処暑を降る

霜月れお

🍐


 八月に入って猛暑が続き、連日、テレビのお天気キャスターが「無降水記録を更新」と言い続けている。これが八月でなければ、そんなに騒ぎ立てる必要はないのだろう。今日は、アパートの隅に生えている向日葵でさえ、重たく頭を垂れさせるほどの息苦しさを感じる日だった。息苦しさに負け、キーボードで文字を打つミオの手がピタと止まった。

 ミオは、ウェブ記事のライターを始めてから五年経つが、ミオの書いた記事は、どれも鳴かず飛ばずの閲覧数だ。それでも、『いつかはきっと』と、ミオは願いを抱くことで、悶々とした日々に、なんとか平常心を保つことができている。

 仕事への集中力を切らしたミオは、両親が娘のために送ってきた幸水梨をビニール袋に入れ、自転車でスイの家に向かう。スイは、ひとり地元を離れ、この街の大学で絵画を専攻し、今年で二回生になるという。ミオとスイが出会ったのは一年程前で、ミオが取材で訪れたギャラリーで個展を開いていたのがスイだった。個展の取材をきっかけに、ミオとスイは意気投合し、次第にお互いの家を行き来するようになっていった。

 スイのアパートに到着したミオは、慣れた様子で二階への階段をカンカンカンと上がっていく。手には、手土産の幸水梨。向かう先は、二〇五号室。

「スイ、入るよー」

 ミオは扉をノックし、向こう側に居るスイに声を掛け、合鍵で中に入る。目の前の四畳半は、丸められ、或いは散り散りの画用紙や新聞紙が散乱していた。部屋には、腰掛窓が隠れるくらいの大きなキャンバスが置かれ、白いTシャツをゆるく着たスイが居た。クーラーが付いているとはいえ、築二〇年のアパートでは、暑さに苦戦しているようで、どこかじわりとした空気が感じられる。さらに、油絵具特有のオイル臭が加わり、スイの部屋は、混沌としていた。スイが振り返りもしないので、ミオは、暑さで赤くなった頬を膨らます。

「スイ、上がるね。それで、ご飯はちゃんと食べてるの?」

 ミオは、持ってきた梨を小さな冷蔵庫に入れ、代わりに冷えた梨を取り出す。スイから遅れてポツリと「食べたと、思う」と返事があった。

 ミオは、手際よく八等分にした梨を皿に載せ、スイの元に運んだあと、壁にもたれて座り込む。すると、スイの肩にかかる髪の隙間から鼻筋の整ったスイの横顔が見えた。スイが置かれた梨に手を伸ばす。彼女の手は、指先が朱色に染まっていて、それが白い指をより際立たせている。スイは梨を口に運び、シャクリ、シャリシャリと音を出した。

「……甘い」

 キャンバスを見たままのスイが呟いた。

「父が、今年は、良い時期に雨が少なくて、良い出来栄えだと言っていたのよ」

 ミオは、畳に転がっていた読みかけの小説本を手繰り寄せ、続きを開いた。スイが筆でキャンバスに描きこむときの擦れる音と、本のページを捲る音だけが繰り返す。

「ねえ、ミオの小説は、いつ頃読めそうかな?」

 ミオの手がぴたりと止まった。

「もう書いてないわ。前みたいに、地元の文芸誌に載ることもないでしょう」

 ミオは視線を本に落としたまま、ただ淡泊に返し、次のページを捲った。

「ふーん、そっか」

 スイは、問いを深堀りすることもなく、再びキャンバスに向かい始めた。

 それからしばらくすると、窓から西日が差し込んできて、ミオは眩しさのあまり本から顔をあげた。白かったキャンバスには、朱い鳥らしきものが描かれていて、ミオはスイが好きと言っていたアカショウビンなのでは、と目を凝らす。

「わたし、雨が見たい」

 スイが、ミオに振り向き言った。振り向きざまのスイの髪色が、夕日で亜麻色に輝いていて、ミオには、スイが綺麗で神聖なものに見えた。それにしても、スイは相変わらず唐突だ。

「スイ、最近のニュース見てる? 無降水記録が更新されたっていう話題ばかりよ」

「ふーん、そうなんだ」

 見たいと言った割に、スイは興味の薄そうな返事をした。

「ちなみに、今、十七日目だそうよ」

 ミオは、小さな溜息をひとつついて、持っていた本にパタンと閉じ込み、今に始まったことではないと諦め、続ける。

「明日、どうやったら雨が降るか、調べてから来るわ」

「ミオの仕事は、大丈夫?」

 スイの澄んだ瞳と目が合った。ミオは淋しそうに肩を落として言う。

「別に、私の仕事は期限までに仕上げたら問題ないから、気にしないで。所詮は売れないライターなの」


 翌日、ミオは市立図書館にいた。図書館は、ミオにとって市民権を行使できる限られた場所のうちのひとつだ。一〇分ほどとはいえ、家から自転車に乗って来ただけで、身体は熱を帯びていた。館内の冷えた空気で身体を冷ましながら、ミオは、検索用パソコンの前を陣取った。

「雨……雨乞い……」

 読書に耽る老人、自習している高校生らしき若者を横目に、独り言をぶつぶつと言いながら、検索で出てきた本を探す。目当ての本は、いつもならすぐに見つかるのに、今日に限って書架を見ても本は無かった。自力で探すことを諦めたミオは、カウンターにいる司書に声を掛け、探してもらうことにした。改めて司書と一緒に書架を覗いたが、先ほどと状況は変わらなかった。司書は、困り果てた表情を浮かべ、地下を見てくると言ってカウンターの奥に消えていく。

 待っている間、ミオは、カウンターの向かいに設置されている雑誌コーナーを眺めていると、『月刊ムー 某大陸の人工雨ミサイル公開』に目が留まった。いわゆるオカルト情報誌。

「そこまでして、雨を望む、か」

 そのオカルト情報誌に手を伸ばしかけたところで、先ほどの司書に声をかけられた。話を聞くと、僅かの間に貸し出しされたとのことだった。ミオは、司書にお礼を言い、図書館を後にする。

 ミオが建物の外に出ると、歩道の至る所に、白雲と青空が映し出されたにわたずみが現れていた。地中から逃げ延びたミミズたちが、灼熱の太陽の下でもがき苦しんでいる姿が目に留まり、彼女は雨が降ったことを理解した。

 今頃メディアでは、無降水記録の更新が途絶えたと報じているのだろうか。ミオは自転車に乗り込む前に『雨は見れた?』とスイにメッセージを送り、スイの部屋に向かった。


 スイからの返事が無いので、ミオは、きっと昼寝でもしているのだろうと考えた。ミオが扉を開けると同時に、スイがのっそりと身を起こすところが見えた。ミオはスイに図書館の成果を簡単に報告する。

「図書館に行ったけど、大した成果はなくて、古代文明の雨乞いかオカルト情報誌くらいのものよ。あと、科学的根拠の本は周知の事実だし、探すこともしてないの」

「ごめん、寝てた。ミオ、ありがとう」

 スイは眠たそうに瞼を擦り、キャンバスの前に座りなおした。

「天気ばかりは自然現象だし、さすがに生贄だの、ミサイル撃つだのは、無理ね。とりあえず、てるてる坊主でも作って吊るしますか」

 そう言ってミオは、四畳半の床に散らばっている新聞紙をガサガサっと拾い上げた。新聞紙の間から、するりと四角い紙が落ちる。不思議に思ったミオは、落ちた紙を拾い上げ、確認した。名刺だ。しかも、ミオがスイと出会ったギャラリーのオーナーのもの。名刺を持ったミオの右手が震える。裏面に『森住スイ様 お電話ください』と携帯電話の番号が手書きされていたのを見つけて、不安に駆られた。

「スイ、今年は個展を開くの?」

「うーん……、個展はやめて、コンクールにしようと思ってる」

 スイはミオのことをチラリとも見ずに答えた。ミオは、スイの言葉に落ち着きを取り戻しつつも、前へ前へ進んでいくスイが遠く高く感じた。

 ミオは、静かに息を飲み、出てきた名刺をくしゃり。新聞紙と一緒にてるてる坊主の頭の中に詰め込んだ。このまま静かに燃えろ。ミオは、出来上がった笑顔の坊主を逆さにして、背伸びをし、なんとかカーテンレールに吊るす。

「まるで、吊るされた男ね」

 ミオに声をかけられた坊主は笑っている。これがミオの知ってる限りの方法だった。ミオは、てるてる坊主を量産するため、スイの部屋に転がっている糸の塊やキャンバスの廃材、丸められた画用紙を次々と拾い集めていく。

「スイ? 部屋を片付けようとは思わないの?」

 あまりの散らかりように、我慢ならず、ミオは訊いた。

「片付けるのは苦手だから、大事な物だけ片付けるようにしてる」

 スイが顎でくいっとしたその先には、畳の隅に置かれた白い三段のカラーボックス。ミオは、今まで遠慮して見ていなかったボックスを覗き込んだ。エッシャーの画集、世界の鳥を集めた写真集、なんの変哲も無い石ころ、三年前に発行された地元の文芸誌。この文芸誌は、一年程前にミオがスイに渡したものだ。ミオは手を伸ばす。

「いつになったら小説を書くの?」

 声の鋭さと近さに驚いたミオは、身体をびくりとさせ、ドスンと尻もちをつく。横にはスイが居た。

「スイ、私は書かないわ。スイのような才能のある人を応援するので、精一杯よ」

 ミオは、真っすぐに見つめてくるスイの正面に居るのが心地悪くて、視線をスイから外し、口速に続ける。

「そ、それに……売れないライターが小説家を目指すだなんて、無理よ」

 俯きながらハァーっと大きなため息をつくスイを見て、ミオの胸は突き刺されたように痛んだ。スイはキャンバスの前に戻り、放り投げるように言う。

「じゃあ、売れるライターになったら書くの? 売れる画家になったら描くの?」

 スイが筆で絵具を掬い、パレットにべしゃりと当てた音が部屋に響いた。

「ねぇ? ミオもわたしと同じように『いつかきっと』を実現するためにもがき苦しんでいるかと思ってたけど、違うのね」

「……」

 ミオは、そんなことはない、とすぐに否定できなかった。ライターとして生計を立て、スイの身の回りを手伝って喜ばしく感じていたのは、独りよがりの年上のお節介だったのだろうか。

「ミオ、『いつかきっと』なんか待っていたって、一生来ることは無いよ。だから、わたしは自分の可能性を潰して現実を見るために、絵画専攻のある大学に進んだし、個展を開いてみた。コンクールにも出す。ねぇ? ミオは、いつ小説を書くのかしらん」

 スイの言葉が、ミオの心を崩していく。

「……わ、わたしは」

「ミオ、いつまでも夢の中で暮らすことはできないと思うの」

 止めを刺された。ミオはただうなだれ、色褪せた畳を見つめ続けているうちに視界がぼやける。

「わたしは、ミオの書いた小説は好きよ。売れないウェブ記事より全然良い」

 だめだ、ため込んだ涙が溢れて流れてしまいそう。

「そう、わかったわ。今日はもう帰る」

 声を振り絞ったミオは立ち上がり、荷物を集め、玄関で靴を履いた。置きっぱなしになっているミオの部屋の合鍵と目が合う。この際、持ち帰ってしまおうかと一瞬悩んだが、スイとの繋がりが失われる恐怖に勝てず、残して帰った。


 帰宅したミオは、書き溜めた紙の束を家中に投げつけ、自分を呪った。

 それから四日間、ミオは家から出ることは無かった。


 五日目の夕刻、ミオの部屋の中にまで、カナカナカナと啼くヒグラシの声が反響する。玄関の扉がガシャリと音を立て開いた。ミオの部屋に入って来たのはスイだった。ミオからの連絡が無く、不安に思ったのだろうか。スイは、独り不安そうな面持ちで、フローリングの床をそろりそろりと歩いて部屋の奥へと入っていく。

 ベッドで寝ているミオを見つけ、ほっと胸を撫でおろした。ミオの耳元に、スイがそっと顔を近づけ、囁く。

「前は言い過ぎた、ごめんなさい。今日はこれで帰るわ」

 スイの囁きで目覚めたミオは、咄嗟にスイの腕を掴み、引き留めた。

「もう、帰るの?」

 眼の下のクマと涙の跡で、ミオの顔は、ぐしゃぐしゃだった。スイは、驚いたのか、口を動かすが、音にならない。

「スイ、書いてないとか言ってしまって、ごめんなさいね。あれ、嘘なの」

 澄んだ瞳を広げ、ハッとするスイ。ミオは立ち上がり、窓際に置いてあったプリンターに何かを取りに行く。

「あら、雨」

 窓から外を覗いたミオが呟いた。サァーという水が落ちてくる音と水の上を走る自動車の音が、部屋の中にまで聞こえてくる。スイのところに戻ってきたミオは、六万一五七一文字の小説を印刷した紙の束をスイに手渡した。俯き加減のミオは、ほんのりと頬を染め、慎重な口調でスイに伝える。

「読んでくれる、のよね?」

 スイは黙って渡された紙の束を見て、こくりと大きく頷いた。

「それとね、スイ。両親から豊水梨が届いているから、これからもスイの部屋に行ってもいいかしら?」

 玄関先の『なし』と書かれた段ボール箱を指さしながら、上目遣いでミオは、遠慮がちに言った。スイは瞳を潤ませ、柔らかく微笑んだあと、「もちろんよ」と声を震わせて答えた。

 サァーという雨の音だけが不規則に響き、季節がひとつ進んでいった。










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処暑を降る 霜月れお @reoshimotsuki

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