第8話 仲直り

 今、私は猫のおやつ売り場にしょんぼりと立っている。いつものホームセンターではなく、大手ペットショップ売り場にあるおやつ売り場だ。ここにはペット用の冷凍ケーキが売ってある。ペット用とはいえど、洋菓子店のショートケーキとも見劣りしないケーキが並んでいた。これに加えて、普段より高めのおやつをいくつか選んでいる最中だ。


 斎藤さんと別れて、猫ドーナッツを土産に帰宅した後のことだった。玄関で出迎えたマリンを抱き上げた瞬間、即座に飛び降りたかと思えば、マリンはシャーと渾身の威嚇声を発動した。


「あんた、なにしたの? 」

「い、いや。抱っこしただけ。」

 マリンは私に近づくなと足元に向けて猫パンチを連打している。


「今日、どこに行ってきたの?」

 母は何かを悟った薄い目で自白を促していた。

「猫…… カフェ?」

 母はにたにたと笑いながら、マリンに顔を向けた。


「マリンちゃん、どうする? 裕子ってばマリンをほっといて猫カフェで浮気だって。」

ちょっと、母上。その言いようは酷くないか。

マリンはくるりと背を向けて、家の奥へと姿を消した。


 その晩、マリンは私に近づこうともしない。ちょっとでもすれ違おうものなら、口が裂けているのかと思うほど牙をむきだしては、威嚇声を発して去っていく。もう宥めようもない。


 途方に暮れていると、母が最近オープンした大手ペットショップがあると教えてくれた。そして、若かりし頃の父がキャバクラで遊んで帰った時は、大抵ケーキをお土産にしていたことまで聞かされた。


 そういえば、たまに朝ごはんがショートケーキだったことがあった。そして、どこか不機嫌だった母の背中を覚えている。

 なのに、父は仕事での付き合いって名目があるからこそ許されていたが、私はただの浮気者でしかないと断罪されて、ここにいる。


 しかし、猫にケーキを買って機嫌が直るのだろうか。

 今朝の目覚めが静かだった。いつもなら、布団の上を踏み歩くマリンに起こされるのに、切なく思う朝だった。

 やはり二種類のケーキを取り出して会計に向かうことにした。


 父が飲み帰りにケーキを買う時もこんな感じだったのだろうか。この令和の時代に、ザ・昭和を体現した父と同じことをしているとでもいうのだろうか。もやもやしながら、母の座椅子を買いに移動する。


 マリンの機嫌を直す重要な情報を与えたのだからと、母にねだられたのだ。母はこの状況を心から楽しんでいる。そう思うと送り出された時の母の笑顔が憎たらしい。


 帰り道にある農協の支店が目に入った。斎藤さんは農協が管理している畑で野菜を育てていると言っていた。確か、その畑もこの近くだったはずだ。彼女の畑にたどり着くかどうかは分からないが、少し寄り道をしてみようと思った。


 荒神社の前の用水路沿いと言っていたのを思い出しながら、周辺をゆっくり走ると、それらしい畑を見つけた。おそらく、元は耕作しなくなった畑なのだろう。いくつかに区切られたスペースには、それぞれに何かの野菜が植えられているようだった。


 奥の方でゆらりと人の姿が見えた。目を凝らしてみると、なんと斎藤さんが何かをもぎ取っていた。私は車から降りて声をかける。

「本当に来てくれたんですね。」と手を振りながら、道路脇まで斎藤さんが出てきた。


「ちょうど近くまで来たから、たどり着くかなと走ってたんです。まさか本当に斎藤さんに会えるとは思わなかった。」

 私は少し照れ笑いをした。


「昨日のドーナッツショップでは、余計なことに巻き込んでしまって、ごめんなさい。」

 もし斎藤さんに会えたら、謝りたかったことだった。しかし、斎藤さんは眉を上げて、何故謝るのかと不思議がった。私があのヒステリーな客に声をかけなければ、斎藤さんまで巻き込むことはなかったはずだ。


 斎藤さんは私の弁明を聞いて、わざわざ気にすることじゃないと手を振って笑う。

「黙っていたら、きっとあのデカい声で終始、喚き散らしたんじゃないですかね。対応できそうな店員さんもいなかったし。あの時の楠木さんは毅然としてて、かっこよかったな。」

 いや、かっこよかったのは斎藤さんです。その後の斎藤さんの対応に敬意を感じたことを話した。


「それは、私が二番手に声かけたからでしょうね。逆だったら、誰だろうと同じように噛みつかれてたはずですよ。」

斎藤さんは冷静に答えた。そうなったら、私が斎藤さんのとった立場をしていただろうと言った後、私を待たせて畑に向かっていった。


 私が斎藤さんのように言えたとは到底思えない。ただあのヒステリーな声と罵る言葉が不愉快だっただけだ。自分の番に肩透かしを喰らった失望への同情など、一ミクロンも感じてはいなかった。

 

 斎藤さんがあの客の心情を汲み取った一言で、明らかに攻撃力を下げたのは事実だ。しかし、その後に続いていた悪態は自分勝手極まりないにも関わらず、しばらく黙って耳を傾けていた。

 私は口を挟まず様子を見ていたが、こんな非常識な相手に同情する余地などないはずだと斎藤さんにさえ訝しくすら思っていた。


「あの人は、ただ周りが見えてなかっただけでしょうね。」

斎藤さんがしたあの客の評価はこれだけだった。それ以上の評価もそれ以下の感情もない。あの時もそうして冷静に話を聞いていたのだろうか。

 私は、ただ感情的だっただけだ。


 斎藤さんはトマトやキュウリを両手いっぱいにして戻ってくると、それを私に差し出してくれた。畑を手入れする苦労を想像すると、あっさり頂くわけにもいかない。ましては今年のトマトは高値だ。


 いくらか支払うと提案したが、食べきれない程収穫がある時にはこうして知り合いに分けているのだと断られた。ならばと、車においてあったジュースを差し入れると、斎藤さんは素直に受け取ってくれた。

 別れ際、ここの畑にはまだ空きがあるから、興味があればやってみないかと誘われた。庭の園芸すら母任せの私にできるだろうか。ひとまず、園芸好きな母にでも相談してみよう。


 家に帰った私は、早速マリンのケーキを解凍させる。

「あ、裕子がマリンちゃんのケーキを買ってきたみたいですよ。食べれるかなぁ。」

 母はマリンを抱いて近づいてきた。その腕の中で、マリンはもがきだして腕から離れる。

「マリン。まだ怒っているのかな。」

部屋の隅からこちらを眺めているマリンを見ると切ない。


「シャーって言わないだけ、大丈夫なんじゃない?」

 母は他人事が楽しいと笑って、新しい座椅子をリビングにある古いものと交換していく。マリンはその後を追いかけていく。なんだろう、この敗北感。


 マリンのおやつはケーキだけではない。後でケーキが食べられるように、まずは子猫用の牛乳を準備した。好物には負けるのか、マリンは素直に近寄ってきて飲み始める。少しほっとするが、マリンとの間にまだ少し距離感を感じてしまう。


 母は新しい座椅子に座って、満足そうにテレビをつけた。それからお土産のドーナッツでお茶を飲もうと声がかかった。二人でドーナッツを頬張りながら、昨日の出来事を話す。


「そのお客さんも接客してもらえるという期待が裏切られただけで、そこまで騒ぐもんなのかね。」

 私の話に呆れながら、母は麦茶を飲む。結局は斎藤さんのおかげで丸く収まったと知ると母は感心したように頷いていた。

「斎藤さんって辛抱強い人なのかしらね。ひたすら、そんな文句を黙って聞けるなんて。おかげで裕子まで助けてもらったわけだし。」

うんうんと頷いていると、母は私の顔を覗き込んできた。


「裕子の言ったことも正論だよ。そんな程度で騒ぐことでもないし、そんなに忙しい状況なら、普通は黙って待っているものだもんね。」

 母の言葉が染みた。

「残念なのは、正論ってのは相手が受け入れられる状況じゃないと通用しないもんなんだわ。」

 母には珍しくごもっともな意見を言ってきた。正直、胸が痛い。それこそ、ド正論じゃないか。


 やがてケーキは常温になり、マリンにお詫びのケーキを差し出してみた。見慣れない食事に戸惑う様子で匂いを確認しては、恐る恐るクリームを舐めている。そのうちにお気に召したのか、身を乗り出すようにして食べ続けている。


 これでマリンが本当に許してくれるのかどうか。未だに不安だが、気に入ったようならそれでいい。

その時、いつの間にやら出掛けていた母が戻ってきた。

「ねぇ、農園借りるのに手続きはどうやるの? 」

なんと、家庭菜園に誘われたという話から、母も現地を見てきたらしい。花を植えたりするのが好きなだけに、どうやら母も興味を持ったようだが、その行動力よ。言えば、畑に案内したというのにと呆れた。


 詳しい手続きは明日のお昼に斎藤さんに確認してみよう。そんな話をしていたら、母が私の背後を指さす。振り向くと、おもちゃを咥えているマリンが控えていた。


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