【完結】ファムファタール(作品240424)

菊池昭仁

ファムファタール

第1話

 それは激しい雨の晩だった。


 取引先の専務を接待するために、上司の杉山課長と私は名の知れた銀座の高級クラブ、『紫苑しおん』にやって来た。

 タクシーの助手席に座っていた私は、すぐにタクシーを降りて専務に傘を差した。


 「すまんねー、君。僕は大丈夫だ。君が濡れてしまう」

 「お足元が悪いのでお気をつけ下さい」

 「ありがとう、すまんね?」


 大した距離ではない。タクシーを降りて、店まで4、5歩程度の距離だった。

 課長は先に降りて、店のドアを開けて専務を待っていた。



 店の中はまるで別世界だった。

 天井には豪華なスワロフスキーのシャンデリアが輝き、靴が沈み込むような絨毯が敷き込まれていた。


 そして眩しいほどの美しいホステスたち。

 私がたまに顔を出す、1時間3,000円の安キャバとは雲泥の差だった。



 「いらっしゃいませ」

 「前島建設の杉山です」

 「前島会長から伺っております。どうぞこちらへ」


 私たちはマネージャーらしき男に案内され、奥のボックス席に陣を張った。


 普通の高級クラブならママが応対するところだが、我々のような接待サラリーマンにはママもチイママも接客には出て来ない。


 「来てもらっている」ではなく、「来させてあげている」。そんなスタンスがここにはあった。


 だがそれも無理はなかった。

 客の殆どはテレビで見かける芸能人やスポーツ選手、政財界の大物たちばかりだったからだ。

 奥のボックス席では有名野球選手がホステス5人を充てがわれて上機嫌だった。



 私たちのテーブルにはホステスが4人就いた。


 「いらっしゃいませ。初めまして麗香です。

 本日はご指名をいただき、ありがとうございます。

 あら大変、雨でスーツが台無し」


 麗香はヴィトンのハンカチをさりげなく胸元から出すと、専務の背広についた雨を丁寧ていねいに拭った。


 まるで真珠のような肌、ゆるやかに流れる絹のような黒髪。吸い込まれてしまいそうな潤んだ瞳。

 今までに出会ったことのないほどの「いい女」だった。




 接待も終わりに近づいた頃、おもむろに専務が言った。


 「今日はとても楽しかったよ。雨ではあったが楽しい夜だった。

 新社屋の件、社長に話して置きます。

 これからもよろしくお願いしますね?

 今日は本当にご馳走様でした」



 私と課長は専務をハイヤーまで見送った。



 「これは奥様へのおみやげでございます。

 すみません、折角のご家族の団欒だんらんを邪魔してしまいまして」


 その菓子折りは私が1時間も並んで購入した、『大正堂』の羊羹ようかんだった。

 専務の奥さんの好みは既に調べておいた。

 そしてその手提げ袋の中に、極めて自然に課長の杉山が封筒を忍ばせた。


 「ほんのお車代でございます」

 「どうかお気遣いなく」

 「いえ、そんな大袈裟なものではありません。正式に弊社に御下命をいただきました際には、改めてご挨拶をさせていただきます。

 何卒、弊社をよろしくお願いいたします」


 封筒の中身は折り目のない、手の切れそうな新札で10万円が入れてある。

 それはこの工事の受注のための「入場料」のような物だった。



 私と課長は専務を乗せたハイヤーが角を曲がるまで、雨の中を頭を下げ続けて見送った。

 雨はもうすっかり小降りになっていた。



 「お疲れ。さあ飲み直しだ」

 「はい」


 私たちはようやく接待の緊張から解放され、商談も卒なく進み、安堵した。



 「いいか貝塚、接待の基本は相手になり切ることだ。

 自分がゲストだったらどういうふうにもてなしを受けたいかを絶えず考える。

 それと準備だ。準備を怠るな。

 そしてさらに重要なのがサプライズだ。

 ゲストが予想もしていなかった驚き、つまり感動の演出が勝敗を分けると言っても過言ではない。

 それを強く相手に印象付けることだ。

 相手が大物であればあるほど、勉強になるものだよ」

 「今日はとても勉強になりました」

 「疲れたな? 飲もう」


 麗香が課長の太腿にさりげなく手を置いた。 


 「お疲れ様でした、杉山課長さん。さあどうぞ」


 バカラのグラスに注がれたヘネシーのXOが、麗香の手から杉山に渡された。




 帰り際、麗香が私の耳元で囁くように言った。


 「この先に『幸村』と言う小料理屋があるの。

 そこで待ってて、1時間ほどしたら私も行くから」


 麗香の香水は見覚えのある香りだった。

 シャネルのアリュール。

 女房の冴子がつけている香水と同じだったからだ。




 私は課長と別れた後、半信半疑で麗香の指定したその店で麗華を待った。

 銀座の高級クラブのホステスが、初めて会った自分のような若造を誘うのはどう考えてもおかしい。

 だが女優のような麗香を独り占め出来るのであればそれも悪くはないと私は思った。



 約束通り、1時間ほどして麗香が私服で店に現れた。



 「久しぶりね? 弘君でしょう? 貝塚弘君」

 「どうして俺の名前を知っているんだ? 名前まで言ってなかったよな? 苗字しか」

 「忘れたの? 綾乃だよ、高校の時のクラスメイトだった木村綾乃」


 そう言って麗香は勝ち誇ったように微笑んだ。


 「綾乃って、あの木村か?」

 「そうよ、驚いたでしょう? 私もびっくりしちゃった。

 偶然ってあるのね? この広い東京で、女子の憧れだった弘君に会えるなんて」


 それが私が腐食されていく、いや、カマキリのオスがメスのカマキリに交尾をしながら喰われて行く始まりだった。


 


第2話

 「あ~、お腹空いたー。大将、今日のおすすめは?」

 「今日は気仙沼産のカワハギかな? お造りが旨いよ、肝醤油で」

 「じゃあそれと冷やで、『九重桜』をお願い」

 「ハイよ」



 綾乃は升のなかに入れられた、表面張力でいっぱいになっている酒のグラスに顔を近づけ、酒を啜った。


 「おいしい! お仕事の後の一杯はたまんないわねー。

 ビックリしたでしょ? 私もびっくりしたもん。

 まさかあんなところで弘君に会うなんてね? 凄い偶然。

 湘南の砂浜で、沖縄の「星の砂」の一粒を見つけたみたいよね? これって運命かも? 

 あのお店って座っただけで5万円でしょう? 私たちみたいな若い人にはあまり縁のないお店だから、同級生の弘君に会えるとはねー。 

 接待、お疲れ様でした」


 私たちはグラスを合わせた。


 「俺も驚いたよ、だって・・・」

 「私、キレイになったでしょう? うふっ」


 綾乃の言う通りだった。

 高校生の時の綾乃の渾名は「顔無し」だったからだ。

 眼は一重で腫れぼったく、色白ではあったがあまり笑わない女子だった。

 私には「顔無し」が笑っていたという記憶がない。


 成績は中の下。友人もなく、集合写真ではいつも端に写っている、そんな女子だった。

 その綾乃が・・・。


 「私ね、整形したの。全部で890万円もかかっちゃった。

 今度は少しアゴを細くしようかと思ってるの。綾瀬はるかみたいに。

 驚いたでしょ? あの「顔無し」の私が別人になるなんて。

 綾乃という名前、ずっとキライだった。

 そんな名前の似合う顔じゃなかったから。

 両親を恨んだわ、あんな顔の私に綾乃なんて名付けた親を」


 私には返す言葉が見つからなかった。

 私もそんな綾乃を友人たちと笑っていたからだ。



 「ホント木村って「顔無し」みてえだよなあ? たまには笑ってみろよ。

 ブスが余計にブスに見えるぜ。あはははは」



 その綾乃が女優のように美しくなって、私とこうして酒を飲んでいる。

 まるで夢を見ているようだった。


 「私、変わったの。変われたのよ、私。

 綾乃じゃなく、麗香として。

 あのお店でナンバーワンの麗香としてね?」

 「東京にはいつ?」

 「大学からずっと東京だよ。

 弘君は早稲田だったよね? 頭が良くて女子に人気があったもんね?」


 東京の大学に進学していた同級生たちとは年に何度か、同級会のようなものを開いていたが、「顔無し」のことは時々酒の肴にはされていたが、同級会に綾乃は呼ばれることはなかった。

 私たちは彼女が東京の大学に入ったことすら知らなかった。


 「私みたいな名前が書ければ入学出来るような、無名の私立大学とは違うもんね?

 それで今はゼネコンで営業しているわけだ。エリートだね?」

 「エリートなんかじゃないよ。ただの小間使だ。

 今日だって見ていただろう? クライアントに米つきバッタみたいに頭を下げる情けない俺を」

 「ううん、かっこいいと思った。プライドを捨てて一生懸命な弘君が」


 綾乃の血管すら薄っすらと透けて見えるような透明感のある手が、私の手に重ねられた。

 それはとても冷たい手だった。まるで死人の手のように。




 酔いの勢いもあり、私は躊躇ためらうことなく綾乃を抱いた。

 エクスタシーの中に漂う綾乃の喘ぐ表情と声には、もう「顔無し」の面影はなかった。



 「弘君! 弘君なのね! いいわ、とってもいいの! すごいのすごくいい!

 ねえ、イッてもいい? もう限界! あうっ、ダメ、いっくうー!」


 たとえそれが綾乃のフェイクだとしても、私は彼女に夢中だった。


 氷のように冷たい綾乃のカラダは、まるでイルカやジュゴンを抱いているようだった。

 長い航海を続けていた昔の船乗りたちが、ジュゴンやマナティを人魚と見間違えたというが、私も綾乃という人魚を抱いているようだった。



 「弘君って上手だね? セックス。 すごく感じちゃった。

 なんだか恥ずかしい・・・。

 私、あの時の声が凄く大きいでしょう?」

 「すごく良かったよ。ここもすごく締まるんだね? 中に手があって掴まれているみたいだった」

 「ばか、エッチ・・・。弘君、結婚は?」

 「3歳になる子供もいる。男の子がね?」

 「そう。そうだよね? 弘君モテるもんね?」


 綾乃は私の胸に顔を乗せた。


 「奥さんがいても、私とまた会ってくれる?」

 「多分」

 「多分かあ。そうだよね? 奥さんは裏切れないもんね?」


 その時私は、これはただの遊びにしか考えてはいなかった。

 



 私は結婚して初めて妻を裏切り、朝帰りをした。そして女房の冴子に初めてウソを吐いた。



 「参ったよ。接待が上手くいって、杉山課長が中々離してくれなくてさ」

 「ご苦労様。寝てないんでしょう? 大丈夫?」

 「ああ、まだ若いからな?」

 「無理しないでね」


 そんな私を気遣う冴子のやさしさに、私は胸が痛んだ。


 冴子も同じ高校のクラスメイトだった。

 もちろん「顔無し」のことも知っている。

 だが冴子には「顔無し」と会ったことはなぜか話さなかった。

 冴子は「お茶の水」で私が早稲田。結婚は自然な成り行きだった。

 それは綾乃との付き合いが、永く深いものになる予感がしたのかもしれない。

 私は冴子の注いでくれた冷たいレモン水を飲んだ。

 酒飲みの先輩がよく言っていた。


 「酒を飲んだ翌朝に、寝て起きた最初の一杯の水の旨さ、俺はその一杯のために酒を飲むようなもんだ」


 そして今日、私もそれを実感した。 


 



第3話

 会社で事務処理をしていると携帯が鳴った。綾乃からのLINEだった。


   

    今日はお店を休んだの

    仕事が終わったら会えない?


                   了解

                   後で電話する


    愛してるわよ 弘




 私はまた綾乃の美しいカラダを抱けるのかと思うと、ソワソワして嬉しくなった。



 「貝塚さん、LINEなんか見て、何をニヤニヤしているんですか?

 奥さんからのラブ・メッセージですか? それとも綺麗な愛人だったりして?」

 「バカ野郎。取引先だよ」

 「怪しいなあ。たまにはゴハン、連れて行って下さいね?」

 「ランチならいつでもいいぞ」

 「ランチじゃなくてディナーがいいなあ。貝塚さんとお酒が飲みたい」

 「そのうちな?」

 「約束ですよ」


 そう言って営業事務の森山沙都子が去って行った。

 小さな尻が左右に揺れていた。




 私と綾乃は上野の焼肉屋にいた。


 「ナンバーワンのお前がよく店を休めたな?」

 「今日は女の子だからってママに嘘を言って休んじゃった。うふっ 生理はまだ来てないけどね?」

 

 綾乃はそう言って笑うと、塩タンを口にし、旨そうにビールを飲んだ。

 

 (本当にこの眼の前にいる女があの「顔無し」なのか?)


 私にはとても信じることが出来なかった。


 「さあ弘もたくさん食べて飲んで。

 今夜もまた、がんばってもらわないといけないんだから」


 私は再び始まる行為を想像し、欲情した。


 「ハラミも食べるか?」

 「ニンニクの素揚げと、オイキムチもお願い」


 私たちはよく飲み、よく食べた。




 その日の綾乃はさらに奔放ほんぽう大胆だいたんだった。


 「あ あ あ うん あう はあ はあ・・・ いや、だめ・・・。そう、それがいいの」

 「はあ はあ はあ はあ」


 私も綾乃をイかせるため、激しくバックから腰を打ち付けた。


 「すごい すごくいい! 弘! お顔にかけて! あなたのザーメンを私にかけて!」


 私は体位を正常位に変え、再び律動を繰り返した。

 見れば見るほど美しい女だと思った。


 すると突然、綾乃が潮を吹いた。

 温かい感触がペニスを包んだ。

 私はさらにピストン運動を加速させ、クライマックスの直前でそれを素早く抜き去ると、綾乃の美しい顔に射精した。

 私は部屋にスプレーで落書きをしたような恍惚的背徳感に襲われ、激しいエクスタシーを感じた。

 私は満足だった。男は美しい物を汚すことで征服感を満たす動物だからだ。


 

 少しの間、綾乃のカラダが痙攣けいれんし、正気に戻った彼女は口のまわりに飛び散った精子を妖艶に舐めた。


 「弘のザーメン、美味しい・・・」


 その言葉で私は現実に引き戻された。

 妻の冴子に対する激しい罪悪感が私を襲った。


 「どうしたの? 私、よくなかった?」

 「やはりもう会うのは辞めよう。これ以上お前といたら、俺は家族を失うことになりそうだから。

 俺は家庭を手放すつもりはないんだ。すまない」


 綾乃はベッドから降りて、テーブルの上の俺のタバコを咥え、火を点けた。


 「つまんない人。これからじゃないの、お楽しみは?」


 そう言って俺を見て笑う綾乃は、まるで白雪姫に出てくる魔女のようだった。

 俺は綾乃という「毒リンゴ」を口にしてしまったのかもしれない。


 「もう離さないわよ。だってゲームは始まったんだから。あはははは あはははは」


 (ゲーム?)



 その後も私と綾乃の逢瀬は、月2回ほどのペースで続いていた。

 綾乃との甘美なセックスは、妻の冴子とのおざなりなセックスとは違い、次第に私を綾乃の性のとりこにしていった。

 私はどんどん綾乃という沼の深みへとハマって行った。




第4話

 その日は残業で、時間は既に20時を過ぎていた。


 「貝塚さん、残業ですか?」

 「もう終わったよ。森山も残業だったのか?」

 「残業しようと思って待ってました」

 「残業しようと待っていた?」

 「貝塚さんとディナーのをするために会社に残っていました。

 ちょっとだけ、ゴハンに行きません? この前、約束したじゃありませんか?」


 森山は積極的な女の子だった。

 少しとぼけたところも見せるが、それは演技だと分かっていた。

 青山学院を出た才媛で、会社の役員の誰かと縁続きだという噂もある。

 仕事は完璧に卒なくこなす女だった。


 「それじゃあ軽く、一杯だけ行くか? 居酒屋でいいよな?」

 「居酒屋大好きです! 一杯だけじゃなく、10杯でもお付き合いしますよ。居酒屋最高!」


 私と沙都子はそのまま会社を出て、新橋へと向かった。





 私は無難な大手居酒屋チェーンに沙都子を誘った。


 「あー、美味しいー。貝塚さんとこうしてふたりでお酒を飲むのが私の夢だったんです」

 「好きな物を頼め。終電前には帰るぞ。タクシー代が勿体ないからな?」

 「今夜は帰りたくありません! なーんて言ってみたりして。うふっ」


 沙都子はかわいいだとは思うが、綾乃とは比べ物にはならない。

 今の俺は綾乃に夢中だった。


 「森山は結婚する気はないのか?」

 「貝塚さん、それってセクハラですよ」

 「あはははは そうなるのか? やっぱり」

 「そりゃあ結婚はしたいですよ、でも相手がいません」

 「大学時代の彼氏は?」

 「三ヶ月前に別れました」

 「そうか」

 「結婚って楽しいですか?」

 「楽しいよ、それなりにな」


 (楽しい? はたしてそうだろうか?)


 「そうですか。でも貝塚さんって最近、ご家族の姿を感じないんですよねえ」 


 俺はドキリとした。


 (家族の姿が見えない?)


 思えば綾乃と付き合うようになってから、私は家族と疎遠になっていた。

 私はメニューを広げ、沙都子に尋ねた。


 「このホッケの開きとホタテの刺身、食べるか?」

 「どっちも大好きです!」

 

 俺は店員を呼び、注文を伝えた。



 時間はもう23時を過ぎていた。


 「そろそろ帰るぞ。新橋の駅まで送って行くよ」

 「帰りたくない・・・」

 「安いトレンディドラマをやってるんじゃねえ。さあ帰るぞ」


 沙都子は渋々俺に従って店を出た。




 店を出て少し歩くと沙都子が道路にヘタり込んでしまった。


 「もう歩けない。どこかで休みたい・・・」

 「ほらちゃんと立って。今日はいつもより飲んでいないはずだぞ。しっかりしろ」


 俺は沙都子の意図していることはわかってはいたが、敢えて無視した。

 綾乃だけでもいっぱいいっぱいなのに、会社の女の子との不倫は絶対に避けなければならない。


 その時俺の携帯が鳴った。綾乃からだった。

 

 「もしもし。うるさいけど今、外なの? 電話しても大丈夫?」

 「ああ大丈夫だ。今、新橋で会社の子と食事をしてこれから帰るところだ」

 「そう? 新橋のどこ?」

 「JRの駅の近くだ」

 「今からタクシーで迎えに行くからそこで待ってて」

 「会社の子が酔いつぶれてこれからタクシーで家まで送って行くから後で電話するよ」

 「その女とヤルつもり?」

 「まさか」

 「後でチェックするわよ」


 それだけ言うと綾乃は一方的に電話を切ってしまった。


 「貝塚さん、浮気しているんですね?

 いーけないんだあ、いけないんだあ。おーくさんに言ってやろー」

 「ただの飲み屋の営業電話だ。勘違いするな」

 「ウソ! 絶対にウソ! あんなにデレデレした貝塚さん、見たことないもん。

 私を甘く見ないで下さいよ? あははは」

 「それだけ冷静な分析が出来るなら自分で帰れるな?」

 「こんな夜中にレディをひとりで帰すんですか? さっきはタクシーで送るとか言ってましたよねえ?」

 「わかったわかった、タクシーで送ってやるよ、お前の家まで」

 「やったー! 今日は私のところに泊まって行って下さいね?

 そうじゃないと奥さんに言いつけますからね!」


 

 私は新橋でタクシーを拾い、沙都子を家まで送ることにした。

 早く綾乃と会うために。




第5話

 「ここですよ、私の家」


 沙都子のマンションは神田にあった。

 広いエントランスホールのある、豪華なマンションだった。


 「ここはウチの会社が建てたマンションじゃないか!」

 「そうですよー。このマンションは父が買ってくれたんです、かわいい娘のために。

 叔父がウチの会社のお偉いさんなんで安くしてもらっちゃいました」

 「その役員って誰だ?」

 「専務の長嶋ですよ。専務は私の母の兄なんです」


 私は驚いた。


 (まさか次期社長と呼び声の高い長嶋専務が沙都子の叔父だったとは)


 「それじゃあな。おやすみ」

 「それじゃあなって何ですか? ちゃんとお部屋の前まで送って行くのが紳士の礼儀でしょ? 貝塚さん?」

 「ここからならもういいだろう? それに夜中にひとり暮らしの女性の部屋まで行くことの方が、紳士とは言えないよ」

 「いいじゃないですかあ。玄関ドアの前まででいいですからあ」

 

 私は躊躇ちゅうちょしたが、ここで冷たくあしらうのは危険だと判断した。

 専務に何を言われるかわかったものではないからだ。


 「じゃあ玄関までだぞ」

 「はーい」


 沙都子は俺と腕を組み、わざと自分の乳房を俺の腕に押し当てて来た。

 18階の角部屋が沙都子の部屋だった。


 「それじゃあおやすみ」

 

 すると沙都子は私にキスをして来た。


 「コラッ、ふざけるのは止めろ!」

 「ベッドまで運んで。お姫様抱っこで」

 「ふざけるのもいい加減にしろ、怒るぞ!」

 「怒れないくせに。私、言いましたよね? 長嶋専務の姪だって。

 貝塚さんのポジションなんか平気で変えられるんですよ? 私。

 どこがいいですか? 博多ラーメン? それとも札幌味噌ラーメン? そうだ、ベトナムのフォーチミンで「フォー」なんてどうです? フォーッ! なーんてね?」


 マズイことになってしまった。

 沙都子は最初からそのつもりだったのだ。


 「それじゃあ一杯だけ、珈琲をくれ。それを飲んだら帰るから」

 「わかりましたー! とびっきり美味しい珈琲を淹れて差し上げますからね?」


 私はこれからの展開をどうやってかわすかをシュミレーションしていた。


 

 そこは2LDKのマンションだった。

 殆ど室内に物はなく、まるで気取った建築家のオフィスのようにシンプルだった。

 間接照明と観葉植物のバランスと、壁に掛けられた東郷青児の女の絵とよく調和していた。


 沙都子は会社にいる時とは別人のようだった。

 沙都子はCDコンポのスイッチを入れた。

 スティービー・ワンダーが流れて来た。

 『Part Time Lover』の軽快なサウンド。


 「あっ、珈琲、切れてたんだった!

 ブランディでもいいですか?」

 

 キャビネットからブランディ・グラスをふたつ出して、ヘネシーのXOを注いだ。


 「はい、どうぞ」

 「趣味のいい部屋だな?」

 「ありがとうございます。これでも一応、大学では理工学部、数理サイエンス学科でしたからね?」

 「どうして技術研究開発部に行かなかった?」

 「だって、本当に好きなものは仕事にしない方がいいじゃないですか? うふっ」

 

 俺はブランディを二口だけ飲んで席を立った。

 

 「今日はありがとう、楽しかったよ」

 「まさか帰るんじゃないでしょうねえ? ここまで来て」

 「勘弁してくれ。俺には家庭が・・・」


 沙都子はそれには耳を貸さず、服を脱ぎ始めた。

 ブラとショーツだけの姿になった沙都子は均整のとれた美しいカラダをしていた。

 迷いがないといえば嘘になる。

 離婚して再婚、将来の出世・・・。


 その時スマホが鳴った。綾乃からだった。 


 「出ないでちょうだい!」


 私はその命令を無視して無意識に綾乃の電話に出てしまった。


 「今そこにいるその女に代わって」

 「それは・・・」

 「いいから早く!」


 私はあらがうことが出来なかった。

 私は静かに沙都子へスマホを差し出した。


 「もしもし・・・」

 「弘から離れなさい。そうじゃないと後悔することになるわよ」

 「あなた誰?」

 「弘のフィアンセよ。泥棒猫ちゃん」

 「ふざけないで! 彼は私の物よ。ずっとこの日を待っていたんだから!」

 「弘は私の獲物よ、あなたには渡さない。離れなさい! 弘から!」

 「イヤよ!」

 「アンタいい度胸しているわね? おバカさんなのね? 玄関のモニターを見てご覧なさい」


 恐る恐るドアモニターを見ると、そこに綾乃が立っていた。

 右手になたを持って。


 「キャーッ!」

 「どうした!」

 「お、女が玄関の、前に、屶を持って、立っている・・・」


 モニターをのぞくと、それは紛れもなく綾乃だった。


 


第6話

 「あの女は誰!」


 沙都子は酷く怯えていた。


 「高校時代の、同級生だ」

 「その同級生の女が私たちの後をつけて来たというの!」

 「どうもそうらしい」

 「付き合っているの? あの女と!」

 「ほんの成り行きだったんだ」

 「不倫しているのね!」

 「仕方がなかったんだ」

 

 綾乃がドアを激しく叩いた。


 「とにかく警察に連絡する!」

 「お願いだ、それだけは止めてくれ。

 例え逮捕されたとしてもおそらく執行猶予か、2,3年の懲役刑だ。

 そうなるとまた沙都子が狙われる恐れがある。

 僕がここを出ていけば丸く収まるんだ。分かってくれ沙都子」

 「・・・」


 沙都子は諦めたようだった。

 私はインターフォンで綾乃に話し掛けた。


 「今、出て行くから心配するな」


 綾乃は屶をバッグに仕舞った。


 「俺が出たらドアを閉めてすぐにロックしろ」


 俺はドアを開け、部屋を出て行った。



 「どうしてあんな小娘と一緒にいたの! 弘のバカ!」


 綾乃は私にすがって泣いた。


 「ごめん、何でもないんだ。かなり酔っていたから家まで送っただけだ」

 「すごく会いたかったの! 弘にすごく会いたかった!」

 「わかったわかった。さあ行こう。もうこんなことはするなよ」

 「うん、ごめんなさい」


 私は綾乃の肩を抱いて沙都子のマンションを出た。



 綾乃が待たせていたのか、タクシーがマンションに横付けされていた。


 「さあ行きましょう。寂しい私を慰めてちょうだい」



 私たちはタクシーに乗り、鶯谷のラブホ街へと向かった。




 ホテルに入ると綾乃は服を脱ぎ捨て、狂ったように俺を求めて来た。


 「落ち着け綾乃、今日は朝までお前と一緒だ」

 「ほんと? うれしい」

 

 俺は綾乃の乳房を揉みながら熱い口づけを交わした。


 「今日のルージュはとてもセクシーじゃないか?」

 「今夜のために三越で買ったの。素敵でしょ?」


 そう言って綾乃は私に再び濃厚なキスをした。



 私たちは何度もお互いを激しく貪るように愛した。

 部屋の中を綾乃のなまめかしい快感の喘ぎ声が彷徨っていた。



 何度目かのエクスタシーに満足してぐったりとなった綾乃を置いて、私はシャワーを浴びるため、浴室へと向かった。



 綾乃は貝塚が浴室へと入った隙に、貝塚のYシャツの裾にキスマークを付け、長い毛髪を一本抜いて、背広のポケットチーフにそれをそっと忍ばせた。

 綾乃はほくそえんでいた。

 綾乃が今夜、派手なルージュにしたのはこのためだったのである。




 私は家に朝帰りをすると、いつものように妻の冴子に言い訳をした。


 「昨夜も接待でマイッタよ」

 「朝食は?」

 「味噌汁だけでいい」

 「そう?」


 (石鹸と、私と同じアリュールの香りがする)



 夫の弘が会社へ出掛けた後、掃除と後片付けも終わり、脱ぎ捨てたYシャツを何気なく見た冴子は驚愕きょうがくした。


 シャツを脱がなければ付くはずのないYシャツの裾にキスマークを見つけたからだ。

 そしてポケットチーフを取り出した時、自分ではない長い髪の毛を見つけた。

 よく見ると背広にもファンデーションの跡がついていた。


 (私を裏切って夫が浮気をしている!)


 冴子は夫の不貞行為に半狂乱となり、掃除機を何度も床に激しく叩きつけた。

 掃除機のプラスチック部分が弾け飛んだ。





第7話

 出社するとすぐ、待ち構えていたかのように沙都子がやって来た。


 「これ、頼まれていた見積書です」

 「ありがとう」


 沙都子は私を睨みつけ、自分のデスクへと戻って行った。

 書類には水色の付箋が貼ってあった。



     死んでしまえ!



 俺はホッとした。これで沙都子に付きまとわれることもなくなったからだ。




 営業先をまわり、今日は綾乃との逢瀬もなかったので、駅前の洋菓子屋で冴子が好きなレアチーズ・ケーキを買い、家路を急いだ。



 「ただいまー、今日は残業も接待もなかったから、冴子の好きなレアチーズ・ケーキを買って・・・」


 すると冴子は私の手からケーキの箱を取り上げると、それをいきなり床に叩きつけた。


 「何をするんだ!」

 「あなた! 浮気してるでしょ!」

 

 冴子は口紅のついたYシャツと、ジップロックに入れた長くて細い、黒髪を私に突き出して見せた。


 「これは一体どうゆうこと! 説明して!」


 それは綾乃の仕業だった。

 私はいつかこんな時が来るかと、意外と冷静だった。


 「お前が悪いんだ、お前が俺を相手にしてくれないから」

 「相手にしてくれないですって? それで浮気したって言うの!」

 「浮気じゃない。五反田の風俗に行ったんだ」

 「風俗? 会社の女の子じゃないの?」

 「しょうがねえだろう? 男はそういう生き物なんだよ。溜ったら出したくなるんだ。

 まさか中学生じゃあるまいし、いい歳してマスターベーションでもしろって言うのか?」

 「風俗? 浮気じゃないのね?」

 「ああそうだ。五反田のラブホでデリヘルを呼んだんだ。

 その時の女がひでえブスだったから、「もっといい女はいないのか?」って言ったのを根に持って、その腹いせに悪戯いたずらしたんだろう?」

 

 冴子は少し落ち着いた様だった。


 「疲れていたのよ。毎日慣れない子育てで。

 あなたを拒んでいたわけじゃないの」

 「ごめん。家事も育児も冴子に任せっ切りで」

 「ううん、あなたへの配慮がなくてごめんなさい。

 でももう風俗なんかに行かないでね? 病気とか移されるとイヤだから。

 これからはスキンシップの時間は大切にするから」


 私は床に潰れて転がったケーキの箱を拾いあげた。

 

 「ぐちゃぐちゃになっちゃったな?」

 「大丈夫。箱の中でのぐちゃぐちゃだから。

 スプーンでそのまま掬っていただくわ。珈琲、淹れるわね?」

 「いいよ、今日は俺が淹れるから」


 少し心が傷んだ。だが嘘も方便である。どうせ綾乃とは一時の浮気である。

 私には家族を捨てるつもりはないのだ。



 その夜、久しぶりに冴子を抱いた。

 冴子はいつもとは違い、かなり積極的だった。

 いつもはしないオーラル・セックスも、愛おしむかのようにしてくれた。

 激しい息遣いと喘ぎ声。それは清楚な冴子からは想像も出来ない、まるで別人のようだった。




 朝、出掛けに冴子と息子の光太郎がキスをしてくれた。


 「行ってらっしゃい。気をつけてね?」

 「パパ、いってらっしゃあーい」

 「今日は杉山課長と前回の専務を接待するから遅くなる、夕食はいらないよ」

 「わかったわ。気をつけてね?」


 


 それから1週間後の事だった。私は杉山課長に会議室に呼ばれた。


 「お前、一体何をしたんだ? これか?」

 

 杉山課長は小指を立てて見せた。

 察しはついていた。左遷の話だ。

 どうやら沙都子の腹の虫は収まらなかったようだ。


 「配置換えですか? それとも転勤でしょうか?」

 「来月付けで仙台支店に転勤だそうだ。さっき、人事から俺に内示があった」

 「そうですか」

 「まあがっかりするな。サラリーマンに転勤は付き物だからな?

 俺もそのうち仙台かも知れん。

 奥さんと子供さんはどうするんだ?」

 「子供はまだ小さいですし、私も女房も実家が福島なので仙台は馴染があり、比較的近いので一緒に連れて行くつもりです」

 「そうか? 来週の金曜日あたり、営業二課で送別会を開いてやるから開けておけ」

 「お気遣いありがとうございます」




 俺は本社の休憩室にある、自動販売機の前で沙都子に言った。


 「何か飲むか? 今日付けで転勤になったよ。来月から仙台だそうだ」

 「それじゃあココアをお願いします。いいなあ、牛タンや笹蒲鉾が食べられて。

 本当は海外へも考えたんですけどね? 中国とか?アフリカとか?

 でもあんまり遠いと先輩に会いに行けなくなちゃうから仙台にしました。

 仙台なら新幹線で?時間半くらいですから。それにあの鬼婆も仙台まではついては来れないでしょうから。うふっ」


 俺は沙都子にココアを渡してその場を後にした。




 家に帰り、背広を脱ぎながら冴子に転勤の話をした。


 「来月から仙台支店に転勤だそうだ。お前たちも一緒に来てくれ」

 「仙台? いいじゃないの仙台なんて!」


 仙台には冴子の弟がいた。

 弟は東北大の研修医をしている。冴子の自慢の弟だった。

 冴子は仙台への転勤を喜んだ。 




第8話

 私は綾乃に詰め寄った。


 「口紅と髪の毛、どうしてあんなことをしたんだ?」

 「ちょっとらしめてあげたくなっちゃったの、弘の奥さんの事を。

 妻という名前に胡座あぐらを掻いているだけの女が。

 でも大丈夫。心配しないで、もうしないから。

 それより早くしましょう? 時間がないんでしょ? 早くお家に帰してあげないとね?

 愛する奥さんの元へ」




 「うっ あ うん あ あん お願い、もっと突いて、もっと、中に欲しい」


 (蕩けそうなこの感覚、やはり綾乃以上の女はいない)


 私は綾乃の中に出したい思いを必死にこらえ、綾乃の胸にまたがると、最後は自分の手でペニスをしごき、綾乃の胸に精液を放出した。

 綾乃のカラダがビクン、ビクンと魚のように跳ねた。

 俺は綾乃のカラダに掛けた精液をティシュで拭おうとしたが、


 「拭いちゃだーめ」


 すると綾乃は胸に残った精液を指に付けると、それを妖艶に舐めた。


 「おいしい、弘のザーメン。うふっ 弘も舐めてみる?」


 俺は綾乃に仙台への転勤の話をした。



 「来月から仙台に転勤することになった」


 意外にも綾乃は驚いたり戸惑ったりすることもなく、淡々としていた。


 「そう、仙台かあ、福島からも近いもんね? 奥さんとお子さんも連れて行くんでしょ?」

 「ああ、そのつもりだ」

 「仙台だと、もう今みたいに会えなくなるね?」 

 「東京本社で会議や研修もあるから、そのうちまた会えるよ」

 「冴子も喜んだでしょ? 弟さん、仙台でお医者さんだもんね? 冴子は弟思いだから。

 それに息子の光太郎君を育てるのにもいい所よね? 緑も多いし海も山もあるし」


 私は背中にべったりと張り付く恐怖を感じた。


 「どうして俺の女房が冴子だと知っているんだ! そして子供と義理の弟のことまで!」

 「だって、私と冴子は親友だもん」


 (冴子と綾乃が親友? 嘘だ! 高校時代、冴子が綾乃と話していることすら見たことはない!)


 私は急に綾乃が恐ろしくなった。

 

 (別れよう。もうこの女と会うのは終わりにしよう)


 私はそう思った。




 家に帰り、私は冴子に「顔無し」の話をした。


 「冴子、高校の時に同級生だった、「顔無し」のこと、覚えているか?」

 「ああ、いたわね? そんな渾名の子が。なんて名前だったっけ?」

 「木村綾乃」

 「そうそう、そんな名前だったかしら? 「顔無し」がどうかしたの?」

 「今日、同級生の雅人と久しぶりに昼飯を食べていたら、「顔無し」の話が出たんだ、冴子は覚えているかと思って。ただそれだけなんだけど」

 「もう顔も思い出せないなあ。どんな感じの子だったっけ? 高校以来会ってないし」

 「そうか・・・」




 そして仙台支店に赴任して1ヶ月が過ぎた頃、沙都子が仙台支店に配属になってやって来た。


 「みなさん初めまして、森山沙都子です。東京本社から来ました。

 杜の都、仙台は学生時代からの憧れでした。みなさん、よろしくお願いします」


 営業部から拍手が湧いた。


 「机は貝塚君の隣を使ってくれたまえ」

 「はい。貝塚さん、また一緒になりましたね? 感激です」


 沙都子は俺を見て懐かしそうに微笑んで見せた。


 「そうか? 貝塚君と森山さんは本社の営業二課で一緒だったのか?」

 「はい! 仕事の出来る貝塚さんと一緒に仕事が出来て光栄です!」


 そうして沙都子は早速仙台支店の「アイドル」になった。




 喫煙室でタバコを吸っていると沙都子がやって来た。


 「お久しぶりです、貝塚さん?」

 「凄いな? 君のチカラは。自由に好きな部署に移動出来るなんて羨ましいよ」

 「今度は私がどんどん偉くなっていきますよ。次期社長は叔父さんのようですから」

 「そうか、おめでとう」

 「今度、牛タン食べに連れて行って下さいよ」

 「俺じゃなくても他にイケメン社員は沢山いるだろう?」

 「私は諦めない女なんです。それじゃあ明日の夜、ごちそうして下さいね? 『太助』がいいなあ、いちばん美味しいから。『太助』はお客に媚びない牛タンだから好きなんです。 男も牛タンも、媚びないのが好き」



 だがその日、沙都子はいくら待っても店には現れなかった。

 携帯を鳴らしてみたが繋がらなかったのでLINEをしたが既読にもならない。


 


 翌日、会社は大騒ぎになっていた。


 「森山君がクルマに跳ねられて重症らしい」

 「えっ、森山君がですか!」

 「面会謝絶だそうだ。今、ICUに入院しているらしい」


 (沙都子が交通事故!)




 

 家に帰ると見慣れないパンプスが玄関に置かれてあった。


 (冴子のママ友か?)


 リビングから冴子たちの笑い声が聞こえていた。

 何気なくリビングドアを開けた時、私は恐怖のあまり言葉を失った。

 なんとそこにいたのは綾乃だったからだ。


 「あらあなた、お帰りなさい。今日、仙台三越のデパ地下でお買物をしていたらね、偶然、綾乃に会っちゃって。

 ほら覚えているでしょ? 同級生だった木村綾乃。

 びっくりしちゃった。どこの女優さんかと思っちゃったわよ、あまりにもキレイになってしまって。羨ましいわ」

 「お久しぶりです、貝塚君。相変わらずイケメンね? 覚えてる? 私のこと? 冴子と凄くお似合いの夫婦ね?」

 「良かったら綾乃も夕ご飯、一緒に食べて行ってよ」

 「ありがとう、でもこれから病院にお見舞いに行かないといけないから、また今度ね?」

 「誰が入院しているの?」

 「恋のライバルってところかな?」

 「そう、じゃあ気をつけてね? いつでも遊びに来て頂戴」


 私は背筋が凍る思いだった。

 そして綾乃は帰って行った。


 「今すぐゴハンの支度をするわね? 綾乃とおしゃべりして遅くなっちゃった」

 「ゆっくりでいいよ。先に風呂に入って来る」


 俺は浴槽に浸かり、呆然としていた。




最終話

 その日、綾乃は沙都子の病室の枕元に立っていた。


 「私があれほど忠告したのに。あなたってバカなの?

 また私の弘にちょっかい出したら、今度は確実に命をもらうからね? それじゃあお大事に」


 綾乃はコンソールに黒百合を置いて病室を出て行った。


 「う、ううう!」


 沙都子は痛みと恐怖で身動きが取れなかった。



 それからすぐ、沙都子は東京へと帰って行った。




 仕事から帰ると社宅は真っ暗になっていた。

 明かりを点けるとダイニングテーブルの上には離婚届と結婚指輪が置かれていた。

 冴子に電話を掛けても留守番電話になっていた。

 私は遂に家族を失った。


 


 翌朝、人事課長に呼ばれた。


 「貝塚弘君、君に本日付けで室蘭にあるウチの系列会社、「北海道プラント」へ出向になった。

 良かったじゃないか? いきなり課長としての赴任だ。栄転だよ栄転。体に気をつけてがんばりたまえ!」

 「・・・はい」


 私は家族を失い、北海道の子会社へ流刑るけいになった。




 綾乃とは音信不通になっていた。

 私はどうしても綾乃に遭いたくなった。

 離婚して自由になった今、綾乃と結婚したいと思ったからだ。





 綾乃が勤めていた、銀座のクラブにやって来た。


 「今日は麗香さんはいますか?」

 「麗香というキャストは当店にはおりませんが?」

 「辞められたのですか? 三年前にはここで働いていた麗香さんなんですが?」

 「私はこのお店で20年間働いておりますが、そのような名前のホステスはおりません。

 お引き取りを」


 (綾乃が、麗香がいない? そんなバカな・・・)



 雨が降って来た。

 私がふらふらと、銀座の並木通りを傘もなく歩いていると、雨に濡れた綾乃が立っていた。


 「綾乃!」

 「お久しぶり、貝塚弘」

 「どうして電話に出てくれないんだ! それにさっき店に行ったら君はいないって言うし!

 俺は家族も仕事も失った! 俺にはもう綾乃しかいないんだ!」

 「それは無理。だって私、とっくに死んでいるから」

 「死んでる? ふざけるな!」

 「私、大学1年の時に自殺したの。どうしてもお前が許せなかった。

 私のことを「顔無し」と言って笑ったお前が。

 だから復讐してやろうと思った。亡霊となってお前からすべてを奪ってやろうと思った。

 そして私は雌カマキリになった。交尾しながらお前を食い尽くしてやるために。あはははは あはははは」

 

 私は酷い挫折感で幻覚を見ているのかと思った。

 すると突然、綾乃の声が野太い男の声に変わった。


 「さようなら、哀れな貝塚弘。お前はもう終わりだ。苦しめ、もっと苦しめ! わはははは わはははは」



 私はそのまま水溜りに崩れるように倒れ、泥水が私の口に流れ込んで来た。

 それは臭くて苦い、カブトムシを潰した液体のようだった。

 私は綾乃を「顔無し」と言っておどけた自分を呪った。


                             『ファム・ファタール』完




 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【完結】ファムファタール(作品240424) 菊池昭仁 @landfall0810

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ