秋焉

加藤み子

秋焉

 私は三股をしている。

 一人目はごく普通の男子大学生で、私の身の丈に合った相応の相手だ。アルバイトをしている新宿の居酒屋で出会い、最初は彼からの告白もけんもほろろに、次には泥酔した勢いで一夜を共にしたことから、関係が始まった。彼は姓も名も平凡で、出身も育ちも現在の暮らしも平凡、何もかも平均値でいることを決めているかのような人物で、一緒にいて気が楽だった。性格は犬のようだった。しかし、何度かブリーチを繰り返した金髪は触ると案外猫の毛のようで、セックスをしながらそれを撫で回すのが好きだった。友人らに恋人の話をするときは、大抵この彼のことを何でもない調子で喋るようにしていた。

 二人目は同性のとても綺麗な子で、SNSを通じて知り合った趣味の合う相手だった。色白で、艶の光る黒髪とニキビや傷一つない肌が綺麗な、丁寧な面立ちをした美人だった。お互い美容系の情報に浸っているのが趣味で、デートといえば百貨店の化粧品売り場やファッション店に赴き、美容部員やアパレル店員の人達との会話を楽しみながら買い物をするのが常だった。普段は常に冷静沈着といった印象で挙動に乱れを見せない性格なのに、夜、二人きりで向き合って体に触れると急にしおらしく可愛らしくなる様子が愛おしく、行為中に真っ赤になる頬はいつまでも見つめられる。

 三人目は最もだったが、同時に、最もでもあった。彼には妻子があった。誇れる職もあった。教養もお金も充分に持ち、世間も評論家すらも味方につけ、名声も思うがままにする立派な人間だったが、常に渦巻いた寂しさと混乱を併せ持っている人間でもあった。彼と会うのは決まって熱海の旅館だった。三階建て木造建築の民家風の旅館、その一室を大量の本と原稿用紙でいっぱいにして、猫背で机に向かって鉛筆を走らせている姿が印象的だった。

 私にとって、「恋人」というものは生活の一部でしかなく、今までもこれからも、それ以上でもそれ以下でもない。それなので、同時に複数の人間と恋人という関係を持っているのは特別愉しいわけでもなく、特別罪悪感を感じるわけでもなく、例えて言うなら各地に優れた故郷をいくつか持っているだけのような感覚だった。巧くやってはいると思う。その証明に、三人にはそれぞれ自分を除いた他の二人の存在を知られてはいない。

 講義中、上着のポケットに入れておいたスマートフォンが不意に震え、上着をかけておいた椅子に当たって大きな振動音を立てた。幸い、百以上の収容人数がある講堂での講義だったので注目は集めなかったが、私の心はすぐさまそこへ飛んで行った。ポップアップにある名前を見た途端、体中に熱い血が走る。

「直木賞とったよ」

 送信された文面はそれだけだったが、それでもう十分だった。

「おめでとう、先生」

 三人目の彼はついに直木賞作家の名誉を勝ち取った。

 先生ほど立派な学のない私は、芥川賞やら直木賞やらの価値を実感としてわかることはなかったが、彼がそれを望んでいて叶ったというのなら、喜びに値することだった。私は彼が寝る間も惜しんで原稿用紙と戦っている雄姿を知っている。

「今日、そっちに行ってもいい?」

 聞くと、ずいぶん経ってから返事が届いた。

「今日は家族と過ごす。明日なら大丈夫」

 先生がどこに住んでいるのかは知らない。私はすぐに返信した。

「じゃあまた明日」

 受賞の知らせはすぐにニュースになり、様々なニュースアプリのトップに先生の姿が躍り出たり、通りかかった本屋の店頭を先生の本が飾ったりした。明日の地元紙の朝刊は一面だろうか。

 ツイッターを眺めていると、先生と他の受賞者と思われる人を撮影した写真が目に飛び込んできて、先生の名前の横で直木賞という文字がちかちか輝いていた。ネットニュースのアカウントだった。誰かがリツイートしたらしい。写真の中の先生はよく見る和装で微笑んでいた。厚い眼鏡の奥の瞳は優しげに緩み、口元は少し緊張しているようで、自著を掲げる手は鉛筆の粕で汚れてはいなかった。私はいつもの、鉛筆で黒く染まった先生の手のほうが好きだった。

「直木賞の作品、好きな作家さんのものだから嬉しい。早く読みたいな」

 先生が受賞したニュースの次に流れてきたツイートで、一瞬どきりとした。それは二人目の彼女の呟きだった。ニュースの投稿をリツイートしたのはよく見れば彼女だった。

 直接的な関わりはないはずの(あったらそれはそれは困る)二人が、私の手の中の小さなスマートフォンの狭い画面上で並んでいる様は、とても奇妙で空気の張りつめたものだった。

 愉快でもある。

 私はにっこりした。

「直木賞の本、あげよっか。直筆サイン入りのやつ持ってるよ」

 彼女にそうラインすると、喜びを隠し切れないようなスピードで「是非ほしい」旨の返事がきた。

 そういえば彼女は、隙間の時間によく読書をする知的な雰囲気も持っていた。先生と関わりを持っていて良かった。

「でも、なんでそんなに貴重なもの持ってるの? 本当にもらっちゃって大丈夫?」

「人からもらったんだけど私は本読まないし、大丈夫だよ」

「ありがとう。すごく嬉しい」

「今度会う時に渡すね」

 もちろん、先生に本を差し出してサインをくれなんて言ったことなどはなかった。しかし、先生なら穏やかな顔でサインなり何なりしてくれるに違いない確信があった。

 翌日、その曜日に一コマだけある大学の講義が休講になったので、早めにバイト先へ顔を出した。居酒屋自体は午後五時から開店するが、私が昼過ぎに店へ行った時にはすでに男性が一人、黙々と料理の仕込み作業をしていて、振り向いた顔を見ると私の一人目の恋人である彼だった。

 私に気が付くと慌てて手を洗い、飼い主の帰りを待っていた子犬のように駆け寄って来た。

「どうしたの、早番だったっけ」

 心底嬉しそうに破顔する彼は、私の着ていたカーディガンを来客用のハンガーに引っ掛け、上客を扱うように恭しい身振りでカウンター席を用意した。時間外に働かせる気はないらしい。

 私は遠慮もせず腰掛けた。

「中番だけど暇だったから来ちゃった。邪魔だった?」

「まさか。俺も一人で寂しかったところ」

 腕をまくった逞しい筋肉の筋が、彼のスポーツ好きで働き者な様をよく表している。

 私が頬杖をつくと、カウンター越しに温かいほうじ茶を提供してくれた。サービス精神が旺盛だ。王様の気分。

「そういえばさ、今週の三連休って暇?」

「三連休?」

 私はスマートフォンを開き、指紋認証の鍵をつけたスケジュール管理アプリを確認した。

「空いてるけど」

「まじで。じゃ、どっか旅行とか行かない?」

 三連休。彼女は彼女の同僚達と韓国旅行へ行くと言っていたし、先生は受賞した後の取材やらテレビ番組の撮影やらで忙しいと聞いていた。

 何も問題などなかった。承諾する。

「どこがいいかなあ」

 彼は湯が沸騰するのを待ちながら腕を組み、やがて思いついたようにパッと表情を明るくした。

「草津とかどう? お前、温泉好きだったよな。それか、前に行きたいって言ってた横浜中華街とか。食い倒れツアー的な。あと札幌は? 両親にお前のこと紹介したいし」

 彼の実家は北海道だった。のんびりした農家の末息子で、関東地方に出たいがためだけに東京の大学を受験して合格した、典型的な地方の学生なのだ。

 普段の言動からなんとなく結婚願望を匂わせてくる彼は、どうやらその結婚相手の第一候補にこの私を推薦しているようで、幾度となく「両親に紹介したい」と誘いを持ち掛けてくる。残念だがこちらにその気はない。彼は私の中では、いわばアパートやマンションのような立ち位置だった。永住するつもりで建設する一戸建てではない。

 私は考えた。

「そうだなあ、熱海に行きたい」

 熱海。

 バイトが終わってから急いで新幹線に乗り込み、くだんの旅館へ向かうと、もうすっかり深夜近い時間に更けていたので、もしかして先生は寝ているだろうかと静かに部屋の戸を引いた。

 先生は寝てはいなかった。畳の上に置いた小さなテーブルの前で、くつろいだ空気をゆらゆら纏い、少々疲れた様子で本を読んでいた。ぼさぼさの髪が、鼻の先まで落ちた眼鏡が、崩れた和服が、いっそ可愛く見えた。

 私は恭しく先生にほうじ茶を淹れた。

「ねえ先生、私、先生のサインが欲しいんだけど」

「サイン?」

 サインなんて言葉は耳にしたことがない、というような顔だ。先生は眼鏡のフレームの上から私を眺め、何か眩しいものでも見る時のようにきゅうっと瞼に力を入れた。

「そう、サイン。先生の本に書いてほしい」

 私は壁際に積み上げてある献本の一冊を取り、ねだった。先生がわたしのおねだりに弱いことはよくわかっていた。

「サインか。サイン……」

「これから大量に書くことになるんじゃない? サイン。少しは練習しといたほうがいいよ」

「僕のサインなんて、何かの価値あるのかすらよくわからない」

「価値あるよ。お金に代えられないくらい」

 サインを残す先生の手つきは、小説を書いている時の薄く平らな氷上を滑るような動きではなく、ちょっと潤滑油の甘い錆びかけのロボットの動作のようにぎこちなかった。

 明日は早朝のうちに帰ろうと思っていたので今夜は長居するつもりはなかったが、どうにもこうにもその気分になってしまったため先生の布団に潜り込み、くたびれた浴衣の裾を捲り上げた。先生は一瞬、焦ったような表情は見せた。しかし、私が「少しだけお願い。ね」と丸め込めると、渋々といった様子で身を横たえて汚れた眼鏡を外した。

「窓は閉めてくれよ」

 と、先生。

「障子は開けておいてもいい? 月が綺麗だよ」

 硝子戸に鍵を下ろしつつ言うと、先生は顔だけを外に向けて満月を見上げた。

 美しい宵だった。月明かりだけが先生の輪郭を照らす。他の誰を失っても痛くも痒くもない気持ちが常にしていたが、先生だけは失いたくなかった。先生を手放したら生きてはゆけない。私はこんなにも可愛らしい人を知らないのだ。食べてしまいたいほど可愛い。



 くだんの三連休はあっという間にやってきた。

 私は、一人目の彼の好みに合うようなミニ丈のスカートにぴったりとした薄手の白いニットを着て、体の曲線がよく見えるような服装で挑んだ。髪にはゆるく波を打たせた。首・手首・足首の三つの肌色を出した。「女体」をこれでもかというほど活用したファッションは、彼にとってはやはり的を得たものだったようで、私は始終浮ついた視線を隣に感じながら観光をした。

 熱海は好きな街だ。先生を思い出す。

 紫色の空を撫でる薄い雲波や、坂が多くどことなく潮のにおいが鼻を触る街並みを眺めながらぼんやり歩いていると、やがて、私達はお土産屋やちょっとした食事処が並ぶ通りに出た。そこは観光客と見られる人々であふれていた。若者が多い。記念におそろいの何かを買っていこう、と提案してくる彼に曖昧に微笑み、私は何気なくそこにあった書店を覗き見た。

 視界が奇妙に揺れた。そこに二人目の恋人がいた。本を一冊胸に抱えてそわそわしていて、どうやら誰かと一緒に観光に来たような風貌ではない。彼女は韓国旅行へ行くと言っていたし、一人目と二人目と私が同じ場所に集うという偶然が妙に気になったので、隣にいる彼に「ちょっとトイレ行ってくるから先に行ってて」と声をかけ書店へ引き返した。

 彼女はすぐに見つかった。

 私に気付くと、驚いたのちに駆け寄って来て、興奮した様子で早口を披露した。

「実はね、これから私の好きな小説作家さんの直木賞受賞記念サイン会があって……ほら、前にサイン付きの本くれたでしょ? あの作家さんなんだけど、今作の舞台が熱海だったからここでサイン会があるの。同僚がインフルエンザになっちゃったから韓国旅行もなくなっちゃったし、これは行かなきゃと思って。やっぱり直接会って感想を伝えたくってね……本当に素晴らしいお話だったから。どうしよう、緊張してきた!」

 いつもクールに佇むたちの彼女が、こうしてすっかり熱に浮かされている様を見せるのは珍しいことだった。

「あなたは熱海旅行だったよね。誰と来てるの?」

 と、彼女が聞いてきた。

「大学の知り合いと」

 私は答えた。あながち間違いではない。

 しかし、先生のサイン会が今日ここで開かれるとは知らなかった。そうなると私の恋人達が今日の熱海に集合することになる。

 つい声を出して笑った。なんという愉快。

 あ、笑ってしまった、と思い口元に手を持っていきながら周囲を見回すと、そこで辺りの視線が私達に集中していることに気が付いた。正確には私達ではなく、彼女に、だった。

「サインもらったらなんて言えばいいかな? 緊張する」

 と、彼女が言う。

 彼女はどこにいても群衆の目を引いた。美人だからだ。私は彼女と一緒にいるといつも強気になれた。自分の恥ずかしい部分や醜い部分が隠れるような、それはもう値も付けられないほど高級な毛皮にでも包み込まれるような、お気に入りのブランドの新作のコートを羽織っているような、そんな気分だ。

 サイン会用にセッティングされたレジ横のスペースにやがて人集りができ始めた。彼女もそこへ加わって行く。反対に私は数歩後退し、遠目にその集いを眺めた。

「やっと見つけた。トイレじゃなかったのか?」

 一人目の彼が駆け寄って来た。

 私はサイン会自体に興味があるふりをした。

「ごめんね。トイレの帰りにサイン会やってるのが見えて」

「サイン会?」

 彼が怪訝な顔で人集りを見遣った。

 私は彼をそこに残しさらにそっと後退った。

 まもなく始まります、とアナウンス。

 そして先生が登場した。

 拍手と歓声が巻き起こった。

 緊張気味の表情でペコペコする先生。

 上気した頬で拍手を送る彼女。

 一体何のサイン会なのかと首を傾げる彼。

 ひとつの視界に同時におさまった三人を、私は念じるように瞬きも我慢して目に焼き付けた。

 みんながわたしの恋人。みんながわたしの恋人だ。

 三人が揃っているのを実感したとき、心からしんしんと生きている心地がした。私は大きな声を上げて笑い転げた。書店なんて、熱海なんて、社会なんて爆発してしまえと思った。私は無敵だ。先生を食べ、彼女を着て、彼に住んで、私はこの世界で一人だけ生き抜いてやる。



 一年以上の月日が過ぎ、社会人になった私は東京駅を歩いていた。足元をくすぐるコートの裾が地下からの強い風でめくれ上がり、同時に前髪が目にかかった。眼球に触れた毛先が痛くて右目だけを瞑った。思ったより痛みが激しく、つい立ち止まる。顔を上げると一人目の恋人である彼が目の前に立っていた。

「俺は本気だったよ」

 悲しいような憐れむような微笑みで言う彼。

 私はさすがに気を遣った。

「私も本気だよ」

 しかし彼は首を振った。

「大丈夫。ちゃんと前みたいな、お前が住む前の状態みたいに戻しておいてくれれば、次に誰かがまた住めるから。いい場所を永住地に選べよ」

「馬鹿じゃないの」

 きつい言い方と共に現れたのは二人目の恋人である彼女だった。彼の横に並び、突くようなきつい目で私を見据える。

「私はあなたを絶対に許さない。どうせ私のこと、セックスができる女友達みたいに思ってたんでしょう?」

 そんなことを言われて私は慌てた。

「そんな風になんて思ってなかったよ」

「思ってたくせに。知ってたから、全部。浮気してたこと、三股してたこと、あなたがそれを楽しんでたこと。私はあなたにとってお気に入りのファッションでしかなかった。せめて最後にクローゼットにでもしまって住処ごと一緒に燃やしなさい」

 どうしてみんな怒ってるの?

 ついには先生までが私の前に立ちはだかった。いつもの和装で腕を組み、困惑したような軽蔑したような複雑な、感情の読み取りが困難な目で眼鏡越しに私をじっと見た。

「先生、」

 私、何か悪いことした?

 ちゃんとみんなのことを愛していた。大切にした。一度だって、誰かを優先して誰かを雑に扱ったことなどなかったでしょう。

 先生はため息をつき、続けた。

「君は、僕達を所有している感覚に浸るのが好きだったんだろう。そして君自身は誰の所有物にもなりたくなかった。でもね、そもそも恋愛とは、所有する所有されるの戦いではないのだよ」

「……」

「生物は食を放棄したら飢餓で死ぬ。君は僕を食べないと、どうなるのかな」

 各地に散りばめた優れた故郷がみな、私に尊厳を傷付けられた痛みを背負ったまま消え去った。私は彼らの亡霊に一生苦しめられるのかもしれない。

 私はハンドバッグを放り出し、膝を落とし駅のホームに両手をついた。目眩が襲ってくる。吐き気が止まらなかった。大丈夫ですか、と通りすがりのサラリーマンが肩に手を置いてきた。

 衣食住を失った私は死ぬしかなかった。


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秋焉 加藤み子 @ktmk99

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