第2章:修行編
第10話 野良猫の恩返し
前世において、俺の両親は俺が子供の頃に交通事故で亡くなった。
幼い俺を引き取ってくれたのは母方の叔母だったが、これがとんでもない育児放棄者だった。
給食費すら払えない極貧生活。
学校ではいじめに遭い、友達もおらず、家に帰っても誰もいない日々。
そんな俺の唯一の話し相手が、近所に住みつく野良猫だった。
公立の小学校というのは給食費が払えなくても、給食を食べることが可能である。
少なくとも、俺が通っていた学校はそうだった。
俺は放課後になると残しておいた給食をこっそり持ち帰り、野良猫に分け与えていた。
俺には、何も無かった。
でも、野良猫だけは俺の傍にいてくれた。
だからあの時――学校の帰りに仔猫が車に轢かれそうになった瞬間、咄嗟に身体が反応したのだと思う。
生きていれば、あの仔猫も今じゃ立派な老猫になっていることだろう。
そういえば――
転生したこの世界で、俺はまだ猫の姿を見ていなかった気がする――
◇ ◇ ◇
「……ぁ……?」
ぼんやりと視界が、やがてはっきりとした輪郭を帯びて俺を現実に引き戻す。
俺の瞳に映っていたのは、20代半ばくらいの女性だった。
彼女は椅子に腰掛け、優雅に足を組んでいる。
その肌は雪のように白く、エメラルドグリーンの柔からな髪をハーフアップにしており、どことなく気品が感じられた。
無表情ながらも整った目鼻立ちに、白いローブを纏っているその姿は、神話で語り継がれる女神か、おとぎ話に登場する魔女のようである。
「ようやくお目覚めか」
やや低めで、艶やかな声色だった。
「……ここは?」
「私の家だ」
俺が周囲を見渡すと、木造の室内であることがわかる。
部屋は綺麗に片付いており、モノがほとんどない。
俺が寝かされているのは清潔で、ふかふかのベッドだった。
この世界に来てベッドで寝たのは、出生直後のベビーベッド以来11年振りだろうか。
俺が体を起こそうとするも力が入らず、わずかに震えるだけに留まった。
「……あんたが、俺を助けてくれたのか」
「どうやら記憶の方は問題ないみたいだな」
そう言うと、彼女は俺の額に手を伸ばして来た。
ビクッ、と俺の身体が強張るが、逃げようにも体はそれ以上動いてはくれなかった。
彼女は俺の様子を察したのか、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……少年よ。お前はそんなボロボロの体で、一体誰に、どんな仕打ちを受けて来たんだ?」
「どんな仕打ちって、そんなの数え上げるのも面倒だ」
俺の答えを聞いた彼女は、
俺は別に誰かに同情して欲しいわけではない。
認めて欲しいわけでもないし、慰めて欲しいわけでもない。
ただ、これ以上の自由を奪わないで欲しい、それだけだった。
つーか、こんなところで呑気に眠っている場合じゃない。
ヒューゴとニックの無事を確認しなければ……
俺は再び起き上がろうとしたら、「グ~、キュルルル……」と腹の虫が盛大に叫び声を上げてしまった。
そういや、ソリニャックの都市から逃げ出す時は、食事抜きの上、ずっと全力疾走して来たんだったか。
空腹なのも当然っちゃ当然だが……
「少し、待っていろ」
彼女はそう言うと、椅子から立ち上がった。
その瞬間、フローラルな香りが俺の鼻孔をつく。
およそスラムや奴隷生活では嗅いだことのない、優しい香りだった。
彼女は俺に背を向けると、そのまま部屋の扉を開けて出て行った。
誰もいなくなった室内は不気味なほど静まり返っている。
暇になった俺は何気なく窓の外に視線を向けてみた。
外には霧が立ち込めており視界不良ではあるが、ここが森の中であるということはわかる。
やはり、ここは"霧の森"なのか。
その森に住む謎の女性――とくれば、彼女は"霧の魔女"で間違いないだろう。
俺は布団から左腕を取り出してまじまじと見つめてみると、狼にやられた傷は跡形もなく消えていた。
彼女が魔法で治してくれたのだろうか。
狼から俺を救い、あまつさえ介抱までしてくれたことを考えると、"霧の魔女"に関する噂は所詮噂に過ぎなかったというわけだ。
その時、窓の外に場違いな鳩が横切った。
あれは……伝書鳩か?
こんな森に住んでいて、しかもここから動けないとなったら、あの鳩が外界との交流手段なのかもしれないな。
俺も鳩のように風に空を飛べたら、もっと自由な生活を送れていたんだろうが……
柄にもなくそんなことを思ってしまう辺り、俺の心身も相当衰弱しているらしい。
「待たせたな」
しばらくベッドの上で目を瞑り、うとうと仕掛けていた頃、彼女が戻って来た。
先ほどと同じく無表情だったが、今度は木製のトレーにパンとスープを携えていた。
「起きられるか?」
彼女の問いに、俺は首を横に振った。
すると、彼女はトレーをベッドの近くに設えてあるデスクに置いて、俺の体を支えて起き上がらせてくれた。
それから、器に盛られたスープをスプーンですくい、自らの吐息で冷まし始めた。
まさかこれって……
「食べろ」
彼女はスプーンを俺の口に運んで来た。
「いや、さすがにこれは……」
「自力ではスプーンを持つのも困難なんだろう?」
仰るとおりで。
「でもな――んぐっ?!」
俺の抵抗も虚しく、彼女はスプーンを俺の口に突っ込んで来た。
「子供が妙なプライドを振りかざすものではない」
俺は口の中に広がるスープの濃厚な味と香りをゆっくりと咀嚼しながら、少しずつ喉を通して行った。
「…………美味い、な」
思わず、そんな感想が口をついて出た。
この世界に食べた食料の中で、最も美味い食べ物と言っても過言ではない。
こんな風に他人からの親切を受けたのは一体、いつ以来だっただろうか?
俺の為だけに作られた食事をこうしてゆっくりと味わえる時間なんて、前世でも両親が亡くなって以降、久しく無かったのではないだろうか?
何の見返りもない、無償の施し。
これを慈悲と呼ばず、何と呼ぼうか。
「…………ぁ」
気付けば、俺の目から涙が滴っていた。
これまで溜まりに溜まっていた緊張が、一気にほぐれた所為だろう。
涙を止めたくても、次から次へと溢れて来るそれを止める術を、今の俺は持ち合わせていなかった。
そんな俺を見かねたのか、彼女はスープをトレーに戻すと、包み込むように俺を抱き締めていた。
「…………ぁぁ、ぁ……」
彼女の柔らかく優しい温もり包まれた俺は、声にならない声を上げて、ただただ涙した。
俺みたいな奴隷上がりの小汚いガキに対して、ここまでしてくれる彼女が魔女なんかであるはずがない。
彼女はきっと、猫なのだ。
前世で俺が食事を分け与えた野良猫による、これは恩返しなのだ。
そうとでも思い込まないと、彼女の慈悲に
俺は涙を滴らせながら、必死にそう、自分に言い聞かせた。
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