最終話、永遠の愛

 ピピッ、ピピッ、ピピッ、


 パタパタパタ…



 ここはどこだろう?眩しくて目が開けられない…


 私は手のひらを額にかざしながらゆっくりと瞼を開いた。白いもやがかかっているが妙に明るい世界だ。


 天国ってこんなに明るくて騒がしいのかな?…



 「燈花とうか燈花とうか?」



 突然懐かしい声が耳元でし、白いもやの中にぼんやりと姉の顔が浮かび上がった。


 まさか姉も天国にいるのだろうか…


 温かな手が私の頬を撫でた。


 「燈花とうか?分かる?私よ」


 姉の声はさっきよりもはっきりと聞こえ、近づいて来た顔は目尻のしわまで見えた。


 「…お姉ちゃん?」


 ぼんやり聞くと、


 「そうよ!気が付いた⁈」


 姉は大きく目を見開き、目をパチパチさせながら私の手を握った。姉の隣には身を乗り出しながら、私を見ている二人の姪っ子達の姿も見えた。どうやら、まだ天国には行ってないらしい。


 と言う事は…


 「ここはどこ…私、生きてる?」


 呟くように尋ねると、


 「生きているに決まっているじゃない!ここ病院よ!」


 姉の甲高い声が部屋の中に響いた。


 「でも私、胸に矢が刺さって…」


 「矢なんて刺さってないわよ!あなた長い間、悪い夢を見てたのよ」


 姉は涙声で言うと鼻をすすった。


        …夢?…


 私は矢を受けた胸にそっと手を乗せた。矢も刺さってないし、特に何も感じない。姉が話を続けた。


 「あなた四か月も意識がなかったのよ」


 「四か月⁈」


 自分でも驚くほどの大声を上げた。


 「そうよ…もう意識が戻らないんじゃないかって、すごく心配したんだから…」


 姉はポケットからハンカチを取り出すと目頭を押さえた。


 姉の話によると、私は推古天皇陵墓の階段を踏み外し転げ落ちたあと、そのまま意識を失い今日にいたるまで四ヶ月も意識がなかったらしい。


  夢を見ていた?…そんなはずない…


 私は天井の明るすぎるライトに目を向けたあと、窓に視線をうつした。窓の外はまだぼんやりと白いもやがかかっているようで、はっきりと見えない。


 「おかしいわ…目覚めたのに、なぜ何も見えないの?」


 私が目を擦りながら聞くと、すかさず姉が答えた。


 「きっとまだ頭が混乱しているのよ、それにあなた眼鏡してないもの。それじゃあ何も見えないわよ」


 「眼鏡?」


 「そうよ、あなた視力が悪いから眼鏡なしじゃ1メートル先も見えないじゃない」


 「えっ?」


 姉はそう言うと、ベッド横の棚から眼鏡を取り出し私の手の上に置いた。受け取っためがねをしげしげと眺めながら、混乱する記憶の糸を手繰り寄せてみる。


 飛鳥の都では眼鏡なんてかけてなかったけど…そうだ…その前は、視力が悪くて眼鏡がかかせなかった…


 半信半疑で眼鏡をかけてみると、目の前の世界は一気にクリアになり部屋の隅々までしっかりと見えた。そのまま窓の外に目を向けてみる。どんよりとした薄曇りの空を、風に吹かれた枯れ葉が何枚も飛んでいる。季節は確かに冬に変わっている。宇宙人にでもなった気分だ。ポカンとする私を前に姉が心配そうに首をかしげた。


 「眼鏡をかけていた事も忘れちゃった?まぁ、転んだ時に頭に強い衝撃を受けたから、目覚めた時、記憶が曖昧になるかもって先生が言ってたのよ。すぐに先生が来るから、しっかり診てもらいましょう」


 眩暈がし頭がクラクラとしてきた。四か月も眠っていたなんて到底信じられない。絶対に夢ではないはずなのに、視力の悪さがタイムスリップ前に戻っている。


 私はため息をつくと頭を撫で、手を止めた。


      …髪が短い…


 「お姉ちゃん、私の髪…何故こんなに短いの?…」


 「ずっと、ショートでしょ?でもこの数か月で大分伸びちゃったわね。退院したら美容院に行くといいわ」


 私はもう一度髪に触れた。あの長かった黒髪はもうない。嘘でしょ?唇を噛み締めた時、瑪瑙の髪留めがない事に気がついた。もし全てが夢だったのならば、髪飾りはこの現代にあるはず…



 「お姉ちゃん、母さんからもらった瑪瑙の髪留めどこ?」


 「瑪瑙の髪留め?何それ?」


 姉は目を丸くしてキョトンとしながら私を見た。


 「ほら、うちに先祖代々伝わる紅色の瑪瑙の石よ。母さんが亡くなる前に私が引き継いだじゃない、これくらいのサイズで…」


 私は指を丸め、石の形と大きさを見せた。


 「んん?そんな石知らないわ…」


 姉は真顔で答えると、顔を横に振り肩をすくめた。


 いったいどうなっているの?こんな状況で姉が冗談を言うとは思えないし、嘘をつく理由もない。でも確かにあの瑪瑙の石をめぐり、姉妹のどちらがもらうかで喧嘩をしたのだ。結局、母に説得された姉が渋々私に譲ったが、彼女にとっても思い入れ深い石だから、決して忘れるはずがない。


 私は頭の整理がつかないまま、もう一度尋ねた。


 「私、本当にずっとこの病院に入院してたの?」


 「そうよ、ずっとそのベッドに寝ていたわ」


 姉は呆れたように笑うと、ティッシュで鼻をかみ立ち上がった。


  夢のはずないんだけど…


  アッっ…


 私は部屋を去ろうとする姉を呼び止めた。


 「お姉ちゃん、今は何年?」


 「えっ?2024年だけど…」


     …2024年?…


 「お姉ちゃん待って!私の携帯かして!」



私はベッドから起き上がると、急かすように姉に手を差し出し、雑に携帯をつかんだ。暗い画面をしばらく見つめたあと、震える手で文字を打った。


       “蘇我入鹿”


蘇我入鹿…643年、巨勢徳多、倭馬飼らなど100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた…山背大兄王は家臣の三輪文屋らと共に生駒山に逃れたものの、戦闘を望まず斑鳩寺にて一族もろともに首をくくって自害…


645年、乙巳の変にて討たれる…板葺宮での三韓の儀に参列し、皇極天皇の御前で中大兄皇子、中臣鎌足らに殺害された…



携帯が大きな音を立てて床に落ちた。


三韓の儀で殺された?そんな、歴史が何も変わってない…林臣りんしんも山代王も二人とも非業の死を遂げた…なぜ?どうして?手紙を読んだならば難を逃れる事が出来たはず…


 私は窓の外を見た。強くなった風がビュウウウと音をたてて通り過ぎた。


 …それともあの人、木箱を受け取らなかった?私を許せなくて手紙を読まなかった?全てを誤解したまま死んだの?


 …だとしたら、やっぱり全て夢であって欲しい!


 私はベッドに横たわると両手で顔を覆った。死ぬほど胸が痛い。


 溢れた涙が耳元をつたいシーツに浸っていく。


 ドアの前で立ちすくんでいた姉が驚いた様子で飛んできて、私の手をさすりながら不安そうに顔を覗き込んだ。私は「大丈夫だから」と言い、毛布を頭までかぶった。


 怪我もしていないし、視力も元に戻った…髪も短い…飛鳥で過ごした長い最月が夢だったなんてそんな事信じたくない…でも歴史が何一つ変わっていない事が全ての証拠だ…全部夢だったんだ…リアルすぎる夢、神様はなんてひどい仕打ちをするのだろう…


 記憶と共に張り裂けそうな胸の痛みだけが残る。切なくて、切なくて涙がとめどなく溢れた。


 淡々と過ぎて行くこの現実世界に心が追いつかない。それでも翌日になると私は歩行のリハビリに向かった。四ヶ月も寝たきり生活だったが、初日のリハビリを終える頃には普通に歩けるようになっていた。医者も看護師達もひどく驚いていたが、最初だけ歩きづらさを感じただけで、体の違和感はあっという間に消えた。


 部屋に戻る途中の廊下で、どこからか温かな風が吹きこんできた。昨日とは打って変わって風もなく、穏やかで温かな日差しが廊下に差し込んでいる。


 「お姉ちゃん、外、温かそうね…」


 「そうね、もう二月も終りだからね。そうそう、病院のエントランス近くに植えてある桃の木の花が咲きそうなの。あと数日かしらねぇ…」


 姉は顎に手を当てながら言うと、嬉しそうに目を細めた。


      桃の花…林臣りんしん



 私は頭を振ると、“夢だったのよ”と自分に言い聞かせ、再び廊下を歩き始めた。


 自力で歩行が出来るようになると、すぐに入浴の許可が出た。私はぼんやりと脱衣所に入ると近くの椅子に腰かけた。


 久しぶりのお風呂だ、夢だったとしても飛鳥で数年暮らした中で、お湯に浸かったのは茅渟王ちぬおうの宇陀の行幸に行った時の一度きりだ。まぁ、それも夢だったのだけど…


 私は、力無く立ち上がり病衣を脱いだ、突然鋭い痛みを感じて胸を押さえた。何だろう、引きつるようなピリピリとした皮膚の痛みを感じ、その奥深くに鈍痛を感じた。私は急いで脱衣所にある鏡の前に立ち、顔を近づけた。


 鏡に写った自分の体に息が止まった。胸にあてた指の隙間から丸く大きなケロイドの傷跡が見えた。こんな傷跡を見るのは初めてだった。


 何この傷跡…そうだ…この場所に矢が刺さったんだ…


 鼓動が一気に早くなる。その瞬間、背中にもヒリヒリとした火照るような痛みを感じ、今度は背中を向けた。盛り上がった皮膚が赤くなりみみず腫れのように背中に広がっている。


 …この傷…鞭で叩かれた時に出来たもの…


        林臣りんしん!!


 夢じゃない!!やっぱり夢じゃなかった!!どうしよう!!


 私は、息をするのも忘れ慌てて病衣を着直すと病室に走って帰り、姉の腕の中に倒れ込んだ。


 「お姉ちゃん、夢じゃなかったの!夢じゃなかったのよ!どうしよう私、あの人を一人置いてきちゃった!!…ワァァン」


 呆気に取られる姉の腕の中で私は子供のように泣き崩れた。姉はそこから何時間も私の話に耳を傾けてくれたが、最後は笑いながら「お風呂に入るのを忘れないで」と言っただけだった。


 数日が過ぎ、体のどこにも異常がない事を確認し終えると、私は病院を退院した。


 温かな日差しのなか、姉と二人の姪っ子達と共に退院の手続きを終えた。病院は推古天皇陵墓からほど近く、関東にある自宅に帰る前にどうしても明日香村を周りたいと姉に頼みこんだ。


 姉は私の夢物語など毛頭信じていなかったが、魂が抜け廃人のような私の姿が哀れだと思ったのか、快く了承してくれた。


 病院からタクシーに乗ると、最寄駅までの間、私はボーっと窓の外に広がる段々畑を見ていた。水田の中をくねくねと走る飛鳥の道を思い出す。


 最寄駅につき電車に乗り換え飛鳥を目指した。何度か乗り換えを繰り返すと、車窓から畝傍山うねびやまが見えてきた。


 私は「あっ」と言い、窓に額をつけた。畝傍山うねびやまの麓にある深田池は中宮と最後に別れた場所だ。彼女だけが最初から私の正体を知っていた。もしかすると、彼女が私を古代に呼び寄せたのかもしれない。でも、結局彼女の願いを果たす事は出来なかった。切なさで胸がキュンと痛んだ。


   あとで、足を運んでみよう…


 気付いた時にはもう電車は飛鳥駅に到着しようとしていた。駅のホームに立った瞬間、ビュウっと海風のような湿った風が頬を撫でた。


 なぜだろう潮の香りがする…こんな奥深い飛鳥まで海風は届かないはずなのに、どうして…


 私は改札を出ると、思い切り深呼吸をし辺りを見回した。早春を迎えた山々は春の息吹が感じられ、所々のアスファルトの隙間にタンポポが芽吹いているのが見えた。


 不思議な感覚のままバスに乗りこんだ。時間になるとバスはゆっくりと発車し、感傷に浸ったまま、私の追憶の旅が始まった。


 バスから見る風景は当然古代とは異なり、まるで別世界だ。それでも飛鳥への愛しさからか、熱いものが胸に込み上げた。


 いくつかの住宅を抜けると、目の前が広がり左に川原寺、右前方に橘寺が見えてきた。空高くそびえ立っていた五重塔は現代では焼失し、もうその姿はない。私の飛鳥の生活全てがつまった場所…


        …小彩…


 彼女はあの後、河内で尼僧としてどう生きたのだろう…今世では幸せに生きているだろうか…


 どことなく面影の残る橘寺のイチョウの木が更に私を切ない気持ちにした。バスが橘寺の前を通り過ぎてもなお、私は後ろを振り返り小さくなっていく寺を見ていた。


 ほどなくしてバスは石舞台古墳の前に停車した。バスを降りると姪っ子達は古墳を見渡せる芝生広場に向かって一目散に走って行った。

 平日のせいか観光客は少ない。姪っ子達は芝生の中に咲くオオイヌノフグリを見つけては楽しそうに摘み取っている。姉はその側に立ち、時折私を見て手を振った。


 私は広場が見渡せる東屋の椅子に座ると、あたりを見回した。


 古代であればここが嶋宮しまのみやだ。あの辺りに苑池があり、桃林が広がっていたはず…でも今は、苑池もないし桃林もない…


 切なさが胸に込み上げる。ふと、どこからか風に乗り花びらが飛んできた。地面に落ちた花びらを拾い上げる。


      桃の花びら…


 目を凝らして辺りを見ると、石舞台近くの柿畑の下にピンク色の桃の木が何本も生えているのが見えた。


 二人の姪っ子達が今度は、空を舞う桃の花びらを掴もうと両手を広げている。


 嶋宮しまのみやでの林臣りんしんとの思い出が走馬灯のように蘇った。


 …林臣りんしん…この場所でかんざしを挿してくれたわね…あの時、あなたはまだ十代の少年で横柄な態度が生意気で鼻持ちならなかった…私、あなたが蘇我入鹿そがのいるかだとは知らなくて噛みついたわね…


 少年時代の彼のムスッとした顔が浮かび、思わずクスッと笑った。同時に手のひらの花びらの上に涙がぽたっと落ちた。私は飛鳥に居た時の癖で服の袖で涙を拭いた。


 冬の夜、あなたの琴の音を初めて聞いた。私が酔った夜、あなたは文句を言いながらも私を担いで橘宮たちばなのみやまで送ってくれた。夏の朝、一緒に蓮の花が開くのを見たわね。桃林の夜、あなたは私に好きだと告げた…いつも私を陰で守って、愛してくれた…


 涙が頬を伝う。どれほど涙を流したら私の心は満たされるのだろう。どれほど時間がたったらあなたを忘れるのだろう…


 あなた以上に私を愛する人間がこの世界に居るはずないのに…


 いつの間にか服の袖が涙でびっしょり濡れていた。いっその事、体中の水分が全て抜け干からびて、花びらのようにどこか遠くへ飛んで行ってしまえばいいのに…


 気づくと姪っ子達は広場を抜け、橘寺に向かう歩道を歩いている。私は朦朧とした頭で立ち上がると、彼女達を追うように歩き始めた。


 姪っ子達は飛鳥川に沿った歩道を、キャッキャとはしゃぎながら風に飛ぶ花びらを追っている。


 途中二人は立ち止まると、飛鳥川に身を乗り出した。何か流されたのだろうか?二人の視線の先を見ると、川沿いに生える木の枝に白い布が引っかかっている。私は小走りで二人のもとに向かった。



      「危ないよ!」


 私が到着する前に、笠を被った袈裟姿の男性が近寄り、ガードレールから身を乗り出していた姪っ子の体を引き揚げた。


 「そんなに身を乗り出していたら危ないよ、川に落ちちゃう」


 「でも、ハンカチが飛んでその枝に引っかかっちゃって…」


 上の姪っ子が真っ赤な顔をして、川沿いに生えた木の枝を指さしながら答えた。袈裟姿の男性は、


 「君たちじゃ届かないよ、僕が取るから」


 と言い、手に握っていた金剛杖を伸ばして枝にかかったハンカチを取った。ハンカチを受け取った姪っ子が「ありがとう」と言うと、彼は微笑んだ。


 やっと追いついた私は息をきらしたまま、


 「す、すみません。助かりました。ありがとうございました」


 と言い、頭を下げた。男性は「いいえ」と答えると私に向かい微笑んだ。


 笠から覗いた男性は20代半ばくらいの青年だろう。私がもう一度「ありがとうございます」と言い頭を下げると、彼の持つ金剛杖の先がキラッと光ったのが見えた。目を凝らして見ると、丸い紅色の瑪瑙の石が紐で繋がれ、杖の先端からぶるさがっていた。

 

      …この石…


 思わず彼に尋ねた。


 「突然で失礼だとは思いますが、その瑪瑙の石を見させてもらってもいいですか?」


 彼は驚き、一瞬躊躇した様子だったが、


 「はい、いいですよ」


 と言い、杖から慎重に石を取り外し私の手のひらに置いた。


 瞬きもせずに石の表面を見つめた。私が持っていた瑪瑙と同じ、橘の葉と実の模様が施されている。鼓動が一気に早くなり、震える手で石を裏返した。

     

     Rinshin & Touka



刻まれた文字を見てすべての思考がストップした。息が出来ない…どうしてここに…


 私は、呆然と立ちすくんだあと声を振り絞り彼に尋ねた。


 「こ、これはあなたの物ですか?」


 彼は頭を振り、


 「先祖代々続く石ですが、私の物ではなく兄の物です」


 「お兄様?…」


 「はい、とても貴重で神聖な石なので年に一度、この季節にしか外に出しません。本当はこんな風に人目に触れさせてはいけないのですが…」


 男性ははにかむように笑い頭をかいた。


 私はもう一度瑪瑙の石を見つめた。


 土の中で長い年月をかけて出来たこの瑪瑙の色は、数千年たってもその輝きを失わないという…そう、だから私の想いをこの石に込め、あなたのもとに置いてきたのよ…林臣、あなた木箱を受け取ってくれていたのね…


 全ての誤解が解けていたのかも…と思うと胸のつかえがとれ彼への愛しさだけが込み上げた。


 でも、手紙を読んだはずなのに、なぜ歴史がそのままなの…


 「実は、面白い話があるんです…」


 男性が口を開いた。


 「実はこの瑪瑙、数十年前に先祖代々伝わるお墓の奥深くから見つかったんです。その時に、一緒に古文書も入っていたのですが、それによると当時のこの瑪瑙の持ち主であるうちの先祖が、先に死んでしまった妻の後を追うように、死んでいったそうです。死に際もこの石だけは手放さず、固く握りしめていたとかで…」


 その瞬間、全身の力が抜け私は道路の端にしゃがみこんだ。


 林臣りんしん…あなた自分が殺されるって知ってたのに、なぜ…


 私は両手で口を押え声を押し殺した。本当は狂ったように泣き叫びたかった。男性が慌てて、私の体を持ち上げようとしたが足に全く力が入らなくて立てなかった。




645年6月 


甘樫丘の林臣屋敷


「旦那様、なぜ全ての家財を河内に運んだのですか?使用人も全員、郷に帰らせて引越しもしないというのに…」


年老いた使用人の男が首をかしげて林臣りんしんに尋ねた。


 「もう、必要がないんだよ。屋敷の中が片付いたなら、おまえも郷に帰るように。長い間、ご苦労だったな、俸禄は足りているか?」


 「も、もちろんでございます。あんなに沢山いただいてしまって、むしろ多いくらいです…」


 使用人の男は申し訳なさそうに言うと下を向いた。林臣りんしんが優しく男の肩に手を置くと、男は一礼をして屋敷を去った。


 辺りが暗くなり、屋敷の中は林臣りんしん猪手いての二人だけになった。がらんとした屋敷の中は虫の鳴き声だけが響いている。林臣りんしんは正装に着替えると髪を綺麗に結い上げた。


 「若様、三韓の儀に参列するだけなのに、なぜそのような正装を?」


 猪手いてが不思議そうに尋ねると、林臣りんしんは横目でチラリと彼を見てフッと笑った。身支度を終えた林臣りんしんはゆっくり立ち上がると、猪手いてに言った。


 「灯篭をくれ」


 「あっ、はい。もうお出かけになりますか?私もすぐに支度をして参りますので」


 猪手いてが慌てて立ち上がる。


 「構わぬ、一人で行くからおまえは葛城の月杏の屋敷に行ってくれ」


 「えっ⁈いえ、私もお供いたします!」


 「駄目だ。そなたは招かれておらぬだろう?」


 「いえ、私も一緒に参ります!」


 猪手いても頑固な男だ。一歩も退かない。


 「頑固な奴だな。それならば父上のそばにいてほしい」


 「そ、そんな…若様どうしたのですか?何かあったのですか?」


 猪手いてが不安げな表情で林臣りんしんを見ると、彼は深く息を吐き、猪手いてに顔を向けた。


 「頼む、私の願いだ。何も言わずに聞いてくれ」


 いつになく真剣な眼差しの林臣りんしんにさすがの猪手いても折れ、しおらしく答えた。


 「はぁ、わかりました。では十分気をつけてください」


 林臣りんしんは微笑むと猪手いての肩を優しく叩き、屋敷を出た。林臣りんしんの乗った馬が月明りに照らされた林の中に消えて行った。


 大極殿に続く参道の両側にいくつもの灯籠が均等に置かれ、中の灯りがゆらゆらと風で揺れている。林臣りんしんは背筋を伸ばし凛と前を見据えて歩いている。寸分の迷いのない心がその背中に見て取れた。


 林臣りんしんが大極殿に入り着座すると、すぐに儀式が始まった。大極殿の傍らに佇む男が、声をひそめて隣の男に囁いた。


 「なぜ林大臣りんおおまえつきみはあれほどまでに冷静なのだ。全くもって警戒心もなく、堂々としていてむしろ清々しく見えるぞ」


 「おい、この期に及んでひるむなよ!」


 それを聞いた男が語気を強め睨んだ。


 しばらくすると、大極殿の傍らから数名の男達が雄たけびを上げながら飛び出したものの、皆、手足を震わせ動かない。見かねた一人の男が剣を振りかざし大声で叫んだ。そう、中臣鎌足なかとみのかまたりだ。


 「貴殿は天皇家に代わって天下を治めようとした不届き者だ!断じてあってはならぬ事!よって命を頂戴いたす!」


 林臣りんしんは表情一つ変えずに黙ったまま前を向いている。口元に微かに笑みを浮かべた時、刺客の一人が剣を振り上げ飛び掛かった。頭から肩にかけて斬りつけられた林臣りんしんが床に倒れこんだ。


 燈花とうか…やっとそなたの言う太平の世を見に行けそうだ…争いのない平和な世界…来世では、願わくば私を見つけて欲しい…また馬に乗り海を見に行こう…


 斬りつけられ、うずくまったまま動かなくなった林臣りんしんの手には、瑪瑙の石が固く握られていた。





   ファーンファーン、ファーン


 車のクラクションの音で我に返った。私は男性の手を借り立ち上がると、ガードレールにもたれかかった。男性が不安そうに私の顔を覗き込んでいる。


 「だ、大丈夫ですか?…」


 私が小さく頷くと、彼は話を続けた。


 「まぁ、千年以上前の古文書なので、真実かどうかわかりません。お伽話かもしれません。なんか、すみません余計な話をしてしまったみたいで…でも、不思議なのですがあなたに話すべきな気がして…」


 私は両手で胸を押さえた。今にも張り裂けそうだ。


 手紙を読み死ぬと分かっていながら、どうして三韓の儀に行ったのよ…なんて馬鹿な真似を…どうして、どうして…


   “燈花とうか様を愛していたからですよ”


 猪手いての声が耳元で聞こえた気がして顔を上げた。男性の後ろで、また袈裟を着た別の男性がこちらを見ていた。


 「おい、依手よりて、その石は他人に見せるものでも、ベラベラと話す内容でもないぞ」


 「あ、兄貴!気分はどう?もう大丈夫?」


 「まぁな…」


 笠の下から少しだけけだるそうな顔が見え、目が合った。


     …林臣りんしん


 驚きすぎて声が出なかった。姿、形、彼の生き写しの様だっだ。声も眼差しもすべて彼そのもの。私が食い入るように見つめると彼は軽く息を吐き、


 「弟が失礼を。すみません」


 と言い、私に頭を下げた。


 「兄貴が、茶屋で休んでいたから話をして時間を潰してたんだよ」


 弟らしき男性が口を尖らせた。


 「全く…では、失礼いたします」


 二人は軽く頭を下げたあと背を向け歩き始めた。


   林臣りんしん、行かないで…


 涙が溢れポロポロと頬を伝いアスファルトにこぼれた。


 「燈花とうか燈花とうか!!」


 姉が後ろから大声を上げてこちらに向かって駆けてくる。その瞬間、兄の方の足がピタリと止まった。



 燈花とうか?あの石に刻まれている名前と一緒だ…あぁ…また、幻覚が見える…数か月前から続くこれは一体なんなんだ…



 「兄貴、大丈夫かよ!どこかに座って休もう」


 「大丈夫だよ、早く橘寺に行かないと住職さんが待ってるだろう…」


 「でも、また変な幻覚を見てるんだろ?」


 二人がその場に立ち止まっていると、私達の後ろをバタバタと年配の男が小走りで通り過ぎた。男は二人の前に立つと、苦しそうに胸を押え、手に持っていた桃の枝の束を差し出した。


 「林身ひろおみくん、大事な桃の花を忘れてるよ、橘寺に飾るんだろ?」


 「あっ。すみません、ありがとうございます」


 年配の男は二人に桃の枝を手渡すと、首にかかった手ぬぐいで顔の汗ふき、ふぅ〜と言って来た道を戻って行った。


 男が去ると二人は再び歩き始めた。


    待って…行かないで…



   「林臣りんしん林臣りんしん!私よ、燈花とうかよ!」


 私が大声で叫ぶと、再び兄の方の足が止まった。




 今、彼女、林身りんしんと言った?なぜその呼び方を知ってるんだ。あの古文書を墓で見つけて以来、りんしんの呼び名が分かるようにと、曾じいちゃんも爺ちゃんも、親父も“林”の字を名前に入れている。林信ひろのぶ林真ひろまさ林辰ひろたつ

 この石は見つかってすぐに研究機関に調査に出された。何度か調べたがあのローマ字はまぎれもなく千年以上前に刻印されたものだった。古文書にも”燈花とうか”という名前が載ってた…まさか、彼女が?あぁ、また頭が痛む…でも何だろう…なにか思い出すべき事があるような…



兄の方が頭を両手で押さえてしゃがみ込むと、弟が再び背中をさすった。



    ザザァ…ザザァ…



  波の音?なぜだろう、海が見える…二人で浜辺に座って、君が隣で私を見ている…来世でも私がわかるかと尋ねたら、君が「わかる」と答えた…とてもはっきりと強い瞳で私を見て言ったんだ…そうだ…君は…



      …燈花とうか


 彼は静かに立ち上がると振り返った。その瞬間、温かな風が私達の間を通り抜け、無数の桃の花びらが飛んできた。



 空を舞う花びらの中に、私を見つめ微かに微笑む彼がいた。



 







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千燈花〜Eternal Love〜 橘 燈花 @Aya-san

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