いプリウスが2台、哀愁を満ちて置かれていた。


 キリリと引き締まった夜明け前、その中心に二頭の龍と虎がいた。


 「小次郎、ルールは簡単だ。

 まずジャンケンでどちらのプリウスに乗るかを決める。

 そしてそれに乗ってこの6車線の大通りでデス・レースをしようというわけだ。

 わずか1,000mの直線勝負。

 この信号がスタートの合図になる。

 ゴールにはそれぞれが用意した自分のチャカが置いてある。

 早くゴールした方がその拳銃でズドン!というゲームだ。

 そして生き残った方がこの世界の帝王になる。

 勝っても負けてもそれで終わりだ。

 どうする小次郎? 逃げてもいいんだぜ、受けるか? この勝負?

 ただし、如月組は解散。いいな小次郎? 命が惜しくばそれもまた選択肢のひとつだぜ」


 小次郎がタバコを咥えようとすると、佐伯がすぐにそれに火を点けた。

 小次郎はタバコの煙を軽く吐くと、


 「いいでしょう。

 では、勝負の前にこの書類にサインをして下さい」

 「なんだこれは?」

 「この勝負に負けた場合、今後一切、薬物等の取引をしないことを約束すると言う誓約書です」

 「こんなのいらねえよ、勝つのは俺だからな?

 そして万が一、俺が負けたら組はなくなる、同じことじゃねえか」

 「私は佐竹さんのこの勝負を受けた。

 だからあなたもこの書類にサインする義務がある」

 「まあ、どちらにしても同じことだ。

 サインすりゃあいいんだな?」


 佐竹は小次郎の出した誓約書にサインをした。

 小次郎は若頭の佐伯にそれを渡した。


 「小次郎、シャブに手を出すのを喜ぶヤクザなんか誰もいねえ。

 いるとしたらシャブ漬けのいかれた連中だ。

 シノギには金が要る。

 どうやってそれを稼ぐ?

 今じゃ暴対法だなんだと、極道の収入源は極端に減らされちまった。昔とは違う。

 おめえの言っていることは理想論だ。

 街のゴタゴタを収めていったい幾らになる?

 俺たちは社会のゴミ掃除屋なんだぜ。

 俺たちよりもよっぽど薄汚ねえ奴らなんか、たくさんいるじゃねえか?

 知らねえなんて言わせねえぜ。

 まあいい、すぐに始めようぜ、デコスケ(警察)が来る前にな?」



 ゴールに置かれた台には、それぞれの組の若頭が拳銃を置いた。


 若頭の佐伯が組のベントレーでやって来た。


 「若、信じています。

 必ず勝手くだせえ」

 「俺の背中には龍神がついている。虎には負けない。

 だがもしもの時は佐伯、お前が組を仕切れ、いいな?」

 「若、とっとと片付けて下せえ。雪乃さんが朝飯を作って待っていますぜ」

 「ああ、腹減ったな?」


 小次郎は静かに微笑んだ。



 小次郎はジャンケンに勝ち、右側のプリウスを選んだ。

 そして2台のプリウスはゆっくりとスタートラインへ誘導され、スタート位置に着いた。


 今までの喧騒が嘘のように静まり返った。

 固唾を飲んで見守る極道たち。


 

 信号が赤に変わった。この信号が青に変わればスタートだ。

 ヤクザたちが道路へ侵入するクルマを停止させた。

 東の空が白みを帯びて来た、夜明けは近い。



 信号が青に変わった。


 タイヤを軋ませ激走する2台のプリウスは次第に速度を上げていった。

 湧き上げる大歓声!


 「オヤジーっ!」

 「若ーっ!」

 

 わずかに小次郎が早くゴールし、拳銃を握った。

 小次郎は勝利した。


 佐竹はゆっくりとクルマを降りると、小次郎の前に立った。


 「小次郎、お前の勝ちだ、殺れよ、早く」


 佐竹は跪き、自分の額の中央に指を刺した。

 

 「苦しむのはイヤだからな? ここを一発で頼む、外すなよ、小次郎」



 小次郎は銃口を佐竹に向け、躊躇うことなく引き金を弾いた。


 パーン 


 パパーン


 小次郎の放った1発の弾丸は佐竹の頭上を飛んで行った。

 だが他の2発は・・・。


 それは佐竹の子分の撃った銃弾の音だった。

 うつ伏せに倒れた小次郎から血が流れ、黒いアスファルトに血が広がり始めた。 


  紅虎の若いチンピラだった。



 「小次郎ーっ!」


 佐竹は小次郎を抱き起した。

 小次郎を撃ったその若い男は震えていた。


 「オ、オヤジ、俺は、俺は、オヤジに勝って欲しかったんです!」


 するとその組員は自分のアタマに拳銃を発射し、自害した。


 「バカヤロー! 小次郎! しっかりしろ、小次郎! おい、早く救急車を呼べ!」

 「さた、け、さん、これでおわりに、して、く、だ、さい、ね・・・」

 「小次郎ーっつ! しっかりしろーっつ!」


 若頭の佐伯もすぐに小次郎に駆け寄り叫んだ。


 「救急車! 早く救急車を呼べ!

 若! 死んじゃいけねえ! 雪乃さんが待っていますぜ!」


 佐竹はゆっくりと立ち上がると、腹に巻いた晒からドスを抜き、鞘を捨てた。

 佐竹はドスを構えると、力いっぱいに自分の腹を刺し、それを横に引いた。

 佐竹の周りはドス黒い血の海が広がっていった。


 「小次郎ーっ、お前だけ、カッコつけさせるわけには・・・、いかねえやな、俺も一緒に、行くぜ・・・」


 佐竹は血まみれのまま倒れた。

 朝日が昇り、三つの亡骸を照らしていた。



 救急車とパトカーのサイレンの音が、朝日に輝く街に響き渡っていた。


最終話 海の見えるレストラン

 「小次郎? もう戻ったの?」



 小次郎が撃たれた時、雪乃はキッチンで朝食の支度をしている最中だった。


 だが、小次郎の姿はそこにはなかった。





 警察署では松田課長が窓に立ち、ぼんやりと雨に濡れる街を見下ろしていた。

 

 「あいつらの顔、見たか? まるで笑っているみたいだったよな? だから俺はヤクザが嫌いなんだ。

 なぜ死に急ぐ?

 そんなに慌てて死ななくても、旨い物たくさん食って、姉ちゃんとヤリまくって怒鳴り散らしていればすぐに死ねるのになあ。

 あいつら何のために生きていたと思う?

 何を守ろうとしたか分かるか? なあ、係長。

 アイツら、俺たちみたいにただボーッとなんか生きていねえもんなあ。

 己の義のために命を捨てたんだよ、あの三人は。

 係長には命よりも守りたい、大切な物ってあるか?

 死んで欲しいような威張り腐った奴らは物凄く健康に注意して、1秒でも長生きしようと生に執着する。

 醜いよなあ。

 おい、タバコあるか?」

 「松田課長、ここは禁煙です」

 「いいじゃねえか今日くらい、あいつらの線香代わりだよ」




 小次郎の葬儀には町中が黒い花輪で埋め尽くされていた。

 多くの市民も小次郎の死を悼み、弔問に訪れていた。

 雨の中、弔問の列はどこまでも長く続いていた。



 弔問客を迎える雪乃と弥生。そして佐伯たち。

 彼女たちに涙はなかった。


 小次郎の死はあまりに突然であり、まだ実感が持てなかったからだ。

 彼女たちには小次郎が死んだという事実が理解出来ないままだった。


 この葬儀が一体誰のものなのか? 考える余裕すらなかった。

 

 どこからか小次郎がひょっこりと現れ「誰か死んだのか?」と訊いてくるような気さえしていた。




 小次郎の棺が火葬場の焼却炉の前にやって来た時、雪乃は棺に縋り、狂ったように泣き叫んだ。


 「お願い! お願いだから私も一緒に焼いて! 小次郎と一緒に私も焼いて頂戴!」


 若頭の佐伯も弥生も、そんな雪乃を見てみんながすすり泣いていた。

 火葬場の庭のタンポポの綿帽子が、風に飛ばされ散っていった。






 小次郎の3回忌が終わった良く晴れた五月、雪乃と弥生、そして2歳になったばかりの小次郎の落とし児、小太郎の3人は、この思い出の海に再びやって来た。



 「ほら小太郎、綺麗な貝殻でしょう?」


 弥生が小太郎に桜貝の貝殻を渡したが、小太郎はすぐにそれを捨てた。


 「せっかく弥生お姉ちゃんが拾ってあげたのにー」

 「お姉ちゃんじゃないでしょ、弥生オバサンでしょう?」

 「やだよ雪乃お義姉ちゃん、オバサンだなんて」

 

 弥生も雪乃も笑った。

 雪乃は小太郎に言った。


 「小太郎、これが海よ、小太郎のパパの海」

 「うみー?」


 小太郎は首を傾げていた。


 「そうよ、ここが初めてママと小次郎パパが出会った海」


 眩しい五月の日差しを受け、海はダイヤをばら撒いたように煌めいていた。

 小次郎から貰ったダイヤのネックレスが雪乃の胸元で輝いていた。


 

 「ねえお義姉ちゃん、お腹空いたよー、カニピラフ食べて帰ろうー」

 「イヤよ、カニピラフは殻を剥くと手が臭くなるから」


 雪乃と弥生は小太郎を真ん中にして手を繋ぎ、あの海のレストランへと歩いて行った。


 あの日、雪乃と小次郎が歩いたこの道を。



                   『傷だらけのダイヤモンド』完


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【完結】傷だらけのダイヤモンド(作品230411) 菊池昭仁 @landfall0810

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