第5-3話:奈落への入り口

 ミランダは、部屋の中を見渡して少し考えた後、セネカが落とした消火器を拾い上げた。

 これで、マリウスの顔と頭を潰すことにした。


 2人の間に、言葉はなかった。「待て」も、「最後に言い残す言葉は?」もない。

 ミランダは無表情で、横たわるマリウスの頭上に立った。マリウスも無言。



 ミランダはまず、片手で消火器を振り下ろした。

 マリウスは動く左手でそれを払い除ける。


 次は、棚に挟まれている右手側から、振り下ろした。

 マリウスは消火器の底を受け止めるが、重みと勢いで、止めきれない。

 首を振って避けようとするが、こめかみに当たる。

 がっと擦れる音がして、血が流れた。


 ミランダは、今度は両手に消火器を持った。

 少し足を開くと、消火器を高く持ち上げた。

 そして、屈み混みながら、勢いをつけて振り下ろす。

 マリウスの顎をめがけて、消火器を叩きつける。



 その瞬間。マリウスの身体が、跳ねた。



 ミランダはカッと目を開いた。

 凝視する先には、腕がまだ横たわっている。


 腕だけが!



 マリウスは身体を回し、左腕をすくい上げるように突き出した。

 ミランダは消火器を投げ捨て、一気に海老のように反って拳をかわす。


 マリウスは拳を返して顎先を狙うが、僅かに、紙一重、届かない。


 マリウスは、拳の中の筒を握り締めた。


 ミランダが嗅ぎ取ったのは、オゾン臭だった。

 光る刃が飛び出したが、それをミランダが見ることはなかった。

 マリウスはレーザーカッターを振り抜いた。



 ミランダの顔の側面に、顎から額まで、赤い線が一筋、走った。


 何かが焼ける臭い。

 そして。


 お面の耳紐が外れたかのように、

 ミランダの顔が、ベロリと前に開き、

 皮一枚でぶら下がり、揺れた。


 マリウスは、

 ミランダの顔を削ぎ落としたのだ。


          **


 人肉が焼けた煙に、濃厚な血の臭いが混ざった。

 それでも両者は一言も話さなかった。呻き声すらない。


 ミランダがすかさず反撃した。脇腹に強打をもろにくらい、マリウスは床に倒された。

 音を頼りに、ミランダが蹴りを入れる。転がってかわそうとして――右腕がなかった。回転が遅れ、爪先がマリウスの腹に食い込んだ。

 体内の空気を無理やり押し出されて、呻き声のような音が漏れた。


 マリウスは、足をもぎ取られた獣、あるいは虫のように這って、追撃を逃れた。



 自ら切り落とした右腕の切断面は、レーザーカッターの高熱でケロイド状になっていた。今の動きでケロイドが破れ、激しく流血する。


 ようやく立ち上がった。乱れた息遣い。

 それを聞きつけたミランダが、顔を――顔があった部分を――マリウスに向けた。

 削ぎ取られた顔が、蝶番で留められたドアのように揺れる。

 血塗れの平面に、気管の孔が見えた。


 マリウスは、一歩、そしてもう一歩、後退あとずさり、距離を取った。



 後退ったのだ!

 前に進むのではなく。



 沈黙の対峙が続いた。


 やがてミランダが、首を押さえて、よろめいた。

 片膝、次いで両膝をつく。

 息を必死で吸い込むような素振りを見せた後、前のめりに倒れた。


 マリウスは、一分待った。

 さらにもう一分、待った。永遠のように長い二分だった。

 ミランダは動かない。



 死んだのか?


 慎重にミランダに近づくと、左手で、そっと首筋に触れる。

 その瞬間、死力をふりしぼって、ミランダが跳び上がった。


 その姿を目の当たりにして、マリウスが感じたのは、恐怖でも、戦いの高揚でもなかった。

 マリウスの心を満たしたのは、哀しみだった。


 もはやミランダに視覚はない。敵を求めて振り回す両腕が、虚しく空を切った。


 まるで人形だ。壊れた人形のようだ。マリウスはそう思った。

 人形は最後まで踊る。

 戦闘人形は、最後の瞬間まで、戦わなければならない。

 マリウスの蹴りを受けて、ミランダはどぅと倒れた。



 頭をマリウスに向けた。赤く染まる平面の中に、気管が黒く見える。

 マリウスにはその黒い穴が、奈落への入り口に見えた。


 ミランダが何かを言った。

 音はしなかったが、マリウスははっきりと聞いた。

「殺せ」と。


 頭を抱きかかえると、ミランダの右腕が動いた。

 最後の力を振り絞って戦おうとしたのか。

 それとも、強敵を称えようとしたのか。

 いずれも叶わず、力なく床に落ちた。


 マリウスは、腿の上に頭を乗せ、そして、力を込めた。


          **


 マリウスは、がっくりと膝をついた。横たわるミランダを見下ろす。

 黒い長髪が、カーテンのように、ミランダの首から上を隠した。


「最強では、なかったんだ」

 呆然と、呟く。

「一人だったら、勝てなかった」

 ちぎれて床に落ちたミランダの顔が、無言でマリウスを見上げていた。


          **


 タカフミは、うのていで瓦礫から這い出た。

 ベランダが崩落した後、自分でも重力制御を操作した。

 地面に激突する前に、何とか落下の勢いを相殺することが出来た。落ちた壁が盾になって、細かな瓦礫から守ってくれた。


 5階のドローンで見ると、ギリクがセネカの腕を治療していた。床に30センチ四方の穴が開いている。そこから強化ヤモリを送り込む。

 4階は静かだった。天井を這うヤモリから、上下逆さまの映像が届く。

 床の上に広がる、長い髪が見えた。布の女の横に、跪いていた。

「生きている!」

 タカフミは思わず叫んだ。



 ドローン8機が戻ってきた。2台の担架が結び付けられている。

 タカフミは担架に乗って、ナハトの部屋に戻った。

 担架は5階に向かわせ、自分はマリウスに駆け寄った。

 床に血が流れている。マリウスの右腕がない!


「ナハトは警察部隊が確保しました。生きています!」

 そう言いながら、マリウスの腕の根元、右腕が付いていた場所に、止血スプレーを吹きかける。マリウスは黙って頷いた。

「2人は無事か」

「今、担架で降りてきます」


 掃き出し窓の方から、ドローンの羽音が響いた。担架が入って来た。

 セネカが飛び降りて、マリウスに駆け寄る。


 2台の担架を見て、マリウスが指示を出す。

「セネカ、棚を動かして、腕を回収してくれ。

 タカフミ、ミランダを――この女を、担架へ」

 言われて、横たわる身体を見下ろして、ぎょっとした。顔がない!

 凄惨な戦いの有様に言葉が出ない。


 遺体を抱える。間近で見ると、胸があった。見間違いではなかった。

「何を見ている?」

「なななんでもありません!」

 慌てながら担架に移す。


 マリウスは立ち上がった。

「歩けますか?」

「歩ける」

 そのまま、ばたんと倒れた。


「マリウス!」

「だい・・・じょうぶだ。めまいがしただけだ。

 前にも、こういうことがあった」


 痛覚抑制しているため、自分の危機的状況が分からなかったのだ。

 出血性ショックで皮膚が青白い。足が痙攣している。


 タカフミは、担架のミランダの上に、マリウスを重ねた。

 それからセネカに、担架に付き添うよう命じて、出発させた。


 部屋の中を見渡すと、ミランダの顔が、床から見上げていた。

 ぎょっとする。その顔を拾い、ポケットに入れた。


 破壊されたドローンを回収。ヤモリたちには造船所を出るように指示。

 チームの最後尾に立ち、滝を目指した。

 

「着いたら、すぐにエアカーを起動してくれ」

「はい」


          **


 チームガニュメデスは、造船所を脱出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る