【完結】棘のない薔薇(作品230327)

菊池昭仁

棘のない薔薇

第1話 花を売るレストラン

 都会のビルの森がオレンジ色に染まり、京浜東北線、JR赤羽駅の夕暮れには家路を急ぐサラリーマンやOL、学生たちで溢れていた。


 そんな赤羽駅の北口を進んで狭い路地を入ったところにイタリアンレストラン『ナポリの黄昏』はあった。


 店の常連たちはそのレストランテを親しみを込めて「黄昏」と呼んでいた。

 本格イタリアンと花を売る店。オーナーシェフの小室直哉は寡黙だが、温かい包容力を持った男だった。

 精悍な顔立ち、少し白髪の混じった髪。

 岩城滉一のような雰囲気を持った男だった。


 若い時は外資系ホテルのコックをしていたが、イタリア料理を本格的に学ぶためにナポリの二つ星レストランで10年間修業を重ね、帰国してこの店を始めた。開店してから今年で10年になる。

 彼の料理と人柄に惚れ、ファンも多かった。

 食事を終えた客の殆どは、その店で花を買って帰る。

 家族へ、恋人へ、そして自分のために。


 食事、本、花が一般的なプライオリティではあるが、本来の理想の優先順位は花、本、食事であるべきかもしれない。

 嬉しい時も悲しい時も、花は人生を彩ってくれるからだ。

 『ナポリの黄昏』はそんな「花を売るレストラン」だった。

 店はオーナーシェフの小室とコックの高島、そしてカメリエーラの加奈子の3人で営まれていた。

 高島は小太りの金髪で35歳、独身。腕は確かで様々な有名店やホテルから引抜きの話もあるが、どんなにいい待遇、条件でも高島はそれに乗ることはなかった。

 その理由は極めて単純だった。

 高島は店主の小室を尊敬していた。

 いつも陽気で明るい高島は店のムードメーカーだった。


 カメリエーラの加奈子はスタッフになって3年、以前は大手デパートに勤めていたが、上司との不倫が原因で職場を追われ、OL時代から通っていたこの店で働くことになった。

 現在、独身の28歳で彼氏はいない。

 密かに小室に恋心を寄せている。

 彼女は長い髪をアップにした美しい女性だった。接客は抜群で、花屋も彼女が担当していた。

 彼女の作る花束のセンスには定評があった。




 店の常連の遥が幼稚園児の娘、#紅葉__もみじ__#を連れてやって来た。


 「こんにちはー」

 「いらっしゃいませ。今日は紅葉ちゃんも一緒なんですね?」


 遥はいつものカウンター席に紅葉と並んで座った。


 この席からは厨房が見渡せて、小室や高島とも会話を楽しむことが出来た。

 高島がフライパンを振りながら遥に話し掛けてきた。


 「久しぶりですねえ、遥さん? 今日はプリンセスと一緒ですか?」

 「高島さんのヒラメのカルパチョが恋しくなっちゃったの。やっぱりここは落ち着くわねー? なんだか実家に帰って来たみたい」

 「おかえりなさいませ、女王様、王女様」


 そうおどけて見せる高島と、黙々と料理を作りながら横顔で微笑む小室。


 「幼稚園のお迎えの帰りなの、旦那は会社の飲み会。だから今日は主婦もお休み。手抜きしちゃった。

 私はレーベンブロイの生とヒラメのカルパチョを。娘にはカルボナーラとブラッディ・オレンジジュースをお願いします」


 紅葉は足をぶらつかせ、


 「ママー、紅葉、お腹ペコペコ」


 すると小室がグリッシーニの入った籠を紅葉の前に置いた。


 「これを齧って待っててね? おじさん、すぐに作るから」

 「ありがとう、小室のおじちゃん」

 「よかったね? 紅葉?」

 「うん、ママもどうぞ」


 紅葉は小室から貰ったグリッシーニを一本、小さな手で遥の口元へと運んだ。


 「ありがとう、紅葉」


 屈託のない紅葉の笑顔に遥は心が軋んだ。

 今日、遥は会社を有給で休み、1時間前まで冴島とホテルで男女の関係を楽しんだ後だったのだ。


 (ゴメンね、紅葉。悪いママで・・・)


 遥は心の中で母親としての不貞を紅葉に詫びた。


 だが、夫の光一郎に対しては不思議と罪悪感は無かった。

 遥は出口のないラビリンスの中に迷い込んでいた。


 冴島は取引先の総合商社の営業部長で妻子があり、最悪のダブル不倫だった。

 しかしながら今の遥にとって冴島は、無くてはならない存在になっていた。

 本当の自分をすべて曝け出すことのできる相手は冴島を置いて他にはいなかった。

 夫の光一郎にさえも。

 

 運ばれて来た冷えたビールが、冴島との行為に熱くなった体に滲みた。


第2話 突然の告白

 冴島は今までに付き合ったことのないタイプの男性だった。

 身のこなしがスマートで、スーツとネクタイの趣味がとても素敵だった。


 そして彼が最も優れていたのが、人の気持ちを読み取る能力だった。

 今思えば私の冴島に対する想いは、初めて出会った時から見透かされていたのかもしれない。

 



 冴島たちとの仕事の打ち合わせも終わり、会議室を出ようとした時、冴島から呼び止められた。



 「君島チーフ、今週の金曜日、お時間はありますか?

 実はウチの部で飲み会があるんですよ。

 いつも君島チーフにはお世話になっているので、そのお礼と言っては何ですが、いかがでしょう? 内輪の飲み会なんですが参加していただけませんか?

 新人の村井が君島チーフのファンでして、是非、君島チーフのカラオケをお聴きしたいと言うものですから。

 もちろん私も君島チーフのファンです。いかがでしょう?」

 「村井君も面白い子ですね? こんなおばさんとカラオケがしたいなんて」


 悪い気はしなかった。だが取引先との飲み会には気が引けた。


 「おばさんだなんてとんでもない、チーフはとても素敵な女性ですよ」

 「冴島さん、それってセクハラですよ。うふっ」

 「これは失礼。でも本当に美しいと思います、君島さんは」


 社内のつまらない飲み会には付き合いで仕方なく参加していたが、冴島たちに持ち上げられての飲み会は少し惹かれた。


 「じゃあ、ウチの綺麗どころも誘ってもいいですか? イケメン大好物なんです、私たち」

 「それはうれしいなあ。イケメンかどうかは別として、あいつらも喜ぶと思います。

 時間と場所については後日メールをさせていただきます。

 では、失礼いたします」




 帰り際のロッカールームで私は自分の引き立て役として、お局の早苗と部下の知子を誘うことにした。


 「今週の金曜日なんですけど、おふたりのご予定は?

 五菱商事の冴島部長さんから「部の飲み会があるのでどうですか?」ってお誘いがあったんですけど、参加しません?」


 案の定、すぐに知子が食い付いて来た。知子は村井に気があるからだ。


 「チーフ、村井君も来ます?」

 「来るそうよ」

 「私、村井君のことを前から狙っていたんですよ。商社マンのイケメン君だし。

 行きます行きます! 絶対に行きます!」


 そして早苗も、


 「しょうがないわねー、あなたたちだけでは不安でしょうから、このおばさんが引率係ということで付いていくしかなさそうね?」


 早苗はアラフォーではあるが、まだ結婚願望を捨ててはいない。

 かなり高額の婚活会社にも入会しているという噂だった。



 「ありがとうございます係長。

 冴島部長も喜ぶと思います」

 「でも本当にいいのかしら、こんなおばさんが参加しても?」

 「おばさんだなんて係長、どうします? お持ち帰りなんかされちゃったら?」

 「ないない、それはないわよ」


 (おばさんだからいいのよ)


 早苗も知子もやる気満々だった。





 一次会はスペインレストランだった。


 「いかがですか君島チーフ? ここのパエリアは最高でしょう?

 サフランが効いていて、僕、大好きなんですよここのパエリア。

 だから是非一度、君島さんにも食べていただきたくて。

 今日の幹事は僕から立候補しました!」


 村井君はジャニーズのようなカワイイ男の子だったが、私は年下には興味がなかった。


 「本当においしいわ、知ちゃん、美味しいわよね?」


 私は知子に村井君との会話を繋いであげた。


 「はい! すっごく美味しいですう!

 さすがは村井君、私、グルメな人大好き!」


 知子は人前ではぶりっ子キャラだが馬鹿ではない。

 横浜のお嬢様大学を優秀な成績で卒業した知子は、ウチに入社して来た強者だ。

 わざと男に付け入る隙を見せるテクニックには、かなり場慣れした感がある。


 早苗には冴島が付いていた。

 彼は早苗のご機嫌を取りながら、上手にエスコートしている。



 「そうなんですか? 江崎さんは帰国子女だったんですね?

 どうりで振る舞いが日本人離れしていると思っていました。

 アメリカはどちらに?」

 「父の仕事の関係で、小学生まではニューヨークにおりました。

 そして中学はウエストコーストのサンディエゴでしたので、私、日本語が少しおかしくありませんか?」

 「いいえ、とても綺麗な日本語ですよ。女子アナさんみたいに。

 私も2年ほどロスに駐在しておりましたので、サンディエゴにも行ったことがあります。

 軍港の街ですよね? 動物園も行ったかなあ? すごいスケールですよね、アメリカは」

 「懐かしいわあ、私もよく両親と出掛けました、サンディエゴ動物園。中学生でしたけどね? うふふ」


 タイプだった冴島におだてられ、早苗は会社にいる時とは違い、かなり饒舌だった。



 今日はとても気分の良い飲み会だった。

 私は久しぶりにお酒を飲んだせいか、少し酔いが早く回った。


 

 「では、宴もたけなわですが、これから渋谷でカラオケ大会になりますので、みなさんタクシーに乗り合わせてご移動をお願いしまーす」


 私たちはそれぞれタクシーに分乗した。

 

 「君島さーん、このタクシーにどうぞ」


 私は冴島と同じタクシーに乗った。



 「君島さん、おかげさまで今日はとても楽しい飲み会になりました。ありがとうございます。

 あなたとお酒が飲めるなんて最高ですよ」

 「いつもお上手ですね? 冴島部長さんは。

 そうやって、何人の女性を口説いたんですか?」

 「とんでもない。そんな風に見えますか? 私?

 これでも結構一途なんですけどね?」

 「そんな風には見えませんよ、プレイボーイにしか」



 タクシーがウインカーを出して、右に曲がろうとした時、私の体が冴島にしだれ掛かった。

 その時、私の耳元で冴島が囁いた。


 「君島さんのことが好きです」


 私は冴島に体を預けたまま、返す言葉を失っていた。


 (冴島さんは酔っているのよ、真剣に受け止めるなんてバカよ)


 私はもうひとりの自分にそう言い聞かせた。 


第3話 解錠された恋の扉

 カラオケはとても盛り上がった。

 私の番になり、村井君がマイクを渡してくれた。


 「君島さんの歌、楽しみです!」


 イントロが流れると、みんな歓喜した。

 曲目はMISIAの『逢いたくて、今』を選曲した。


 私の歌が始まった瞬間、大きなカラオケルームが水を打ったように鎮まり返った。

 私の艶のあるバラードにみんなが酔いしれた。

 うっすら涙さえ浮かべる女の子もいた。いい気分だった。



 曲が終わると、割れんばかりの拍手が沸き起こった。


 「凄い、凄すぎますよ君島さん!」


 村井君はかなり興奮した様子だったが、知子はそれをジェラシーを持って見ていた。


 (ちょっとくらい歌がうまいからって何よ、調子に乗っちゃて)


 そう言っているような目をしていた。

 私は気恥ずかしくなり、化粧を直すためトイレに立った。


 入念にメイクを整え、廊下に出ると冴島が待っていた。


 「素敵でしたよ、君島さん。

 惚れてしまいました」


 そして冴島は強引に私を抱き締めキスをした。

 ほんの数秒の出来事だった。

 私はそれに抗うことができなかった。

 冴島は身体を離すと私の耳元で囁いた。


 「ここを出て右に50mくらい行くと、地下に『オリオン』という名前のBARがあります。

 そこで待っています、ふたりだけで飲み直しましょう」


 私はコクリと頷いた。




 カラオケルームに戻ると冴島はマイクを握り、みんなに挨拶をしていた。


 「今日はみなさん、おつかれさまでした。

 私のような上司がいると本気で騒げないでしょうから、邪魔者はここで退散します。

 後は私の悪口で盛り上がって下さい。Have a nice weekend!」


 周囲からは歓声が上がり、村井君がそれに付け加えた。


 「みなさーん! 冴島部長より、多大なカンパをいただきました!

 部長、ありがとうございまーす!」


 拍手が湧きおこり、冴島は左手を挙げて部屋を出て行った。

 すぐに店を出ると怪しまれると思った私は、15分ほど遅れて店を出ることにした。


 「ごめんなさい、子供がいるので今日はこれで失礼します」

 「えっー、君島さん、帰っちゃうんですかー?」


 村井君はがっかりしていたが、知子と早苗はそれを歓迎していた。


 (そうよ、ママは早く帰りなさい、後は楽しくやるから)


 「村井くーん、いっしょに何か歌おうよー」


 知子は村井君の腕を取り、ステージへと向かった。


 「じゃあ係長、すみませんがお先に失礼します」

 「気を付けてね?」

 「はい、ではごゆっくり」




 オリオンというBARはすぐに見つかった。

 マホガニーで統一された店内には数組のカップルがしっとりと逢瀬を楽しんでいた。


 マイルス・デイビスが流れている。

 冴島はカウンターで何かのロックを飲んでいた。


 「ブラッディ・マリーを下さい」


 冴島が私に気付くと、


 「連中、まだ騒いでいましたか?

 若いっていいものです。私にもあんな時がありました」

 「みんな冴島さんのこと褒めてましたよ、人望がおありなんですね?」


 私は少しだけ冴島との間合いを詰めた。


 「君島さん、いや、今夜は遥さんとお呼びしてもいいですか?」

 「・・・どうぞ」

 「では遥さん、あなたのことを好きになってもいいですか?」

 「・・・私、人妻ですけど」


 私は冴島に結婚指輪を見せて微笑み、ブラッディ・マリーを口にした。

 それは「Yes」という意味だった。


 「私は今まで本気で女の人を愛したことがありません。

 学生時代は勉強とバイトの毎日で、会社に入ってからは仕事に夢中でしたから。

 妻とは上司の紹介で結婚しました。そして今、私は後悔しているんです。

 本気の恋愛をして来なかった自分に」

 「私はしましたよ、恋。

 でも、ある男性との破局が今でも本当のしあわせから私を遠ざけているんです。

 彼との別れが私の恋心に鍵を掛けてしまったまま。

 彼はその鍵をどこかに捨てて去って行きました。

 それ以来、私は本気で人を愛せない女になってしまったんです。

 だから私もある意味、冴島さんと同じかもしれません」

 「そうでしたか、それは今のご主人に対してもですか?」

 「主人のことは好きですよ。やさしくてイケメンで、とてもいい夫です。

 でもそれは愛じゃない。

 私は別れた彼に掛けられた魔法が今でも解けないままなんです」

 「私も恋と愛とは別だと思います。

 恋とは単なる憧れ、愛はすべてです。

 自分のすべてを投げ出せるのが愛だと思います。

 恋はするもので、愛は落ちるものですよね?

 私は遥さんに落ちてしまいました。

 本気の恋愛がしたいんです、遥さんと」


 そして冴島は遥の細い肩を抱いた。


 その夜、ふたりの倫理違反の恋の幕が上がった。


第4話 はじめての嘘

 ホテルの部屋に入ると、私たちは熱い口付けを交わした。


 「約束して、一度だけだと」

 「愛しているんだ。遥さんのことを」


 冴島は黙々と行為を続けた。


 紅葉を産んでから子育てと仕事、そして家事で私は疲れ果て、光一郎とのそれは月に一度、生理前の欲情が湧く時だけだった。


 アルコールで酔っていたこともあり、冴島との激しい情事は私の女を久しぶりに開花させた。



 「あっ、はう、うんっ、あ、は、は、は・・・」


 不思議なほどカラダの反応が止まらない。

 そして私はついに大声をあげ、彼は射精寸前に私から自分を抜き取ると、精液を私のお腹に放出した。

 冴島はティッシュでそれを丁寧に拭いてくれた。


 「今夜のことはもう忘れて下さいね」


 私はベッドで下着を着け、ヨロヨロと洗面所へと向かった。

 シャワーを浴びることは出来なかった。浮気が夫の光一郎にバレてしまうからだ。


 服を着て化粧を直し、私は髪を整えた。


 鏡には放心した自分が私を見ていた。


 (これは夢よ。現実に戻りなさい遥)


 鏡の自分はそう私に言っているようだった。



 


 午前零時過ぎ、自宅に帰ると光一郎はリビングでゲームに興じていた。



 「ごめんなさいね、遅くなっちゃって。

 もっと早く帰ろうと思ったんだけど、係長と知子に引き留められちゃって。

 シャワー、浴びて来るね?」

 「うん、わかったー」


 光一郎はコントローラーから手を放すこともせず、ゲームの画面に集中していた。

 それが救いでもあった。



 汚れた自分の下着が冴島との密会を思い出させた。

 激しい冴島とのセックスに体が今も熱い。

 遥は光一郎に気付かれないように、入念に身体を洗った。


 カラダ全体に滲み込んだ冴島の香りに遥は眩暈がしそうだった。

 光一郎のそれとは違う、大人の余裕のあるセックスに遥は翻弄された。

 


 バスルームから上がった遥は冷蔵庫から冷たい紅茶を取り出し、グラスに注ぐと光一郎の隣に座った。


 「面白いの?それ?」

 「うん、面白いよ。先の予測がまるで掴めないんだ。

 これからどう展開していくのか。

 あー、またダメだあ、どうしてもここから先に進めない」

 「ふーん、私はゲームはしないからわからないけど」

 「遥もやってみる?

 嫌な事なんか、すぐに忘れてしまうから」

 「あなたにも嫌な事なんてあるの?」

 「そりゃああるよ、不安も不信もね?」


 (不安と不信・・・)


 遥はその光一郎の言葉がまるで自分に浴びせられているかのように感じた。


 「明日早いから寝るね? 光ちゃんも早く寝たら?」

 「うん、あと少しやったら寝るよ、おやすみー」

 「おやすみなさい」



 ベッドに入いると光一郎に対する不貞行為に胸が痛み始めた。


 (一度だけ、一度だけの酔った勢いでの火遊びよ、もう会わなければそれでいいことだわ)


 私は自分にそう言い聞かせた。

 女の行動には、常に「それなら仕方がない」という大義名分が必要だ。自分を納得させるための言訳が。

 あれは「仕方のない出来事」だったと考えようとした。


 

 隣で寝ている紅葉の寝顔に詫びた。


 (ごめんね紅葉。あれは仕方のないことだったの、単なるお酒の席でのアクシデント。

 ママはずっと紅葉のママだからね)


 だが遥の心と体は完全に分離していた。

 もう会ってはいけないという想いと、会いたいと欲する体が自分の心の天秤を揺らし、狂わせていた。

 私はいつの間にか深い眠りに落ちて行った。



 

 ゲームを終えた光一郎が洗面所で歯を磨いていると、洗濯機に丸められた遥のやや派手なショーツが目に止まった。

 光一郎は何気なくそれを手に取ると、遥のあそこに当たる部分がぬるぬるとびしょ濡れになっていることに気づいた。

 光一郎は指でその感触を確かめると、その匂いを嗅いだ。


 そして光一郎は何事もなかったかのように洗濯機にそれを戻し、歯磨きを続けた。


第5話 形だけのお見合い

 私は光一郎と紅葉のいる生活に、何も不満はなかった。

 だがそれは安楽ではあるが、生き甲斐かと問われると素直に肯定することが出来なかった。


 多くの人間はしあわせとは安心だという。

 生活を保証された変化のない安定した毎日を幸福と置き換え、それを求めようとする。

 それはある意味「妥協の人生」ではないのだろうか?

 

 何不自由のない生活、あたたかい家族と生きる幸福。

 その「普通」の安定した生活を手に入れるために、多くを犠牲にするのが普通の生き方だ。


 私にとって本当のしあわせな人生とは、「自分を偽らない人生」だと思って生きて来た。

 そしてそれは、いつの間にか自分に言い訳をして生きる人生になってしまっていた。

 それに気付いてしまったのは、冴島との出会いだった。



 私は学生時代、結婚を約束した三歳年上の#聡__さとし__#という恋人がいた。


 北村 聡。

 彼は軽音楽サークルの先輩で、私は聡を兄のように慕っていた。


 私たちは聡の小さな1Kのアパートで同棲生活を始め、まるで新婚夫婦のように過ごしていた。


 ミニテーブルを壁に寄せ、ひとり用の布団を敷いてふたりで寝た。



 「必ず迎えに来るからな、遥が大学を卒業したら結婚しよう」

 「うん」


 幸せだった。何もないこの小さなアパートには、ふたりの愛がたくさん詰まっていた。


 

 大学を卒業した聡は地元に戻り、県議会議員の父親のコネで市役所に就職した。

 聡はやがて父親の跡を継いで代議士になることが決められていた。


 就職してからは実家暮らしだった聡は、週末には遥の部屋で過ごすのが定番になっていた。

 ふたりの結婚は揺るぎないものになりつつあった。



 そんなある日のこと、聡は父親から見合いを勧められた。



 「実は大山先生から、是非お前を婿にと言われてな、今回の就職の件も大山先生のご尽力によるものだ。

 お前には遥さんがいることは十分承知している、形だけでいいんだ、形だけで。

 すまんが俺の顔を立ててくれんか? 心配することはない、先生のお嬢さんの#瑞希__みずき__#さんに嫌われればいい話だ」


 聡は一瞬戸惑ったが、見合いを受けることにした。

 父親の政治家としての立場に配慮したのだ。


 「親父、形だけだぜ」

 「ああ、それでいい形だけで。ありがとう、聡」


 聡は軽い気持ちでそれを承諾してしまった。



 

 地元の老舗料亭で行われたその見合いは、見合いというよりも政治家と業者の談合のようだった。

 大臣経験のある大山光三は、大広間が揺れるほど大きな声で豪快に笑っていた。



 「聡君、久しぶりじゃのう。どうだ、役所の仕事には慣れたかね?

 嫌な事があったらいつでもワシにいいなさい、わかったね? わっはっはっ!」


 瑞希は自信に満ち溢れた華やかな女性だった。

 青い振袖姿がより一層透けるような白い細面を引き立てている。


 「ごめんなさいね、うるさいでしょ? 父の声。

 いっつもこうなのよ、鼓膜が破れそう」


 そう言って瑞希も笑っていたが、この親子は似ているなと聡は思った。

 

 大物政治家の娘だけあって、瑞希には銀座のクラブママのような凛とした威厳があった。

 ガマ親分のような父親とは反対に、元女優だった母親の美貌を受け継いだ瑞希は、宝塚女優のように美しかった。



 「さて飯も食ったことだし、瑞希、あとは聡君と散歩でもしておいで。

 パパたちはお前たちの邪魔はしないからな、わっはっはっ!」




 聡と瑞希は料亭の庭を散策した。

 池のろ過ポンプと水の音が聡の沈黙を助けてくれていた。



 「聡さん、彼女、いるんでしょ?

 イケメンでやさしそうだもん」



 瑞希は鮮やかな振り袖姿のまま、裾を気にしながら聡の後ろをついて歩いた。



 「実は大学時代から付き合っている彼女がいます。

 すみません、瑞希さんには嘘は吐けないので。

 実は来年、彼女の卒業を待って結婚するつもりなんです。

 それに瑞希さんのような美人で聡明な方と僕では不釣り合いですよ。

 すみませんが、瑞希さんの方からお断りしていただけませんか?」


 瑞希は空を見上げて笑った。


 「聡さんて正直な人ね? 私、そういうところ、嫌いじゃないわ。

 でもね、普通はそこをうまく躱さないと。あなたもいずれはお父様の地盤を引き継いで政治家になるんだから。

 嘘はだめ、どうせバレるから。

 でも偽るのはいいのよ、偽るって「人の為」って書くでしょ?」

 

 瑞希ははにかむように笑った。


 「私にとってはパパの政略結婚のようなものだから気にしないで」

 「ありがとうございます」

 「でもね、ひとつお願いがあるの、聞いてくれる?」

 「僕に出来ることなら」

 「簡単なことよ。これからふたりでドライブしない? 着物、疲れちゃった。

 着替えてくるから海にドライブに行きましょうよ、ねえ、いいでしょう?」


 聡は安心した。

 ドライブくらいなら遥も許してくれるだろうと思ったからだ。


 「いいですよ、じゃあお迎えにいきます」

 「ううん、私が迎えに行くわ、私、運転するの大好きだから」



 気怠い午後の日差しが日本庭園に差し込んでいた。

 聡はこの時、それが瑞希の仕掛けた巧妙な罠だとは微塵も気付かなかった。


第6話 後悔の海

 「おまちどうさまー、さあ乗って!」


 瑞希は真っ赤なポルシェのパワーウインドウを下げ、聡を助手席へと招いた。


 

 「初めてですよ、こんなすごいクルマに乗ったのは」

 「大袈裟ね? 普通のクルマよ、エンジンとハンドル、そしてタイヤの付いたク、ル、マ。

 ただちょっと速いだけ、普通のクルマよりはね」


 スピードメーターには300km/hと記されている。 

 国産車の場合、200kmになるとリミッターが作動してそれ以上は出せないと聞いたことがあるが、このクルマはどうなのだろう? 

 瑞希は滑らかな運転で市内を抜けると、高速道路のインターへと入って行った。


 ETCのゲートが開くと瑞希の表情は一変し、ポルシェは急加速してカラダがシートに押し付けられた。

 スピードメーターはすでに180キロを超えていた。


 「そんなに飛ばして大丈夫?」

 「平気よ、スピード違反で捕まることはないから。

 このクルマは父の緊急車両として登録されているのよ。だから警察は見逃すしかないの」


 瑞希はハンドルを握ったまま、そう言って横顔で笑った。


 「私のストレス解消はね、ドライブともうひとつ・・・」

 「もうひとつって?」

 「それは後でのお楽しみ」


 

 瑞希は更にアクセルを強く踏み込んだ。

 センターラインがポルシェに吸い込まれていくように、爽快にハイウェイを駆け抜けて行く。

 そしていくつかのトンネルを抜けると風が変わった。

 海が見えて来た。




 夕暮れの海は人も疎らだった。


 「ねえ、お散歩しない?」



 瑞希はスニーカーを脱ぎ、裸足で砂浜を駆けて行った。

 ジーンズにパーカーの瑞希は、夕日に照らされて聡を手招きした。


 瑞希はそのまま寄せては返す波と戯れていた。

 聡はその光景をただぼんやりと眺めていた。


 (今頃、遥はどうしているだろうか?)



 やがて瑞希はそれに飽きるとテトラポットの聡の隣に座った。


 「海は好き?」

 「うん、見ていて飽きないよ、一瞬一瞬で表情が変わっていくから。

 まるで生きているみたいだ」

 「私も大好き。嫌な事や悲しい事があるといつもこの海にやって来るのよ。

 ねえ、泳がない?」

 「泳がないってもう秋だよ、夏じゃあるまいし」


 聡はそれが瑞希の冗談だと思っていた。


 「常識的な男てつまんないなあ」


 すると瑞希は海に向かって猛ダッシュして、服を着たまま海にダイブした。

 聡は茫然とした。


 聡は慌てて瑞希の後を追い、ずぶ濡れになった瑞希の手を引こうとした。


 瑞希はそれを待っていたかのように、聡を海に引き摺り込んだ。


 瑞希は自分と同じように海水に濡れた聡を見て大声で笑った。

 そんな瑞希の顔は、沈みゆく夕日に美しく輝いていた。



 「服、濡れちゃったね? ねえ、服を乾かさないと風邪を引いちゃうわね?」



 瑞希はクルマをモーテルへ入れた。

 聡は早く服を乾かして、ここを出なければと考えていた。




 「なんだか少しカビ臭い部屋ね?」

 「ラブホなんてこんなもんだよ」


 聡は興奮することはなかった。本当に服を乾かすだけだと単純に思っていたからだ。

 それが瑞希の策略だとも知らずに。



 「じゃあお風呂に入って来るね、聡も一緒にどう?」

 「遠慮しておくよ、ゆっくり暖まっておいでよ」


 

 瑞希がバスルームへ向かうと、聡は濡れた服を脱ぎ、軽く水洗いをするとドライヤーを当てた。

 脱衣籠に瑞希の濡れたパステルピンクのショーツが見えた。



 エアコンの近くの椅子に自分の服を掛け、バスローブを着てテレビを点けた。

 丁度夕方の情報番組が流れ、女子アナがニュース原稿を読んでいた。



 瑞希がバスタオルを巻いてバスルームから出て来た。


 「聡もどうぞ」

 「ありがとう」


 と、聡がソファを立ち上がったその時、瑞希は聡にキスをしてきた。

 そして瑞希は何事もなかったように冷蔵庫から缶ビールを取り出してそれを飲んだ。


 「ああー、お風呂上りのビールは格別ね?」


 聡は風呂場へ行った。

 瑞希のキスで聡の股間は既に張りつめてしまっていた。

 聡は浴槽に浸かりそれを鎮めようと、遥の悲し気な表情を思い浮かべようとした。

 


 風呂から上がると、艶めかしい喘ぎ声が聞こえていた。

 瑞希がアダルトビデオを観ていたのだ。


 「この女優の感じ方、モロ演技よね? 

 聡もそう思うでしょ?」

 「そうかなあ? そんなもんじゃないの?」


 聡は敢えて冷静さを装った。


 「ぜったいにフェイクだって、本当はこんなもんじゃないわよ。

 ねえ、試してみる? 私とホントのセックスを。ふふふ」

 「・・・」

 「さっき言ったでしょ? もうひとつの私のストレス解消がセックスなの。

 さあ聡、私を抱いて滅茶苦茶にして。

 今日だけ、今日だけでいいの。そうしたらあなたを諦めてあげる。

 お願い、一度でいい、一度でいいから私を抱いて」


 聡の心は揺れた。

 聡も若く、漲る性欲のある男だ。

 ましてや瑞希は女優のように美しい。

 しかもこのお嬢さんは大山先生の娘、断れば何をされるかわからない。


 (だが遥はどうする? 俺を信じてくれている遥は? 

 一度だけ、一度だけじゃないか? 黙っていれば遥は傷つことはない)


 聡はそう自分に都合のいいように解釈した。

 瑞希はバスタオルを脱ぎ捨てるとベッドの中に入り、聡を誘った。


 「早くこっちに来て私を温めて」


 その夜、聡は瑞希を抱いてしまった。

 



 聡は行為を終えると現実に引き戻され、後悔の海を漂っていた。

 だが瑞希は心の中で笑っていた。


 (聡、私を誰だと思っているの?

 私はマムシと言われたあの大山光三の娘なのよ。

 欲しい物は必ず手に入れる、どんな手段を使ってもね?)


 聡は熱いシャワーを浴びた。

 瑞希の温もりと香りを早く消すために。


第7話 過ちの代償

 瑞希との密会から2か月が過ぎた。


 あの日以来、瑞希からの連絡はなかった。

 瑞希の方から交際を断ってくれたおかげで大山先生からの圧力はなかった。


 「すまんなー、聡君。

 ワシは君が瑞希の婿になってくれたらと思っておったんじゃが、実に残念じゃ。許してくれ、この通りじゃ」


 そう言って大山は聡に頭を下げた。


 「とんでもありません大山先生。頭をお上げ下さい。

 私ではとてもお嬢さんとは釣り合いません。

 こちらこそ瑞希さんのお眼鏡に叶わず、申し訳ありませんでした」


 聡はすっかり瑞希のことを忘れかけていた。

 そんな時、聡は瑞希から突然呼び出された。



 「聡、どうしよう、大変な事になっちゃった」

 「どうしたの? 大変なことって?」

 「それは会ってから話すわ」


 そう言うと、瑞希は一方的に携帯を切ってしまった。



 (どうせお嬢様の退屈凌ぎだろう)



 聡はあまり深刻には考えなかった。



 

 待ち合わせは地元の小さなビストロを指定された。

 聡が5分ほど遅れて店に到着すると瑞希はすでに店に着いており、苛立つように言い放った。


 「信じられない! 大事な話なのに5分も遅刻して来るなんて!」

 「ごめん、打合せが長引いてしまって・・・」


 

 外は冷たいみぞれ雨が降っていた。

 聡はハンカチを取出すと、雨に濡れた髪や背広の肩口を拭いた。


 「ところで大変なことって何?」

 「それは食事をしながら話すわ」


 瑞希は不機嫌そうにウエイターを呼んだ。


 「始めて頂戴」

 「かしこまりました」



 グラスワインとルイボスティーが運ばれて、聡の前にはグラスワインが置かれた。


 「瑞希さんはワイン、飲まないの?」

 「私、お酒は飲んじゃだめなの」

 「どこか体でも悪いの?」


 すると瑞希は急に満面の笑顔になり、


 「私、妊娠したの、あの時のあなたの子供よ。

 2か月ですって。

 間違いないわ、今日、産婦人科に行って診察を受けて来たの。

 私、産むわよ絶対に。

 でも心配しないで、聡に結婚してなんて言わないから。

 シングルマザーとしてこの子を育てていくつもり」


 瑞希はそう言ってお腹を摩ってみせた。


 「ねえいいでしょ、産んでも?

 私と聡の赤ちゃんよ、かわいいに決まっているわ。

 まだ性別はわからないけど、どっちでもいいの、男の子でも女の子でも。

 楽しみだなあ、私たちの赤ちゃん」


 瑞希はあえて「私たちの」を強調した。


 

 聡は眩暈がしそうだった。

 一瞬にして時が止まった。


 

 「だってあの日、大丈夫な日だからそのままって・・・」

 「安全日だと思ったんだけどそうじゃなかったみたい。

 しっかり命中したんだね? 女の子のカラダって不思議。ふふふっ」


 (あなたはホントにおめでたい人だわ。

 あの日はしっかりと排卵日に合わせたのよ、欲しい物はどんな手を使ってでも獲る。

 それが大山家の家訓なの)



 「あーあ、なんだか聡に話したら安心して急にお腹が空いちゃった。

 さあ食べましょう、冷めないうちに。

 私はふたり分食べなきゃ、うふっ

 悪阻になる前にたくさん食べなきゃ。ねっ? 聡パパ。

 あはははは」


 瑞希はナイフとフォークを嬉しそうに動かして肉を口に入れた。


 聡は完全に食欲を失った。

 聡はウエイターを呼んだ。


 「すみません、ワインをボトルで下さい」


 みぞれはいつの間にか雪に変わっていた。


第8話 突き抜ける悲しみ

 金曜日の夜、聡はいつものように遥のアパートに向かった。

 だが、今日の聡の足取りは鉛のように重かった。



 聡は駅前のケーキ屋で遥の好物のニューヨークスタイルのレアチーズケーキを買った。




 聡はいつものように遥から渡されている合鍵でドアを開けた。

 遥は聡の足音を聞き付け、すでに狭い玄関で両手を広げて聡を待っていた。


 「お帰り聡! すっんっごく会いたかったよ!」


 遥は聡に抱き付き熱いキスをした。



 「ご飯出来てるけど先にお風呂にする?

 私はもう先に入って、ほらね、聡のお気に入りのピンクのフリルパンツだよ」


 そう言って、遥は笑ってスカートをたくし上げて見せた。

 いつもならすぐに遥に抱き付いてくるはずの聡は冷静だった。



 「これ、遥の好きな駅前の店のレアチーズ」

 「わあ、ありがとう!

 丁度食べたいと思ってたんだ、以心伝心だね?」


 聡はそのままテーブルの前に座った。


 テーブルの上には聡の好きなカツオの刺身と鶏の唐揚げが用意されていた。



 「ビール? それともワインにする?」

 「じゃあビールを貰おうかな?」


 遥は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し缶ビールを開け、聡のグラスに注いだ。


 「洗うの面倒だから私はこのままでいいや、それじゃ今日もお仕事お疲れ様でした、かんぱーい!

 どれどれ、ケーキちゃんはどんなカンジかな?」


 遥はケーキの包みを開けた。


 「わあー、美味しそうー。

 ではちょっとだけお味見を」


 遥はケーキに添えられたプラスチックのスプーンでそれを少し口にした。


 「うーん最高! 聡も食べてみる?」

  

 聡は首を横に振った。


 「どうしたの? 元気がないみたいだけど何か嫌な事でもあった?」


 「遥、落ち着いて聞いて欲しいことがあるんだ」

 「何よ、そんな改まって」

 「結婚できなくなったんだ、遥と・・・」


 遥からさっきまでの笑顔が一瞬で消えた。


 「嘘でしょ? 何? エイプリルフールはまだ先だよ?」

 「子供が出来たんだ」

 「誰の?」

 「僕の子供だ」

 「誰との?」

 「政治家の大山光三の娘との・・・」

 

 その瞬間、遥は目の前のケーキを鷲掴みにすると聡の顔や頭にそれをゆっくりと塗り付けた。

 聡は抵抗しなかった。



 「どう? 美味しい? 私のお気に入りのレアケーキ。

 子供が出来たですって?

 私とはあんなに気をつけていたのに?

 良かった? その子とのセックス?

 中にするくらいだからよっぽど素敵な女なんでしょうね?

 どんなふうにしたの? 言いなさいよ、ほら早く」


 遥は今度は飲みかけの缶ビールを掴むと聡の頭にそれを注いだ。

 ビールが聡の髪に音を立てて滲み込んでゆき、聡の顔を濡らした。


 「ごめん、遥・・・」


 聡は背広の内ポケットから100万円の入った茶封筒をテーブルの上に置いた。

 それは父親から渡された手切れ金だった。



 遥は封筒から札束を取出し帯封を切ると、思い切り聡の顔にそれを投げつけた。

 紙幣が部屋に散らばった。



 「馬鹿にしないで!

 私はこんな安い女じゃないわ!」



 そして遥は台所にあった果物ナイフを自分の喉元に当てた。

 聡はあわててそれを止めようとした。


 「やめろ、遥!」


 刃先が少しだけ遥の喉元に触れ、一筋の赤い糸のように血が遥の白い胸元に流れていった。



 「来ないで! 来たら死ぬから!

 私がどれだけ聡を愛していたか、今から証明してあげるからよく見ていなさい!

 毎日毎日、聡の事ばっかり考えてた! コンビニであなたの好きなエビマヨのおにぎりを見たり、街であなたと同じコートの人を見掛けるだけで胸が熱くなった。

 子供が出来たから別れてくれですって?

 おまけにお金まで付けて・・・。

 これ、手切れ金のつもりなの?

 聡、教えてよ、これから私、どうやって生きていけばいいの?

 こんなにも聡を愛してしまったこの私は?

 さあ教えてよ! 私はこれからどうやって生きていけばいいのか!

 黙ってないで答えなさいよ! 今すぐに!」


 遥はナイフを床に落とし、その場に泣き崩れた。

 聡はそんな遥を抱き締めようとした。



 「近寄らないで! そんな女を抱いた汚れた手で私に触らないで!

 今すぐ消えて! 私の前から今すぐに!

 顔も見たくない! 二度とここに来ないで! 出て行って! 早く!」



 遥は玄関に聡を追いやりドアを開け、聡を外へ突き飛ばした。

 そして聡の靴を投げつけ玄関の鍵を掛けた。



 聡はズボンのポケットから合鍵の付いたキーホルダーを取り出すと、ドアポストにそれを投じた。

 鍵がポストに落ちた冷たい金属音がした。

 それが聡と遥の恋の終わりを告げた。


 部屋の中から泣き叫ぶ遥の声が聞こえていた。

 聡はその声が小さくなって消えるまで、放心したままそこに立ち竦んでいた。


 とても寒く長い夜だった。


第9話 新たな恋

 聡と衝撃的な別れをした私の絶望は続いていた。


 この一週間というもの、私はワンルームのマンションから一歩も外へは出なかった。

 正確には出られなかったという方が正しい。


 私には生きている実感がなかった。

 部屋はあの時のまま。


 ケーキも、そして聡の好物の鰹の刺身も鶏の唐揚げも腐敗し、悪臭を放っていた。

 ビールもホットカーペットに零れ、シミを残して蒸発していた。

 

 聡に渡された手切れ金も部屋に散乱したままだった。

 私はそれを拾おうともせず、そのお金を呆然と眺めていた。


 (私の聡への愛はたった100万円だったの?)



 毎日毎晩、私は泣いた。

 聡の言葉が頭から離れなかった。

 目を腫らし髪もボサボサ、風呂にも入らず女であることも忘れていた。

 それほど聡との別れは辛く悲しいものだった。




 親友の里美も両親も、私を心配して何度もLINEや携帯を掛けて来たが、


 「大丈夫だよ」


 としか返信をせず、携帯にも出なかった。




 そんな週末、里美と両親が遥を心配してマンションにやって来た。

 里美も両親もドアを開けて愕然としていた。


 「なにこれ!」

 「どうしたの遙・・・」


 部屋は様々な腐敗臭が充満し、蠅やゴキブリが残飯に集っていた。

 点けっぱなしのテレビでは関西のお笑い芸人が何が面白いのか、体をくねらせ大声で笑っていた。

 私はまるで死人のようにぽつんと座ったままだった。



 里美と両親は泣きながら締め切ったカーテンを開け、窓を開け放った。

 土曜日の朝の陽射しが遥の部屋を一週間ぶりに照らした。

 ボーっとしたままの遥をそのままにして、3人はまるで災害救助隊のように部屋を片付け始めた。



 

 お昼過ぎになり、ようやく部屋は元の状態まで復旧した。

 里美はバスに湯を入れ、


 「遥、お風呂に入って来なよ、お湯、入れといたからさ」

 「ありがとう・・・。でも、いいよ、まだ」


 母が言った。


 「お風呂に入ってさっぱりしていらっしゃい、折角里美ちゃんがお風呂の準備をしてくれたんだから」


 それでも私が動こうとしないと里美が叫んだ。



 「何よ! たかが男にフラれたくらいでそんな死にそうな顔して!

 あんたバカじゃないの!

 遥、あんたもう忘れたの? 私が賢二に浮気されて別れた時、私に何て言ったか?

 「あんな男、付き合ったってしょうがないよ、次行こう、次」って言ったじゃない!

 それなのに自分はどうなのよ!

 そんなにやつれて! そんな遥なんか見たくない!」


 里美は私を抱き締めて号泣した。

 父も母も泣いていた。


 「ごめんね里美、でもホントに好きだったの、聡のこと・・・」


 ふたりは抱き合ったまま、思い切り泣いた。


 

 母が私の背中を摩ってくれた。

 私はゆっくりと立ち上がった。


 「お風呂、入って来る」


 遥の父親はタバコに火を点けると、


 「よし、じゃあ今日はみんなで焼肉でも食いに行くか?

 ビールでも飲んで」

 「おじさんそれ賛成。行こうよ焼肉!」


 里美は泣きながら必死に笑顔を作ろうとした。

 私は脱衣場へと入って行った。




 それから1か月が過ぎた。

 私は少しずつ日常を取り戻してはいたが、傷心はまだ癒えなかった。

 

 久しぶりに大学の軽音楽サークルの練習に顔を出した。

 放課後の西日の入る教室で、同級生の君島光一郎がコルネットを磨いていた。

 私に気付くと光一郎が声を掛けてきた。



 「遥、来週の金曜日、ブルーノート東京にマンハッタン・ジャズ・オーケストラが来るんだけど一緒にどう?」

 「それってデートのお誘いってこと?」

 「そうとも言う」

 「・・・いいよ、どうせヒマだし」

 

 私は軽い気持ちで光一郎の誘いに乗った。


 光一郎は身近な存在だったせいか、男を意識したことはなかった。

 やさしくてインテリ・イケメンの光一郎は、女子たちからも人気があった。


 神様は傷付いた私のために、新しい恋を用意してくれたらしい。 

 



第10話 告白

 渋谷のブルーノートは熱狂していた。


 凄まじいブラスのスウィングに絡みつく木管楽器の旋律。それを鼓舞するかのようなダイナミックなパーカッション。

 私は本場のスウィング・ジャズに魅了され、生命エネルギーが漲るようだった。


 

  

 ホテルのスカイレストランでの光一郎との食事の最中も、私の興奮は収まらなかった。


 「凄かったわよねえー、日本人の感性ではあそこまでジャズに溶け込むことは出来ないわ。完全にステージと聴衆がひとつだった。

 ありがとう光一郎、誘ってくれて」

 「良かった、遥が喜んでくれて」


 軽音楽サークルでは光一郎はコルネットを、私はボーカルを担当していた。

 光一郎は聡の後輩で、聡のことは彼もよく知っていた。



 「北村さんのこと、聞いたよ。

 大変だったね?」


 私は一旦食事を中断し、ワインに手を伸ばした。

 遠くにはレインボーブリッジが見えていた。


 「もしかして私、同情されている?」

 「同情なんかしないよ。ただ今回のことで僕にもチャンスが訪れたとは思っているけどね?

 僕はずっと前から遥のことが好きだったんだ、僕と付き合って欲しい」



 光一郎の突然の告白に驚き、戸惑った。

 私にとって光一郎は仲のいい男友だちという感覚で、聡と付き合っていたということもあり、彼には特段に異性としての認識が及ばなかったからだ。


 「ダメかな? 僕じゃ?」


 私はワインを飲み、食事を再開した。


 「私ね、大学を卒業したら聡と結婚することになっていたの。

 すごく好きだった、聡のことが。

 でもその夢は消えたわ。

 だから今は「恋愛喪中」なのよ、まだ誰も好きになれない。ごめんなさい」


 光一郎は黙っていた。


 「そりゃあ浮気する方が悪いわよ、でもね、浮気される方は馬鹿。

 だって浮気されるくらい自分に魅力がなかったっていうことでしょう?

 浮気をさせないようにするのが賢い女よ」

 「そんなことはない! 遥は間違っていない! 絶対に先輩が悪いよ!」


 意外だった。いつも冷静な光一郎がムキになっている。


 「ありがとう、じゃあさっきの話は訂正するわ、私よりも彼の彼女の方が勝っていたということよ。

 私は負けたの。

 どちらにしても私は彼に捨てられた中古品。ボロボロのね?」


 私は残りのワインを一気に飲み干した。


 「そんな私でもいいの? バージンじゃない私でも?」

 「そんなの関係ないよ、遥は遥じゃないか!

 僕にはずっと遥を愛し続ける自信がある! だから遥の心の波が穏やかになるまで僕は待つよ。いつまでも」

 「私がおばさんになっても待てる?」

 「待つよ、遥がおばさんだろうとお婆さんになろうとも、僕は遥のことがずっと好きだ!」


 悪い気はしなかった。

 そんなに自分を慕ってくれる光一郎に私の心は揺れた。



 「光一郎は浮気はしない?」

 「しないよ絶対に!」

 「絶対に? 私を捨てたりしない?」

 「絶対にしない!」

 「本当かしら? 証拠は? 証拠を見せてよ」

 「ここにはないよ」

 「ここにはない? じゃあどこにあるのよ?」

 「今はここにはないよ、いや、ここでは見せられない」

 「変な光一郎。ねえ、もう少し強いお酒が飲みたい」



 

 私と光一郎はホテルのバーラウンジへ移動した。


 「ミモザを」

 「僕はソルティドッグをお願いします」

 「かしこまりました」


 バーテンダーは40歳代くらいの女性だった。

 男性のような力強さはなかったが、優雅さと気品に溢れた所作だった。



 「光一郎は彼女はいないの?」

 「いたら遥にコクったりしないよ」

 「光一郎は女の人を死ぬほど好きになったことってあるの?」

 「あるよ」

 「いつ?」

 「今」

 「ばか・・・。

 でもそんなバカな男って好き」


 私は光一郎の頬にキスをした。


 「僕はずっと遥が好きだったんだ。ダメかい? 僕じゃ?」

 「抱きたいの? 私を?」

 「・・・」

 


 私はミモザを飲み終えると、新しいカクテルを注文した。


 「すみません、between the sheets を下さい」


 それは「今夜、抱かれてもいいわよ」という意味のカクテルだった。 


第11話 午前零時 恋が始まる

 「私とやりたい? いいわよ、抱かれてあげても」


 光一郎は何も答えなかった。


 「どうしたの? やるのやらないの?」


 私は苛立つように光一郎に詰め寄った。すると、


 「愛のないセックスなんてしたくないよ」


 光一郎は誰に言う訳でもなくそう呟いた。

 私は溜息を吐いてカクテルを口にした。



 「愛かあ? 懐かしい言葉ね。

 よく愛は永遠だとか、愛こそすべてなんて言うじゃない?

 そんなの全部嘘よ。

 愛なんて信じちゃダメ。

 私、気付いちゃったの。愛は空に浮かぶ雲みたいなものよ。

 常に形を変え、流され、そして儚く消えてゆく物。

 そんな物に拘る光一郎はバカよ、中学生じゃあるまいし。

 愛のあるセックスじゃなきゃ駄目だなんて、笑わせないでよ」


 光一郎は静かに言った。


 「遥の言う通りだよ、愛は儚くて脆くて、気を抜くとすぐに消えてしまうものかもしれない。

 だから尊いんじゃないか?、崇高なんじゃないか?

 愛は生きている、だからこそ大切にふたりで育てるものじゃないのか?

 僕はロマンチストな理想主義者かもしれないが、セックスは恋愛の延長線上にあるべきだと思うんだ」

 「じゃあ教えてよ、どうしたら愛は成長し、生き続けるのか?

 私は一生懸命愛を育てようとしたわ、でもダメだった。

 女と浮気されて子供まで作って、私は惨めに捨てられて愛は消えたわ。

 せめてもの救いはその愛が憎しみに変わらなかったことだけ。

 今でも好きよ、聡のことが。

 そんな私をあなたは愛することが出来るの?

 あなたは愛は育てるものだって言ったわよね?

 私がその気にならなければ愛は育たない、愛は生まれやしないわ。

 だって愛って子供と同じでしょ?

 男と女がいないと愛は生まれないわ」


 私は泣けてきた。

 聡との愛を育てることが出来なかった自分に。


 「遥が僕を見てくれるまで、好きになってくれるまで待つよ。

 すべては好きから始まるだろう?

 それが恋になり、そして愛に進化して行く。

 恋はお互いに求め合う物だが愛は違う。

 愛は持ち寄るものなんだ。捧げあうものなんだ。

 愛はお互いを思い遣る心だと僕は思う。

 だからその時まで僕は遥を待つよ、恋が愛に変わるまで」

 「そんなの待ってたらセピア色の写真みたいになっちゃうわよ私たち」


 私は残ったカクテルを一息で飲み干し、席を立った。


 「さあ、やるわよ、SEX。

 試してみましょうよ、果たして恋が愛に変わる可能性があるかどうか?」


 光一郎も席を立った。




 ホテルの窓からはライトアップされた東京タワーが見えていた。

 私はそのままソファに座り、夜景を眺めていた。


 「間もなく午前零時。 

 東京タワーのイルミネーションって、本当に午前零時に消えるのかしら?」

 「そうらしいね? 僕も実際には見た事がないけど。

 友だちと騒いだ帰りには、いつも照明は消えているから」

 「ねえ、本当に消えるか確かめてみましょうよ、今、23時58分よ」


 私は携帯のアラームを午前零時にセットした。

 無言のまま東京タワーを見詰める私と光一郎。

 そしてアラームが鳴り、同時に東京タワーの明かりは消えた。

 航空灯の光だけが点滅を続けていた。


 私は光一郎にキスをした。

 蕩けるような甘い口づけに、光一郎は夢中で応じた。


 (本当はやりたかったくせに)


 「まさか光一郎・・・、童貞だったりして? うふっ」


 私は光一郎の耳元でそう囁いた。

 光一郎はぎこちない手つきで服の上から遥の胸に触れた。


 「焦らないで、私が教えてあげる」



 光一郎は童貞だと思う。

 この手のタイプは知識はあるが実戦経験は無いか、例えあったとしても乏しいはずだ。


 私は光一郎から体を離し、自ら服を脱ぎ捨て全裸になった。

 照明を落とした室内のガラス窓には私の裸体が揺れていた。



 「光一郎も脱いで」


 そして光一郎が服を脱ぐと、彼のペニスははち切れんばかりに膨張し、反り返っていた。

 私は股間の前に跪き、それに手を添え口に含んだ。

 リズミカルに顔を動かし、手を使ってそれをアシストした。



 「出そうだよ、遥」

 

 私は行為を続けたまま頷いた。そのまま出してもいいと。

 すでにその覚悟は出来ていた。

 そして更に光一郎を弄ぶかのように強く、その動きを加速した。



 「遥ごめん! 出る!」

 

 光一郎は小さく呻き声をあげると、私の口の中に射精をした。

 私は動きを止め、彼の精液が出し尽くされるのをじっと待った。

 そのまま飲んであげようかとも考えたが辞めた。


 私はそれを口から溢さないようにと足早にパウダールームに駆け込み、洗面台に光一郎のザーメンを吐き出し何度も口を濯いだ。

   

 鏡に映る自分に向かって私は問いかけた。


 「この恋が愛に変わると思う?」


 鏡の中にいる私は無言のままだった。

 

 ふたりの恋が始まった。

 午前零時の夜に。


第12話 遥の忘れ物

 その日を境にして光一郎との付き合いが始まった。

 最初はほんの気晴らしのつもりだったが、光一郎のピュアな想いが私の心を次第に開いていった。


 「ねえ、今日は何が食べたい?」

 「カレーがいいな、遥のカレーライス、旨いから」

 「でもね、あのカレーを作るには5日は掛かるから今日は無理だよ」

 「じゃあ、すき家の牛丼でいいよ、早いし安いし旨いから」

 「そうだね、たまには牛丼もいいかもね? じゃあ牛丼食べて帰ろうか?」



 いつしか私と光一郎はお互いの家を行き来するようになっていた。


 聡とは週末婚だったから、ひとり寝が寂しい夜もあった。

 肌の温もりのある生活に心は癒された。



 親友の里美も喜んでくれた。


 「良かったじゃないの、光一郎は女子の憧れだよ、それを虜にするんだからやっぱり遥はすごいよ」


 だが、私にはもう一人の自分がいた。

 それはまだ聡のことを諦めきれない自分だった。


 忘れよう忘れようと思えば思うほど、ぴったりと私の背中に張り付く聡の亡霊。


 光一郎は彼氏として申し分のない男性だが、ただ「不満がないのが不満」だった。

 頭が良くて誠実でイケメンでやさしい光一郎。

 確かに光一郎のことは好きだ。

 でもそれは恋愛と呼ぶには何かが足りなかった。

 光一郎はただ甘いだけの滑らかなプリンで、苦味のあるカラメルソースが掛かってはいなかった。

 それは贅沢な悩みかもしれない。

 私の想いは複雑だった。




 大学を卒業すると私は大手食品会社の購買部へ、そして光一郎は家電メーカーの総務部で働くようになっていた。



 就職して3年が過ぎた頃、光一郎に初めて抱かれたホテルのレストランで食事に誘われた。


 ふたりが食事をしていると、突然レストランの照明が消えた。


 するとスタッフに扮したゴスペルシンガーたちが「愛こそすべて」を歌い始めた。

 そしてワゴンに載せられたケーキがやって来た。


 「遥、ナイフを入れてごらん」


 何かに当たる感触があった。

 それはガラスの容器に入れられた婚約指輪だった。


 「遥、僕と結婚して下さい」

 「はい」


 何となくそんな予感はしていた。

 私は聡への気持ちの整理がつかぬまま、光一郎のプロポーズを受けてしまった。

 その時、私には光一郎の申し出を断ることが出来なかった


 再び照明が点き、割れんばかりの拍手の中、今度は「変わらぬ想い」がアカペラで歌われ、光一郎のプロポーズに協力してくれたお客さんやスタッフさんが涙ぐんで祝福してくれた。


 私も泣いた。

 だがそれは光一郎に対する「忖度の涙」だった。

 私は困惑していた。

 もう一人の遥が自分に問い掛けて来た。


 「いいの? 本当に光一郎で?」


 私はもうひとりの自分を置き去りにしたまま、光一郎との結婚を決めた。



 


 半年後、私たちは都内のホテルで結婚式を挙げた。

 「形から入る結婚生活」もあるはずだと、私は自分にそう言い聞かせた。


 でも私は気付いていた。自分の聡への恋心という忘れ物に。


 だがそれは私の手の遠く及ばぬところに置き去りのまま、それを取りに行くことは出来なかった。


 何不自由のない生活。


 そこに私の幸福感は満たされることは無かった。


第13話 甘い誘惑

 そして今も私の心は揺れていた。


 私は紅葉を寝かしつけると、リビングでバラエティ番組を観ていた。

 関西のお笑い芸人が、関西弁で捲くし立てるトークが苛立たしく、私はテレビを消した。


 静寂に包まれた空間で、私は冴島との刺激的な夜を思い出していた。


 光一郎から今夜は残業で遅くなるとLINEが入った。

 

 あの一夜の出来事は、紅葉が生まれてからの光一郎とのセックスレスによる欲求不満のせいだと割り切ろうとした。

 それは冴島に対する恋心などではなく、ただの成り行き、一夜の火遊びだったと自分を納得させようとした。

 しかしそれは、愛とは呼べないまでも明らかに恋ではあったはずだ。

 光一郎はやさしく子煩悩で理想的な夫ではあるが、いつも彼は「受け身」だった。

 物事を決めるのはいつも私。

 だが冴島は常にアグレッシブであり、女をグイグイ引っ張っていくタイプの男性だった。


 それはベッドでも同じだった。

 草食系の光一郎と野獣のような冴島。

 私は身体が熱くなるのを感じていた。



 そこへ偶然、冴島からLINEが届いた。


   遥さんのことが

   忘れられません

   また 会えませ

   んか?


 私はそれを既読にしたまま、返信を保留にした。


 (あの時約束したじゃないの、一度だけって)



 光一郎が帰って来た。


 「ただいまー」

 「お帰りなさい、ご飯が先?」

 「うん、ああ、お腹空いたー」

 

 私はキッチンに立ち、光一郎のために煮込みハンバーグを温め始めた。



 光一郎は部屋着に着替えると冷蔵庫から缶ビールを取出し、食卓に着いた。

 光一郎はリモコンでテレビを点けた。

 深夜のスポーツ番組が流れ、会話の少ないふたりの空間を埋めてくれた。



 「はい、お待ち同様、今日は煮込みハンバーグよ」

 「うまそーだなあー、さすがは遥、レストランみたいだよ、ありがとう」


 おいしそうに料理を食べて褒めてくれる光一郎に、私は胸が締め付けられる想いだった。


 「明日も早いんだろ? いいよ先に休んでも。

 あとは自分でやるから」

 「そう、悪いわね。

 じゃあお休みなさい」



 私はベッドに入いり、冴島から届いていたLINEを再度確認した。


 いますぐにでも会いたいと思った。

 冴島に今すぐ抱かれたいと。


   「遥さんのことが忘れられません」


 それは私も同じだった。

 私は何度もそれを読み返した。



 そしてついに私は冴島に返信をしてしまった。


   明日の夜なら

   いいですよ

   少しの時間だけ

   なら



 私は「会うだけ」と自分に言い訳をした。

 「少しの時間だけなら」と敢えて前置きしたのは、「抱かれることはできませんよ」という布石だった。

 すぐに冴島から返信が来た。


          明日が楽しみで

          今夜は眠れそう

          にありません

          明日の夜が待ち

          遠しい想いです

          おやすみなさい

  

   おやすみなさい



 私はスポーツジムで鍛えられた冴島の肉体を思い出し、携帯を抱き締めた。

 体が熱い。

 私は自分を慰め、すぐに眠りに落ちて行った。




 翌朝、光一郎に嘘を吐いた。


 「今日の紅葉のお迎えは光一郎だよね? 私、今日は少し遅くなるかも。20日締めの請求書の整理があるの」

 「わかった、この前みたいにあまり遅くならないようにな」


 (この前みたいに?)


 私は光一郎に対する背徳感と罪悪感で押しつぶされそうだった。


 「じゃあ行ってきます」

 「いってらっしゃい」


 私は光一郎の背中を詫びるように見送った。


 (ごめんね、光一郎)



第14話 砂漠の薔薇

 「すぐにわかりましたか?」

 「ええ、『銀次郎』さんは銀座でも一流のお店ですから」

 

 私と冴島は銀座の有名鮨屋で落ち合うことになっていた。



 「飲物は何にしますか?」

 「じゃあ、ビールを下さい」

 「遥さん、苦手な物はありますか?」

 「ウニとイクラ以外なら大丈夫です」

 「それは良かった、高い物がお嫌いで」


 私たちは笑った。

 冴島はそれを職人に伝えた。


 それから冴島は急に真顔になり、


 「良かった、また遥さんに会えて。

 もう会えないかと思っていました」

 「別に構いませんよ、お食事#だけ__・__#ならいつでも誘って下さい」


 私は冴島の反応を注視したが、表情に変化はなかった。

 

 (お食事だけよ、それ以上はダメ。取引先としての仕事上のお付き合いだけ)


 

 寿司を摘まみながら、私は考えていた。

 男は外見も大切だが、それ以上に重要なのが会話だ。

 話のつまらない男との時間は地獄だ。

 冴島と一緒に話していると時間を忘れてしまう。


 そして男の器量とは食事をしている時にわかるものだ。

 さり気ない気配りが出来る男は仕事も出来る。

 それは招待者に対してだけではなく、お店の人や周りに対する気配りもそうだからだ。

 

 「俺は客だ!」


 そう言う態度の男は論外だが、さらに注目すべきは「食べ方」だ。

 もちろんこれは男性に限った事ではない。食事にはその人の品性ややさしさ、教養が出るものだ。

 本来、体内に入れる、あるいは出すという行為は、性行為や排せつ行為と同様に人に見せるものではない。

 身体に出し入れする行為は不浄とされる。

 そもそも「食べる」とは「命を食べる」ことでもある。

 皇族が食事を召し上がっている様を、公にしないこともそこに理由がある。



 鮨屋は客を見る。

 この客のレベルを計り値段を決めるのだ。

 女連れの場合、勘定は高くなる。

 女にいいところを見せようとするからだ。

 だが冴島は場慣れしていた。

 商社マンとしての接待も多い冴島は、職人や仲居さん、そして食材に対する感謝まで窺えた。


 「大将、いつも美味しい寿司をありがとう。

 今日も素晴らしく美味しいよ、『銀次郎』の寿司は世界一だ」

 「そんな風に食べてくれる冴島さんを見てると、もっと悦ばせたくなるんだよなあ。

 あんた、人をその気にさせる天才だよ。

 ねえ、お嬢さん」

 「冴島さんはやり手の商社マンですからね?」


 大将の言う通りだと思った。

 冴島は人をその気にさせる名人だ。



 「遥さん、近くに凄く雰囲気の良いBARがあるんですが、でも今日は時間がないんでしたよね?

 それじゃ次回ということで」


 冴島は私の自分に対する想いを推し量ろうとしていた。

 そしてまた、先日のように私を独り占めしたいと考えているのは明白だった。



 「いいですよ、一杯だけなら」


 (大丈夫、今からなら21時の電車に間に合う)




 銀座の裏通りを冴島と歩いていると、すれ違う女性からゲランの『夜間飛行』の香りがした。



 「ここです」


 そこは更に袋小路の奥にある小さなBARだった。


 「Rose de Sahara?」

 「そうです、『サハラのバラ』です。さあ、中へどうぞ」


 冴島は真鍮製のキックプレートの付いた、重厚なマホガニーのドアを開けた。

 そこにはアラビアの砂の街を思わせるような、淫靡な雰囲気が漂っていた。

 ムスクのお香が焚かれ、気怠いモロッコの音楽が流れていた。



 「カサブランカに来たみたいでしょう?

 サハラ砂漠に出来る、薔薇の形をした砂の結晶。ほら、あそこに飾ってあるのがそれです」



 冴島の示したそれは、折り重なるように薔薇の形をした石が、スポットライトに照らされてガラスケースの中に収められていた。


 「神秘的な石ですね? ほんと、薔薇みたい。

 初めて見ました」

 「いいでしょう? 砂漠に咲くバラ。

 ロマンチックですよね? 永遠の薔薇です、遥さんは本物の美しい薔薇ですけどね?

 遥さんは何を飲みますか?」

 「私はベリーニを」


 今日は光一郎に残業だと言って家を出て来たので、強い酒は控えてシャンパンベースの桃のカクテルにした。


 「僕はギムレットを」

 「かしこまりました」


 銀髪の品の良い老バーテンダーは酒の用意を始めた。


 

 この店のエロチックな雰囲気と甘いカクテルに、私のさっきまでの堅い誓いは緩み始めていた。


 「遥さん、僕は君を忘れることが出来なくなってしまいました」

 「・・・」


 私は何も答えずに、再びカクテルを口にした。


 (彼は私を求めている)


 「このままあなたとどこかへ行ってしまいたい気分です」

 「冴島さん、酔っていらっしゃるのね?

 あの夜のことは夢、一夜限りの夢。

 一度だけの戯れだと、そうお約束したはずですよ?」

 「私はしていませんよ、そんな約束。

 それを言ったのは遥さんで、僕は同意も否定もしなかった。

 僕はあなたのすべてが欲しい」


 冴島の太い血管の浮き出た大きな手が、私の手を握った。


 「どうして冴島さんは私を困らせるの? 私は人妻で子供もいるのよ」

 「好きなんだ! 遥さんのことが」

 「冴島さんにだって家族がいるじゃないですか?

 これ以上進んではいけないわ、私たち。

 周りを巻き込みたくはないの。もう嘘は吐きたくないの」

 「確かに僕は非常識かもしれない、なんと言われても構わない。

 妻とは来月、離婚することにしました。

 遥さん、僕はあなたが欲しい。真剣に愛しているんです!」

 「もう止めましょう、こんな話。

 そろそろ時間なので私はこれで。今日はご馳走様でした」


 私がそう言って椅子から立ち上がろうとした時、冴島は唇を重ねてきた。


 私の抵抗は徐々に弱まり、ついにそれに応じてしまった。


 「遥さんを帰したくない」


 私は再び椅子に座った。


 「テキーラを下さい、ダブルで」



 私はその夜、何もかも忘れて再び女へと変貌を遂げた。


第15話 背徳

 ホテルの部屋には遥の喘ぎ声が彷徨っていた。

 もう終電の時刻はとっくに過ぎてしまっている。

 遙は時間を忘れ、光一郎の妻であることも紅葉の母親であることも忘れて無我夢中で霧島に抱かれていた。

 

 遥は何度も霧島から突かれ、いくら絶頂を迎えようと冴島は容赦なく遥を攻め続けた。

 遥から溢れ出た蜜が、クチュクチュと淫らな音を立てていた。

 遥のピンと尖った乳首を冴島に激しく吸われ、時折やさしく甘噛みされた。


 激しいオルガスムスの中でも冴島はその出し入れを繰り返した。

 遥は狂ったように冴島の名を叫び続けた。

 頭の中が真っ白になり、意識が飛んだ。

 エクスタシーで身体の痙攣が止まらない。

 こんな体を貫く快感は経験したことは今までなかった。

 まだ小刻みな痙攣が収まらぬまま、冴島が遥を優しく抱きしめた。


 「愛しているよ、遥」


 いつの間にか冴島は私のことを呼び捨てにしていた。


 「キスして・・・」


 再び濃厚な口づけが再開され、ふたりは眠ることなく性行為を続け、朝を迎えた。



 酔いも醒め、現実に引き戻された。

 不思議な事に、光一郎からの安否を尋ねる電話もラインも来なかった。



 私は残業だったと言訳をするためにシャワーは使わす、脱ぎ捨てた少し派手な下着を身に着け、身支度を整えた。


 「ご主人、大丈夫?」

 「心配しないで、何とかするから」


 冴島に後ろから抱き締められた。


 「もう絶対に遥を忘れることが出来なくなってしまった。

 帰したくない、このままずっと一緒にいたい」


 私は冴島の手に触れ、


 「今度の金曜日、子供を連れて実家に帰る予定だから、その時にはまた会える?」

 「ああ、何とかするよ」

 「もう一度、キスして」


 そしてキスが終わると、私はパウダールームでメイクと髪を整えた。

 口紅はきちんと引いたが、ファンデはわざと荒くした。

 残業が終わり、打ち上げで飲みに行ってそのまま早苗の家に泊ったという筋書きにした。




 遥は始発の新宿湘南ラインに乗り、家路を急いだ。


  

 家に着くと真っ先に寝室に駆け込み、光一郎に詫びた。


 「ごめんなさい、そのまま飲みに行って、気付いたら早苗のマンションにいたの、本当に御免なさい」

 「ああ、遥・・、おはよう・・・、心配したよ、あんまり遅いから・・・」


 光一郎は寝ぼけたままそう言った。


 「もう髪もボサボサで、ファンデも落ちちゃってもう最悪、シャワーを浴びたらすぐに朝ご飯の支度をするわね? ごめんなさい、許してね」


 そう言って私は光一郎に軽くキスをした。


 「愛しているわ、光一郎」


 人はやましいことがあると、相手に過度にやさしくなるものだ。 

 私は熱いシャワーを浴びながら深い溜息を吐いた。


 (なんとか切り抜けたわ)


 入念にカラダを洗い、私は身支度を整えるとすぐに朝食の準備に取り掛かった。

 さっきまでの冴島との情事の記憶を払拭するために。

 朝のニュースでは、今日の天気は晴れのち雨との予報だった。

 パジャマのまま光一郎が起きてきた。


 「珈琲でも淹れる?」

 「いいよ、自分でやるから。顔洗って来る」


 

 光一郎は洗濯機に放り込まれた遥のショーツを拾い上げ、匂いを嗅いだ。

 光一郎は自分の顔が映る洗面台の鏡に軽く拳を当て、


 「お人好しだな? お前は?」


 鏡の中の光一郎は寂しく笑っていた。


第16話 冴島の誤算

 冴島と遥の密会はその後も頻繁に続いていた。



 「遥、最近あまり有給を取っていないようだけど大丈夫か? そんなに働いて?」


 夫の光一郎は言った。


 「大丈夫だよ、夜は家でなるべくゆっくりしたいからね、しょうがないよ」


 私は既に有給を使い果たし、冴島と会うために私用の休暇申請までしていたのだ。

 ふたりは夜に会うよりも、日中に会うことの方が都合が良かった。

 それは私が人妻であり、冴島も日中の方が比較的時間が自由になったからだ。




 今日も遥は冴島との逢瀬を楽しんでいた。



 「保育園のお迎えだからもう行かなくっちゃ」

 「遥、もう一度僕と人生をやり直さないか?」

 「私はこのままで十分しあわせ」



 遥は冴島から体を離し、シャワーを浴びにベッドを降りた。



 冴島は昨夜の妻の礼子との遣り取りを思い出していた。

 冴島は不倫の罪悪感を払拭するために、礼子を抱こうとした。

 すると礼子は、


 「そんなにしたければそういうお店にでも行けばいいでしょう?

 止めて、そんな気分じゃないの」


 妻の礼子とのセックスレスは、娘の渚が生まれてからすでに15年が経過していた。

 娘の渚とも父娘の関係は良くなかった。

 私立の一貫校なので受験の心配はなかったが、娘との会話は殆ど無かった。

 この家での冴島はただの同居人だった。

 夫でも父でもなく、ただ経済的に家族を支えているだけの存在だったのだ。




 1週間後、冴島は役所に離婚届を取りに出掛けた。

 窓口で離婚届の用紙を申請すると、担当の若い女性職員は別にめずらしいという様子もなく、事務的にそれを渡して説明をしてくれた。


 

 冴島はカフェで離婚届を広げてサインをし、捺印をした。


 (カネさえあればあいつらは俺を必要とはしない。俺は遥と人生をやり直すんだ)


 冴島は冷めてしまった珈琲を飲むのを止め、ウエイトレスを呼んだ。


 「すみません、ビールを」


 気怠い午後の陽射しの中で冴島はビールを飲み干し、離婚届を鞄に仕舞った。




 娘の渚が友だちと出掛けた土曜日の午後、冴島はリビングで編物をしていた礼子に声を掛けた。



 「話があるんだ」

 「何の話かしら?」


 礼子は編物の手を止めなかった。

 冴島は書斎に向かうと鞄から離婚届を取り出し、それを礼子の前に広げた。



 「俺と離婚してくれ」


 妻の礼子は編物の手を止め、それに動じることなく静かに微笑んで見せた。


 「どうして?」

 「もう俺は君たちには必要のない人間だからだ。

 カネのことは心配しなくていい、それ相応の対価は支払うつもりだ。

 この家も君たちに渡し、俺はここを出ることにする」

 「そしてあの人妻さんと暮らすつもりね? 君島遥さんと。若くて綺麗な人よね?

 私みたいなオバサンと違って」


 冴島は凍り付いた。


 「私も随分舐められた物ね? これでも総合商社の元社員、出来るだけ多くの情報を集め、それを的確に分析して行動計画を立案する。そんなの常識でしょう?

 知らないとでも思った? あなたたちのこと?

 あーははは、あーおかしい」


 礼子は高笑いをし、キッチンに隠しておいた調査会社の報告書を冴島の前に叩きつけた。


 「いつあなたがそれを持ってくるのかとワクワクして待っていたわ。

 随分楽しそうな顔してホテルに入って行くのね? いい歳して手なんか繋いじゃって。

 こんなうれしそうなあなたの顔、結婚して以来見た事がなかったわ。

 お金なんか貰っても別れないわよ、絶対に。

 あなたたちを絶対に幸せになんかさせないから!」

 「お前は俺に抱かれようともしなかったじゃないか!15年も!」

 「あなた渚が私のお腹にいる時、自分の部下の直子とかいう女と浮気していたじゃないの!

 こっちが悪阻で苦しんでる時に!

 そんな他の女を抱いた男なんて私には無理!

 私は商売女じゃないわ!」

 「・・・」


 冴島は当時、仕事のストレスと礼子の妊娠で、部下だった小野寺直子と数回、関係を持ってしまったことがあった。

 礼子はそれをずっと根に持っていたのだ。


 「すまなかった・・・」

 「認めるのね? あなたは何もわかっちゃいない。

 渚ともちゃんと話したことある? 

 一番父親が必要な時もあなたはいつも仕事、仕事、仕事。

 渚の話をきちんと聞いてあげたこともなかったじゃない! それでも父親なの!

 私たちがあなたを捨てたんじゃない! あなたが私たちを捨てたのよ!」


 礼子はそのままキッチンに行き、包丁を抜いて自分の手首に宛てた。


 「どうしても私が邪魔なら死んであげるわよ、今ここで!」

 

 礼子は手首に宛てた包丁を一気に引いた。

 鮮血が溢れ出し、床に血が滴り落ちた。


 「礼子!」


 冴島はすぐに包丁を取り上げ、タオルで腕を縛り、キッチンペーパーで傷口を抑えた。


 「ほら見て、凄く綺麗。動脈の血ってこんなに鮮やかなのね?

 あーははは、あーははは・・・。うううううっつ」


 離婚届が礼子の血で染まった。


 「押してあげましょうか? 私の血判」


 礼子は大きな声を上げて泣き続けた。

 冴島は救急箱から消毒液とガーゼ、包帯を取り出し、応急処置をしてクルマに礼子を乗せた。

 

 「今回はデモンストレーション、次は確実に死んであげるから安心しなさい」

 「もう止めろ・・・、俺が悪かった」


 礼子は目の涙を指で拭った。

 それは冴島の誤算だった。


第17話 棘のない薔薇

 「なあ遥、今度の日曜日、久しぶりに紅葉をつれてどこかへ出掛けないか?」

 「そうね、お天気も良さそうだし、紅葉はどこに行きたいの?」

 「もみじはねー、おさかなさんがみたいの」

 「じゃあ水族館ね? お弁当持って行こうか?」

 「うん、チーズのはいったちくわもね」

 「はいはい、わかったわよー」

 「となると葛西臨海公園がいいな」

 

 紅葉と光一郎はうれしそうだった。

 だがその時私は冴島のことを考えていた。


 (日曜日、彼は家族とどう過ごしているのかしら?)





 その日は快晴で、水族館の中はかなり混雑していた。



 「うわー、おさかなさんがいっぱいいる!」


 目を丸くして水槽に釘付けになって見入っている紅葉に、私は目を細めていた。



 「パパー、このおさかなさん、ちくちくがいっぱいだよ。   

 痛そうだね?」

 「これはハリセンボンだよ。

 怒るとね、こんな風になってトゲトゲのボールのようになるんだ。

 でもね、ハリセンボンはそれが周りを傷つけていることに気付かないんだよ」



 光一郎は娘の紅葉に語り掛けるでもなく、水槽のハリセンボンを寂しげに見詰め、そう呟いた。


 「パパ、これは?」

 「これはハコフグだよ、かわいいだろう?

 さかなクンが頭に被っているのがこのお魚なんだよ」

 「ふーん」

 「えっ、さかなクンの帽子ってこれなの?」

 「そうなんだ、この形はね、流体力学的にも大変理想の形なんだよ。

 あのメルセデスのデザインにも応用されているんだ」

 「流石は光一郎、なんでも良く知っているのね?」

 「なんでも知っているということは、時として残酷なことでもあるけどね?」


 光一郎は悲しそうな目をしてそう言った。



 「パパ、このおさかなさんには トゲトゲがないね?」

 「その代わり、毒があるんだ、パリトキシンという毒が体内に蓄積されていてね、食べると死んでしまうこともあるんだ。

 棘のない魚には毒があるんだよ。自分を守るためにね?」

 「そんな難しい説明じゃ紅葉はわからないわよ、まだ幼稚園なんだから」

 「ドクってなあに?」

 「飲んだら死んじゃうんだよ」

 


 光一郎は静かに微笑みながら私に質問をした。


 「遥、君はどっちだい?

 棘か? それとも毒の方?」


 私は背筋が凍るようだった。

 光一郎の憎悪に満ちたそんな瞳を見たことがなかったからだ。


 「君は棘のない残酷な薔薇だよ」





 家に着いた時、冴島からLINEが届いた。



   明日、会えない

   かな? 

   話したいことが

   ある



 メッセージの内容はただそれだけだった。

 私は紅葉を呼んだ。


 「紅葉ーっ、ママとお風呂に入ろうか? 今日はたくさん歩いたからね」

 「はーい!」



 遥と紅葉、そして光一郎との週末はゆっくりと平和に終わろうとしていた。


第18話 泡沫の恋

 携帯が鳴った、冴島からだった。

 

 「冴島さん? 何処へ行けばいいの? いつものホテル?」


 私は期待を込めてそう言ったが、冴島の答えは意外なものだった。



 「今、羽田なんだ。

 急に飛行機が見たくなってね、どう? 羽田で食事をしないか? 飛行機を見ながら」

 「いいけど今日はそんなに時間はないわよ、一緒にいられる時間が」



 私は昨日の水族館でのモヤモヤを、冴島に抱かれることで払拭しようと考えていたのだ。



 「じゃあ、浜松町でモノレールに乗ったら電話をくれないか? 改札口で待っているから」




 久しぶりにモノレールに乗った。

 幼稚園の遠足でこの運河を見た時、これが海だと教えられた。

 私は目を皿のようにしてサメの背びれを探したものだ。

 海には恐ろしいサメがいると思っていたあの頃が懐かしい。



 混雑している一番端の改札口に冴島が立っていた。

 冴島は私を見つけると、軽く手を振ったが顔は笑ってはいなかった。



 「ごめん、こんなところまで呼び出して」

 「時間がないの、早くいつものホテルへ行きましょうよ」



 私はうれしそうに冴島と腕を組み、甘えた。




 展望デッキでは飛行機の爆音と、離着陸を繰り返す沢山の航空機が見えていた。

 冴島はその光景を寂しそうに眺めていた。



 「僕はね、本当はパイロットになりたかったんだ。

 航空大学校も受けたけどダメだった。

 かなりその時は落ち込んだものだよ」

 「冴島さんの制服姿ってカッコ良かっただろうなあ」


 冴島は私を見ずに離陸する飛行機を見ていた。



 「飛行機にはクリティカルイレブンと言って、離陸の3分間と着陸の8分間が一番危険だと言われている。特に着陸が難しい・・・」

 「へえー、そうなんだ、知らなかった」


 そして冴島は私を見詰めてこう言った。


 「土曜日、妻に離婚届にサインするよう頼んだんだ、遥と結婚するために」

 「どうしてそんなことを・・・」

 「そうしたら女房に言われたよ、「私たちがあなたを捨てたんじゃない、あなたが私たちを捨てたくせに!」とね。

 みんな知っていたんだ、僕と遥のことはすべて。

 僕の素行を調べられて写真まで撮られていた・・・」



 私は急に不安になった。

 冴島の奥さんが家や職場に来るのではないかと怯えたからだ。



 「それでどうしたの?」

 「女房は手首を切った・・・」

 「えっ・・・」



 遥は目の前が真っ暗になった。

 不倫がバレて奥さんが自殺未遂・・・。

 最悪だった。



 「僕から君を勝手に好きになって申し訳ない。

 遥を諦めるしかないんだ、今日で終わりにしよう」



 最後の言葉が航空機の騒音と風の音で良く聞き取れなかった。

 だが、私はそれを聞き返すことはしなかった。

 冴島が何と言ったのか、察しはついていた。



 

 帰りのモノレールに乗る私と、それをホームで見送る冴島。

 発車の合図が鳴り、ドアが閉まる。

 私と冴島は見つめ合ったまま、モノレールは無情にもゆっくりと動き出し、ふたりの恋を引き裂いて行った。


 それが定めであるかのように、愛欲の恋はあっけなく終わりを告げた。



第19話 ノー・リターン・ポイント

 「常務、先日お断りしたロンドン支店の件ですが、もうダメですよね?」


 常務の五十嵐は書類から目を離すと冴島を見た。


 「どうした急に? その件はもう島崎部長に内定してしまったからなー」

 「そうでしたか、お忙しいところ失礼しました」


 冴島が五十嵐常務の部屋を出ようとすると、五十嵐常務が冴島を呼び止めた。


 「女か?」


 冴島は黙ったままだった。


 「そうか」


 常務の五十嵐はデスクを離れてソファに移動した。



 「まあ座れよ冴島。サラリーマンはなあ、ストレスの海に漂う小舟のような物だ。

 大きな仕事を任されれば任されるほど女が欲しくなるもんだ。

 「英雄色を好む」だよ冴島。あはははは。

 まあそれは自分が大きな仕事を成し遂げて進化した証拠でもあるがな?

 つまり進化した自分のDNAを未来に残そうとする本能がそうさせるのかもしれん。

 だがな、冴島。それは遊びと本気に別れる物だ。 

 お前、その女に本気で惚れたな?」

 「・・・」

 「ロンドン支店の支店長は役員への登竜門だ。

 それを蹴るということは何かあるとは思っていたが、そういうことだったのか?

 サンディエゴの佐々木がそろそろ日本に戻りたいと言って来た。どうだ、行くか? アメリカへ」

 「ご迷惑をお掛けします。よろしくお願いします」

 「だがな冴島、どこへ行っても女はいるぞ」


 五十嵐は大きな声で陽気に笑った。




 まだ礼子は痛々しく白い包帯を左手首に巻いていた。


 「10日後、サンディエゴに転勤することになった。

 出来ればお前たちにも一緒に来て欲しいんだ」

 「イヤよ、あなただけ行って頂戴、私と渚は残るから」


 娘の渚は何も言わず、携帯をいじっていた。


 「頼む、一緒について来て欲しいんだ、アメリカへ」

 「どういう風の吹き回し? ニューヨークですら単身赴任だったくせに。

 それともこれのせい?」


 礼子は左手の包帯を挙げて笑った。



 「償わせて欲しいんだ。夫として、父親として、もう一度家族を取り戻したい。

 俺にそのチャンスをくれ、頼む」


 冴島は家族に頭を下げた。


 「随分と都合のいいお話しね?

 家族を取り戻したいですって? このバラバラに砕け散った家族を?

 あなたいつから吉本のお笑い芸人になったの?

 これが何? そんなに驚いた? そんなに傷付いたの?

 私と渚がどれだけあなたのことを愛していたのかも知らないくせに!

 さっさと行きなさいよ! あなたひとりでアメリカでもどこへでも!

 清々するわ!」


 娘の渚はそのまま自室に籠ってしまった。



 「今更遅いよな? お前が俺を一生許さないとしても、俺はお前たちをずっと想い続けるよ。

 すまなかった、今まで辛い思いをたくさんさせた。

 彼女とはきちんと別れたんだ。

 サンディエゴへは俺一人で行くことにするから、留守中のことは頼む。

 ただ気が変わったらでいい、その時はいつでも来てくれ、償いたいんだ、一生を賭けて」




 羽田には多くの同僚や取引先の人間が冴島を見送りにやって来ていた。

 同じ部の女子社員からは花束と寄せ書きが贈られた。


 村井が言った。


 「冴島部長、いえ支店長、僕もサンディエゴに呼んで下さい、支店長の元で勉強させて下さい」

 「厳しいぞ、俺の下は。  

 それはお前が良く分かっているはずだろう?」

 「だからいいんです。厳しくシゴいて下さい。お願いします」

 「じゃあ英語のレベルをもっと上げておけ、そんな英語では本国では通用しないからな」

 「わかりました!」



 冴島が出国ゲートに入ろうとした時だった。


 「あなた!」


 冴島が振り向くと、そこには妻の礼子と渚が立っていた。


 「来月、渚と一緒にそっちへ行くわ。準備の方、お願いね」


 冴島は溢れる涙を見せまいと、後ろ姿のまま片手を挙げて手を振った。


 いつもの空港アナウンスが続いていた。


 それが冴島の「ノー・リターン・ポイント」だった。


 冴島はアメリカへと旅立って行った。 


第20話 別離

 ホストクラブには怠惰なレゲエ、ボブマーリーが流れていた。

 誰の選曲かは知らないが、この店にレゲエはあまりにお粗末だった。



 「瑞希さん、俺、今月はかなり流星に追い上げられているんですよ。

 このままだとナンバーワンから転落です」



 背中のざっくりと空いたボルドーレッドのイブニングドレスの瑞希は、銀のシガレットケースからメンソールタバコを取り出した。


 素早くライターで火を点ける響。



 「それで?」

 「トップでいたいんですよ、俺。あと200万、なんとかして下さい!

 お願いします、瑞希さん! 俺を助けて下さい!」



 瑞希はタバコの煙を吸い込むと、響の顔にそれをゆっくりと吹きかけた。



 「響、アンタいつからそんな情けないナンバーワンになったの?

 流星に追い上げられたですって? アンタ、バカなの?

 流星が追い上げたんじゃなくて、アンタが落ちたんでしょう?

 所詮あんたはジルコニア、偽物ダイヤよ。

 ピンドン入れてあげるから持ってきなさい」

 「ありがとう、瑞希さん!

 はーい! 瑞希様よりピンドン、いただきましたー!」


 湧き上がるホストたちの歓声。

 店の音楽が激しいトランスビートに変わった。



 瑞希のテーブルにピンクのドン・ペリニヨンが運ばれてきた。

 コルクを開け、シャンパングラスにそれを注ごうとする響を瑞希が制した。


 「それじゃないわ」


 瑞希は赤いエナメルのピンヒールを脱ぐと、響にそれを差し出した。


 「これで飲みなさい」


 響は一瞬それを躊躇い、屈辱に顔を歪めた。


 「どうしたの響? イヤなの?

 アンタ、「韓信の股くぐり」って知らないでしょうねえ?

 女の股ばっかりくぐって本も読まないもんね?

 いいこと、本当の男はね、ちっぽけなプライドなんて大きな野望のためには平気で捨てるものよ。

 あんたがこの店のトップに君臨していたいのなら、帝王であり続けたいのなら、このお酒を飲み干してみせなさい!」


 すると響は立ち上がり、ヒールにドンペリを注ぎ、一気にそれを飲み干した。

 再び湧き上げるホストたちの歓声。



 「ピンドン、20本追加しなさい」

 「ありがとう、瑞希さん!」


 響は瑞希に跪き、手の甲にキスをした。


 「バカね、そっちじゃなくてこっちでしょう?」


 瑞希はヒールを脱いだ足を響に向けた。

 響は瑞希の赤いペティキュアを塗った足の指にキスをした。



 その光景を奥のボックス席で薄笑いを浮かべて見ている流星がいた。


 「ほら見てごらんよ、あれがウチのナンバーワンホストらしいよ。

 惨めだよねえ? あれじゃ飼い主に捨てられてゴミを漁るチワワだな?」

 「さすがは私の流星、格の違いを見せてあげましょうよ。

 こっちはピンドン30本で!」

 

 流星が叫んだ。


 「小春様からピンドン、30本のオーダーをいただきましたあ!

 ありがとうございまーす!」

 


 「瑞希さん、流星に負けたくないよ」

 「40本持ってらっしゃい。たかが風俗嬢のくせに、この瑞希様と勝負しようなんて100年早いわよ」





 閉店まで飲み続けた瑞希は、響やホストたちに支えられ店を出て来た。

 外は朝日が黄金色に輝き、欲望の宴を終え、静まり返った朝の歓楽街を数羽のカラスが屯していた。


 その朝日を背にして、ひとりの男が立っていた。

 聡だった。


 「帰るぞ、瑞希」

 「なんだテメエは?」


 酔ったヘルプのホストが聡に詰め寄った。

 聡はその男の腹を思い切り蹴り上げた。

 蹲るホスト。


 「俺の女房が世話になったな?」


 そう言うと、聡は待たせていたタクシーに瑞希を乗せた。


 


 家に帰ると瑞希は便器を抱えるようにして何度も吐いた。

 背中を摩る聡。


 「私に触らないで!」


 まだ酔いが残っている瑞希は、だらりとした手で聡の手を払い除けた。


 「謝らないわよ、私・・・」

 「謝ることはないよ、どうせ君の金だ。君が何に使おうが、俺がとやかく言えるものではないからな」

 「もう限界なの、私・・・。

 どんなに私があなたのことを愛しても、あなたは私を見ようともしない・・・。

 あなたはまだあの女の事を今でも忘れずに愛している。

 冗談じゃないわよ!」


 聡は瑞希の小さな背中に手を置いた。


 「私はマリーローランサンの詩の女と同じ・・・。

 一番哀れな、忘れられた女よ・・・」


 聡は瑞希を抱き上げ、ソファに寝かせ水を飲ませようとした。

 瑞希はそれを手で跳ね飛ばした。

 グラスは放物線を描き、床に落ちて砕け散った。


 「ふふふっ、私たちみたい・・・、バラバラに割れちゃった。あはははは」


 瑞希は嗚咽した。



 物音に気付いた正信が起きて来た。


 「そうしたの? ママ」

 「ママね、パパとお別れすることにしたの。ノブちゃんはママと一緒に暮らしましょうね?」

 「どっちでもいいよ、ボク」


 聡は信正が間違いなく自分の息子であることをこの時確信した。


 翌日、聡は離婚届にサインをして家を出た。


第21話 再びの想い

 その日、瑞希は実家に居た。


 「パパ、ごめんなさい。私、聡と離婚しちゃった」


 池の錦鯉に餌をやっていた大山は、瑞希に振り向き笑った。


 「どうせあいつはただの種馬だ。

 おまえと信正がおればそれでいい。

 お前を乗りこなすことの出来ぬ男に、政治家など務まらんよ。

 アイツの父親と同じ、せいぜい県議止まりの男だ」





 聡は大山の口利きで入った市役所を辞めた。

 意外にも聡の両親はそれを咎めようとはしなかった。


 「聡、すまなかったな・・・」


 聡は何故父親が地方議員のままなのか、理解することができた。

 国政に出るには親父はあまりに優しすぎたのだ。





 聡は自分の気持ちを整理するために、北陸の金沢へ旅に出ることにした。

 香林坊や兼六園を散策したが、聡の心は埋まらなかった。


 (一体俺は今まで何をしていたんだ? これから俺は何をして生きて行けばいい?)


 聡の自問自答は続いた。




 内灘の砂浜で、沈みゆく日本海の夕日を見詰めていると、遥の笑顔が浮かんだ。

 

 (遥は今、幸せなのだろうか? 遥に会いたい・・・)


 聡は声をあげて泣いた。

 日本海の波音がそれを掻き消してゆく。

 何度も何度も砂浜を拳で叩きつけ、自分の不甲斐なさを詰った。



 それに疲れ果てた聡は砂浜に大の字になり、星空を眺めた。

 いつの間にか辺りは闇に包まれ、天空には無数の星が輝いていた。

 流れ星が流れ、聡は決意した。


 (一度きりの人生を後悔して生きるのはもうごめんだ、今度こそ、俺は自分の気持ちに正直に生きるんだ!)


 遥を、遥の愛をもう一度取り戻そうと聡は思った。

 たとえ詰られても、罵倒されてもいい、家族とすでに暮らしていようと遥を取り戻したい。


 結果なんてどうでもいい、遥に拒絶されても構わない。

 何もしないで人生を諦めたくはない。



 聡は直ちに金沢駅に向かうと、東京行きの北陸新幹線に飛び乗った。


 そこにはもう聡の迷いはなかった。


第22話 幸福な悪夢

 冴島の部下だった村井が新しい上司と遥の会社にやって来た。



 「既にご存じかとは思いますが、この度、冴島がサンディエゴ支店に異動となりましたので、後任の佐々木とご挨拶に伺いました」


 私は一瞬、言葉を失った。


 「えっ、冴島さん転勤になったんですか?」

 「あれ、冴島支店長、君島チーフに言っていなかったんですか? それは大変失礼いたしました」

 「いえ、私には何も。

 そうでしたか、アメリカへ・・・」



 私は眩暈がしそうだった。

 ついに冴島は自分の手の届かない所へ行ってしまった。

 あの羽田の別れから1か月、締め付けられるような冴島への想いが私を苦しめていた。



 「今度は冴島支店長、単身赴任ではなくご家族で行かれましたから、日本には当分帰らないと言っていました」


 「家族」というその言葉が私にさらに追い打ちをかけた。


 「冴島の後任の佐々木です。冴島と同様、よろしく・・・」

 「申し訳ありません、これから会議なので、今後ともよろしくお願いします」



 私はすぐにトイレに駆け込み、周りに女性がいないことを確認して号泣した。


 (冴島が家族と・・・)


 目の前が真っ暗になった。

 私の危うい恋は完全に終わってしまった。

 聡の時と同じように、また私は置き去りにされたまま生きる希望を失った。




 退社時間になり、部下の知子が私をお茶に誘った。


 「チーフ、お茶して帰りません? アップルパイの美味しいお店を見つけちゃったんです!」

 「ごめんなさい、今日は紅葉のお迎えなの、また今度ね」



 知子は今日、ターゲットの村井が来ていたのを知り、彼の近況が知りたかったのだ。

 今日のお迎えは光一郎の担当だったが、私は誰とも話したくはない心境だった。




 会社を出て、半蔵門線の駅に向かって歩いていると、私の心臓は止まりそうになった。



 私をじっと見詰める聡の姿があったからだ。

 一瞬で時が止まり、街の景色から音が消えた。


 「遥、話があるんだ」

 「来ないで!」


 私は泣きながら地下鉄の階段を駆け下りて行った。

 聡が私の後を追って来た。


 聡はすぐに私に追いつくと、強引に私の腕を掴んだ。


 「逃げないでくれ! 女房とは別れたんだ! やり直したいんだ遥と」


 私は自分の耳を疑った。


 (別れたってどういうこと?)


 私は冴島を失った悲しみのあまり、幻覚を見ているのだとさえ思った。





 ふたりは地下鉄のベンチに座ったまま、何も言わずに幾つもの電車を見送った。


 「遥、許して貰えないことは分かっている。だけど僕はどうしても遥を忘れることが出来なかった。

 遥、もう一度俺とやり直してくれ」

 「勝手なこと言わないでよ、私にはもう家族があるのよ、今更何を言うの」

 「それは承知の上だ。俺はどんな罰も受ける覚悟は出来ている。もう自分の人生に後悔はしたくはないんだ」


 私は深い溜息を吐いた。


 (今日はいったいなんていう日なの? この世の終わり? 馬鹿げているわこんなこと。夢なら早く醒めて欲しい)


 だがその一方で、イヤな気持ちはしなかったのも事実だった。

 それは聡がそれほどまでに自分のことを想っていてくれていたということにだ。

 聡は聡で苦悩していたのだと。



 再び二人の長い沈黙が続いた。


 「もう、帰らないと夫と子供が待っているから」

 「また電話するよ、当分、東京にいるつもりだから」

 「お願い、もう電話しないで頂戴。あの日で私たちはもう終わったのよ」


 私は入って来た電車にそのまま乗った。

 落胆して遥を見送る聡。


 私の脳裏からは聡の哀しそうな表情がこびりついて離れなかった。



 

 家に帰ると、いつもビールの光一郎がめずらしくウイスキーをロックで飲んでいた。



 「ただいまー」

 「紅葉は寝たよ、遅かったね? また残業かい?」

 「うん、色々とあって遅くなっちゃった、ゴメンね、ご飯は?」


 光一郎はグラスに残った酒を一気に飲み干した。そしてゆっくりと噛み締めるように言った。


 「冴島さんはアメリカに異動になったんだろう? だからもう遥の残業も有給も、すべて不要になったのかと思っていたのに、いったい今日の残業はどんな残業だったんだい?」


 私は一瞬で氷付いた。

 光一郎は見て見ぬふりをしていたのだ。すべてを知って夫婦を演じてくれていたのだった。


 「遥、偽るのは構わないんだ、偽るとは人の為と書くからね?

 だが嘘は良くない、それは自分のためにする保身だ。そして嘘はすぐにバレるものだ。

 人間は本能的に自分の犯した罪を自ら罰しようとする。

 つまり、自分の罪を見つけて欲しいと願う、マゾヒズムな自分も共存するものなんだ。

 バレないと思ったかい? 僕は甘チョロの間抜けな亭主だからね? あはははは。

 でも遥はそんな僕に油断したんだ。せめて冴島さんの出した精液くらいはちゃんと処理して帰って来ないと。

 君の下着にこびりついていたよ、彼の不愉快なスペルマがね。

 遥がして来た夜はいつも僕を誘った。

 謝罪のつもりだったのかい? 遥から求めてくるなんて。

 その時、君のあそこからゴムの匂いがしていたんだよ、コンドーム匂いがね?

 僕はそんなの使わないから、それが僕の物ではないことは確かだった。

 そしてこれが遥の不貞のレポートだよ」


 光一郎は部厚い報告書を遥の前に投げた。

 そして光一郎は飲んでいたグラスを壁に叩きつけた。

 静かな部屋にグラスの砕け散る音が反響した。


 「出て行け! この家から出ていけ!

 おまえはもう俺たちの家族じゃない!

 紅葉は俺が育てるから二度とここには戻って来るな!

 お前の荷物はすべて明日、お前の実家に送り付けてやるから安心しろ! 

 今すぐにここを去れ!」


 悲しいとは思わなかった。ホッとしている自分に私は驚いていた。

 ようやく自分が偽りの生活から解放されたのだった。


 私はソファテーブルの上に置かれた、光一郎の読みかけの本のタイトルを見た。

 それはドストエフスキーの『罪と罰』だった。


 私は何も言わずに自室に向かい、貴重品と必要な物だけをキャリーケースに詰めると、そのまま黙って家を出た。

 娘の紅葉の顔は敢えて見ないようにした。

 離れることができなくなりそうだったからだ。


 「おせわになりました」


 私はそれだけ言って家を出た。

 光一郎は何も言わなかった。




 冷たい夜空に輝くオリオン座を見て、私はようやく涙が溢れて来た。

 私は携帯を取り出すと、聡に電話を掛けた。


 「もしもし、遥?」

 「迎えに来て」

 「えっ?」

 「早く迎えに来て! 今すぐに!」



 遥は声をあげて思い切り泣いた。


第23話 愛を感じない

 聡の性技は格段に進歩していた。

 付き合っていた頃のそれとは異なり、女を学んでいたようだ。


 おろらくそれは前の奥さんから仕込まれたものだろう。

 絶妙な愛撫の強弱、ねっとりとしたとろけるような口づけ。

 乳首も舌で転がされ、甘噛みされて強く吸われた。


 以前は興味を示さなかった私の背中にも、つつーっと舌を移動させ、それを何度も繰り返しながら、焦らすように両手で乳房を揉みしだいたりもした。


 「はあ、ん、んんっ」


 アナルを舌で舐められながら、中指でGスポットを攻められ、私を翻弄した。


 冴島に女を開発された私は絶叫し、何度も果てた。

 私も負けてはいなかった。

 若い頃の私は聡のセックスに対して受け身だったが、今は違う。

 男の性感帯やその慰め方も冴島から学んでいたからだ。


 私たちは久しぶりのお互いの身体を貪りあった。

 私は冴島を失い、家族も失った。

 そして聡も家族を失い、職も捨てた。


 私と聡は失った時間を埋めるかのように、狂った獣になって行為に耽った。

 たっぷりと濡れた私の花弁に聡は自身を激しく打ち付け、その度に私は歓喜の声を上げた。


 「あん、あん、あん、あん・・・」

 「遥、遥・・・」


 聡は私の名を呼び続けたが、私はただ喘ぐだけで無言だった。


 

 時を忘れたふたりに、いつの間にか夜が明けようとしていた。

 聡の懐かしい腕に抱かれ、私は言った。

 

 「私ね、バチが当たったの。結局、すべての愛を失ったわ・・・」

 「そんなことはないよ、僕がいるじゃないか」

 「聡とはもうダメ、エッチは出来てもあなたを愛することは出来ない」

 「そんなことは言わないでくれ、必ず僕は遥の愛を取り戻してみせる」

 「でももう遅いの。あなたに抱かれている時、思ったの。この人とはやっぱり一緒に暮らせないと」

 「なぜそんな風に思うんだ、僕は今も遥を愛している」

 「聡、男と女は違うのよ、特に子供を産んだ女はね。

 愛せないんじゃなくて、愛を感じなくなったの、あなたに」

 「これから俺はどうすればいいんだ?」

 「さよならするしかないでしょうね」

 「そんなの絶対に嫌だ、俺は遥を愛しているんだ、僕には遥が必要なんだよ!」

 「聡、いい加減に気付いて頂戴。私があなたに興味がなくなったのは、あなたのそういう独りよがりなところなのよ。自分はどうすればいいんだじゃなくて、私に聡が何が出来るかでしょう?

 もう終わりにしましょう、聡を嫌いになりたくないから。

 でもうれしかった、あなたにそんな風に愛されて。

 例え終わった恋でも、女は男からいつまでも想われていたいものだから」


 私はそのままベッドを降りると、シャワーを浴びに行った。

 放心状態の聡を遺したままで。




 私は実家に戻り、母に今回の顛末を話した。

 母はじっと私の話を聞いて、最後にこう言った。


 「遥、人生はね、しあわせに生きるためにあるのよ。

 あなたが決めた事ならお母さんは何も言わないわ。どんなことがあっても私はあなたを守ってあげる、だから安心しなさい」


 私は声をあげて泣いた。

 無限の母の愛を感じ、母に心配を掛けたことを後悔した。


 これから本当の意味での私の人生が始まろうとしていた。


第24話 落とし前

 光一郎はロサンジェルスに向かう機内にいた。

 今まで人と争うことを光一郎は避けて来た。

 それが自分が傷付かない唯一の処世術だと思っていたからだ。


 だが、今回、光一郎は初めて人を憎んだ。

 怒りの炎に包まれた光一郎は、サンディエゴの冴島に会うことを決めたのだった。




 五菱商事のサンディエゴ支店に光一郎は冴島を訪ねた。


 受付の白人女性に光一郎は英語で用件を伝えた。


 「冴島支店長にお会いしたい」

 「アポイントメントはございますか?」

 「君島遥の夫だと伝えてくれれば分かる」



 するとすぐに冴島がやって来た。


 「初めまして、冴島です」


 その瞬間、光一郎は何も言わず、いきなり冴島の左頬を殴りつけた。

 すぐにガードマンが駆け付けると、光一郎に銃を構えた。


 「両手を挙げろ!」

 「NO! 何も問題はない!」


 冴島が叫んだ。

 

 「申し訳ありませんでした。君島さん、すべての責任は私にあります、気が済むようにして下さい」


 すると冴島はゆっくりと立ち上がり、光一郎の前に立った。

 

 「私はあなたに会って謝罪すべきだった。だが信じて欲しいんです、私はあなたから逃げたのではなく、奥さんから、いや、奥さんを諦められなくなりそうな自分から逃げたのです。

 償いはさせていただきます。本当に申し訳ありませんでした」


 冴島はそう言うと、そのままそこに土下座をし、床に額を着けて光一郎に詫びた。


 「私は遥に浮気されました。いや浮気ではなく本気だったのかもしれない。

 私は遥を責める気はない、浮気される自分に男としての魅力がなかったからだ。

 だが、あなたは許せなかった、だから日本からわざわざここまで来た。

 私たち家族の平穏な日常を奪ったあんたを、俺は憎んだ」


 冴島は頭を上げることはなかった。


 光一郎は冴島の脇腹を蹴り上げた。するとガードマンがそれを制した。


 「それくらいにしてやれ、もういいだろう?」


 冴島は言った。


 「いいんだ、その人を放してくれ、すべて俺のしたことだ、俺はこの人から罰を受けなればならないんだ!」


 黒人のセキュリティは光一郎を放した。



 「最初の1発は私の分、そしてさっきのは娘の紅葉の分だ。

 立て! 顔を上げろ、そしてこれが遥の分だ! おまえに弄ばれ、捨てられた遥の!」


 光一郎は冴島の胸倉を掴み、冴島の顔面を殴りつけた。



 鼻血を出して俯く冴島。

 冴島の血が、ポタポタと白い大理石の床に落ちた。

 光一郎はそのままエントランスを出て行った。




 西海岸のカリフォルニアシャワーの陽射しと、爽やかな海風が吹いていた。


 光一郎は近くのハンバーガースタンドでコーラとハンバーガーを注文し、ビルの屋上にたなびくたくさんの大きな星条旗を眺め、泣きながらそれを食べた。


 冴島を殴った右手の痛みを感じながら・・・。


第25話 愛しのレストランテ『ナポリの黄昏』

 私は久しぶりに『ナポリの黄昏』にやって来た。

 高島の作るお気に入りのヒラメのカルパッチョを肴にビールを飲んでいた。


 

 「どうしたんですか? 今日の遥さん、元気がないみたい」


 カメリエーラの加奈子が言った。



 「私ね、家を追い出されちゃった」

 「えっ、どうしたんですか? 何があったんですか?」


 私は残ったビールを飲み干した。


 「原因はね、私の浮気・・・。

 加奈ちゃん、ビールお替り」

 「大丈夫ですか? もう7杯目ですよ?」

 「もうじゃなくて「まだ」7杯目よ、大丈夫、私、ビールじゃ酔えないから。 

 こんなのただの麦ジュースよ」


 すると小室がブラッディオレンジジュースを私の前に置いた。

 それは紅葉が好きだったジュースだ。

 私は紅葉を思い出して泣いた。


 「紅葉・・・」


 小室が加奈子に言った。


 「今日はお客さんもいないし、少し早いけど加奈子、閉店だ、看板を仕舞って来てくれ」

 「わかりました」

 

 加奈子は店仕舞いを始めた。


 「さあ、今日は遥さんの貸し切りだ! みんなで飲もう、そして食べようじゃないか!」


 オーナーの小室がチンザーノのボトルを開け、私とみんなのグラスにそれを注いだ。


 「じゃあ乾杯だ! 遥さんの新しい人生の門出に、Saluti!」

 「Saluti!」

 「オーナー、Cincinじゃないんですか?」

 「何それ高島さん、下ネタ?」

 

 加奈子が笑った、私も笑った。


 「やだなー、知らないのー? イタリアでは乾杯する時、チンチンって言うんだよ」

 「中国語の「さあどうぞ」を、「#請請__チンチン__#」と言うところから来ているという説もある。

 本当かどうかは俺も知らないけどな?」

 「じゃあ俺、何か作って来ますね?」

 「飛び切り旨いのを頼むぞ、遥さんのためにな?」

 「俺の作る料理はみんな最高ですよ!」

 「料理はな?」

 「あはははは」


 高島はギャレーに入って料理に取り掛かった。


 「私、ある人と不倫していたんです。本気でした。

 でも、その人にも家庭があって、私のことで奥さんが自殺を図ったんです、未遂でしたけど」

 「それは厳しいね?」

 「結局、別れることにしました。

 その人は家族を連れて海外に転勤してしまったんです」

 

 高島はフライパンを煽りながら言った。


 「俺にはそんな経験ないからわからないけど、それだけ遥さんを夢中にさせたその男性には興味があるなー。

 おそらくそういう人は男にもモテるんだろうなー」


 高島はフライパンにブランデーを注ぎ、フランベした。

 上がった炎がとても美しかった。


 「すごく素敵な人でした・・・」

 「Love is the blindかあ。でもそれは恋だよ、愛じゃない。少なくとも今回はね」


 小室はハモンセラーノを私に勧めてくれた。


 「恋と愛は違うんですか?」


 加奈子が小室に訊ねた。


 「それは違うよ、恋は憧れであり、相手に求めるものだ。でも愛は違う。

 愛は自分を捧げること。愛は give and give なんだよ、与えて与えて与え尽くすこと、それが愛だ。

 その人は奥さんが自殺をしようとして、遥さんを捨てた。

 それは愛じゃない、それは恋だ。

 すべてを捨て、他人の不幸を犠牲にしてでも貫くのが真実の愛だ。

 たとえ地獄の業火に身を焼かれようとも。

 まあそんな男は人間としては最低だけどな? 本当の恋愛とは、明日のない命懸けの物だよ。

 それに、そう考えれば諦めもつくだろう?」

 「経験者は語るですか?」


 加奈子は笑った。


 「さあな、でも理想ではあるよ、そんな恋愛がしてみたいとね?」

 「私には無理だなあ、人のしあわせを踏み躙ってまでしあわせになりたいなんて度胸、私にはありません。

 人の不幸を土台にして、幸福のお城は出来ないもの。 

 あっ、ごめんなさい、遥さんのことじゃないですよ」


 加奈子はそう打ち消すとした。それは加奈子も私と同じ、道ならぬ恋に苦しんだ過去があるからだった。


 「しあわせになんかなろうと思わなかったわ。なりたいとも思わなかった。

 私は意気地がなかったのよ、私も彼もそれで目が覚めただけ・・・。

 でもね、夫はそれに気付いていたの。でも見て見ぬフリをしていた。家族を守るために。

 だからバチが当たったのね? 同時にふたつの幸せを失ったわ、それからもう1つも・・・」

 「まだあるんですか?」

 「加奈ちゃんも知っているでしょう? 前の婚約者の聡。

 彼がこの前突然現れて、奥さんと離婚したから私とやり直したいって言われたの。

 でもダメだった、そこに愛は感じなかった。

 あんなに好きだったのに、全然ときめかないのよ、不思議よね?」


 小室が言った。


 「それも本物の愛ではなかったということだよ。いいじゃないかな? それで。

 遥さんにとって、すべては人生の厳しいリハーサルだったんだから。

 唐辛子の入っていないペペロンチーノはペペロンチーノじゃないだろう?

 人生に辛さは必要だよ、それが人生を美味しく味付けしてくれる」

 「人生のリハーサル?」

 「そう、これからが本番。

 遥さんの本当の人生はこれからが幕開けだよ。

 すべては終わったこと。過去の事だ。人生は遣り直せないが、辛い過去は忘れることは出来る。 

 人はしあわせになるために生まれたんだからね。

 ではもう一度、遥さんのこれからのしあわせな人生に、乾杯!」



 遥たちは再びグラスを合わせた。


 これからの遥の人生の船出に。


最終話 夜の観覧車

 日曜の午後の昼下がり、私と光一郎は南青山のカフェにいた。

 店は休日ということもあり、混雑していた。



 「紅葉は元気にしているの?」

 「いつも「ママはどこ?」ってベソをかいているよ」

 「お願い、紅葉に会わせて」


 光一郎は珈琲を啜り、大通りを歩く人に視線を移した。


 「みんな、幸せそうだよな? 悩みなんてないんだろうな? きっと。

 先日、冴島に会って来たよ。アメリカのサンディエゴまで行って来た」

 「えっ? どうしてそんなことをしたの!」

 「思いっきり殴ってやった、3発も」

 「・・・」

 「1発は僕の分、もう1発は紅葉の分、そして3発目は遥、君の分だ。

 彼は抵抗しなかったよ、僕に詫びて土下座までしていた。

 そしてこれは彼が依頼した弁護士から渡された慰謝料だ。

 もちろん僕が要求したわけではない。彼が勝手に寄越した物だ。

 示談にして欲しいと弁護士から言われ、僕は示談同意書にサインした。

 それがこの300万円だ。

 これで彼も救われるはずだ。ケリはついた。ノーサイドだよ」


 光一郎はその現金が入った封筒を私の前に置いた。


 「こんなお金、受け取れないわ。

 だったら家のローンの返済にでも使って。あのマンションは私たちふたりで買った物だから。

 月々のローンは私も半分負担するわ。

 だからお願い、紅葉に会わせて頂戴、お願いします」


 私はテーブルに頭をつけて光一郎に懇願した。


 「別に構わないよ、紅葉も君に会いたがっているからね?

 遥、僕は君を責めちゃいない、僕は自分を責めているんだ。君から愛されなかった自分をね?

 僕にとって君はずっと憧れだった、君が大好きだった。

 でも君は僕を愛してはくれなかった。

 僕はこれで目が覚めたんだ。僕と紅葉の住むシルバニアファミリーに、君を無理矢理閉じ込めてしまっていたことに。

 君にはこれから自分の人生を生きて欲しい。

 もちろんそれは僕も同じだ。

 すべては終わったことなんだよ、紅葉もじきに大人になって恋をして家を出て行くだろう。

 そして紅葉はいつか君を理解してくれるはずだ。

 子供にとって親は、ただ頼れる存在であればそれでいいと僕は思う。

 紅葉が自分の人生に躓いた時、助けてあげられる存在であればそれでいいんだ。

 時々、紅葉にも会ってあげてくれ、紅葉には君という母親が必要だ」

 「ありがとう、あなた・・・」


 私は泣いた。

 誰に憚ることなく泣いた。

 そして気付いた、本当に自分を愛してくれていたのは光一郎だったのだと。



 

 遥はその日の夕暮れ、花屋で黄色い薔薇を4本買った。

 そしてそれを持って、ひとりでお台場の観覧車に乗った。


 日は沈み、東京の街は銀河のように沢山の光で輝き始めた。

 ゆっくりと上昇してゆく観覧車。


 観覧車がやがて頂上に差し掛かると私は窓を開け、その薔薇の花びらを一枚ずつ窓から捨て始めた。

 黄色い薔薇の花びらが夜風に吹かれ飛んでいく。


 その4本の薔薇は1本が冴島、もう1本が聡、そしてもう1本は光一郎だった。

 そして最後の4本目の薔薇は、今までの私自身だった。


 私はすべての薔薇の花びらを捨て去り、観覧車はゆっくりと地上に降りていった。

 

 

 観覧車を降りると、私はそのまま海に向かって歩いて行った。

 そして花びらがなくなった4本の薔薇を、暗い海に投げ捨てた。


 遠くから出港を告げる船の霧笛が聞こえた。

 

 東京湾の海風が、やさしく私の体を吹き抜けて行く。



 振り向いた遥は、より美しい可憐な薔薇となって再び歩き始めた。

 勇気と信念を持って。



 煌めく高層ビルの谷間から、スーパームーンが青白く浮かぶ夜だった。


                       『棘のない薔薇』完



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【完結】棘のない薔薇(作品230327) 菊池昭仁 @landfall0810

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