第7話 猫カフェ
今年の全体会議も無事に終わった。斎藤さんが指導係の同僚と上手くコミュニケーションを取りながら、段取りよく準備を進めてくれたおかげだ。すっかり社内に馴染んできた斎藤さんの評価もいい。斎藤さんも派遣契約の更新があったと喜んでいた。
お昼の休憩時間になると、斎藤さんは猫カフェでのことをよく話してくれた。お気に入りの猫や新人猫の様子など話を聞いているうちに興味が湧いてくる。斎藤さんの労いを兼ねて、猫カフェに案内をしてもらう約束をとりつけた。
駅前にある建物の前で斎藤さんを待っていると、前方に手を振っている人がいた。Gパンに白いロングシャツをコートのように羽織っている人は斎藤さんだろうか。こちらが注目しているのに気が付いたのか、小走りで駆け寄ってくる。間違いなさそうだ。私も手を振り返した。
「お待たせしました。」
会社で見ているより明るい笑顔で斎藤さんは声をかけてきた。
「私も来たばかりだから、そんな高いヒールで、走らなくてもいいのに。」
斎藤さんが履いている夏にふさわしいハイヒールをからかった。
「えへへ。なんか、待ち合わせしてお出かけなんて久しぶりだから、がんばっちゃいました。楠木さんのワンピース。素敵。」
「うふ。私もがんばっちゃいました。」
お互いに会社での服装しかイメージになく、普段の服の好みを話しながら、斎藤さんについていく。お洒落な斎藤さんはさぞ服を持っていると思いきや、普段着は数着しか持っていないという。
「いつもなら、畑に行って、スーパーで買い物をする位ですから、GパンにTシャツがあれば、それで一日終わっちゃいますもの。」
「今、流行りのミニマリスト?」と聞くと、そんな意識もないという。斎藤さんは離婚したばかりで、家を出る時は最小限の荷物しか持って出なかっただけだという身の上話をなんともあっけらかんと話した。
猫カフェに初入店の私は、入店での注意事項について説明を受ける。猫のいる部屋では、飲み物しか持ち込めないこと。無理に猫を抱いたり、寝ている猫をむやみに起こしたりしないこと。猫におやつを与える時はカウンターで売っているもの以外はNGといった内容だった。
衛生管理や猫達の健康管理が目的であることも踏まえて、注意事項を説明するスタッフさんに猫への愛情まで感じられる。
私の横で斎藤さんはお気に入りの猫に与えるおやつを選んでいた。
「まるちゃん、おやつ食べられます?」
まるちゃんとは、斎藤さんのお気に入り猫だ。ごはんの直後だったり、他のお客さんにおやつを与えられたりした後では、おやつを遠慮するのだそうだ。今日は問題なさそうで、嬉しそうにおやつを選定している。
まるちゃんだけにおやつを貰っては他の猫達が気の毒と、私もおやつを購入して猫達がいる部屋に入っていく。
この猫カフェには7匹の猫がそれぞれ好みの場所で寛いでいた。斎藤さんお気に入りのまるちゃんは、窓際のベンチで寝そべっている。甘い声で呼びかける斎藤さんにちらっと目を向けるのだが、体を伸ばしてお昼寝続行のまるちゃんだった。
斎藤さんは気にもしないで、まるちゃんに近づくとおやつを振ってみせた。まるちゃんはゆっくりと起き上がって、おやつにすり寄る。斎藤さんはすぐにおやつの袋を開けて、まるちゃんに食べさせて始めた。
その様子に気付いた他の猫達も集まってくる。私も持っているおやつをあけた。結局は二人そろって、集まった猫達にもおやつを分けて与える。おやつがなくなれば、ふいっと去っていく子もいれば、膝に乗ってくる子もいる。少し離れた先で猫同士、とっくみあいで遊んでいる子達もいる。猫達の接客は自由気ままだが、これだけの猫に囲まれると日常とは違う楽しさがあった。
まるちゃんは斎藤さんの腰にもたれかかるようにして昼寝を続けている。まるちゃんの長い毛並みを愛おしそうに斎藤さんは撫でていた。このカフェで唯一、長毛猫のまるちゃんが来たきっかけは、飼い主が施設に入る必要に迫られて飼えなくなったからだそうだ。
他の猫達も同様に色々な事情を抱えて、この猫カフェに集まっている。もしここで縁があれば、新しい飼い主に出会える場でもあるらしい。もし、まるちゃんが卒業したら、斎藤さんは悲しいだろうな。少し口をつぐんで二人の姿を眺めた。
斎藤さんと二人しかいなかった猫カフェに新たなお客さんが入ってきた。すでに一時間以上猫と遊んでいたこともあって、名残り惜しいながら店を出ることにした。もちろん、斎藤さんへの労いなのだから、私の支払いだ。
最近できたという新しいドーナッツショップへ案内するという斎藤さんは、ここは割り勘だと意気揚々としている。そのお店のドーナッツは、これまた猫の形を模しているというのだ。斎藤さんは生粋で猫好きかもしれない。
オープンしたばかりとあって、結構な人が並んでいた。後一人の接客が終われば、私達の番が回ってくると二人で目を合わせて期待を膨らませた。その時、ヒステリックな怒号が店に響いた。空いたレジ前で怒鳴っている女性に周囲が釘付けになる。
どうやら、自分の順番がやってきたというタイミングで、それまで接客した店員がレジを離れたと言って怒り始めたようだ。しかし、その店員はレジカウンターの奥にある冷蔵庫からジュースが入っていただろう空のボトルとプラスティックのコップを手にしながら、頭を下げている。
他の店員も別のレジの対応をしながら、怒鳴られている店員へ心配した視線を送ってはいるが、助けられそうにはない状況だった。怒鳴られている店員は急いでオレンジジュースの紙パックと新しいボトルを取り出して移し替えようとしていた。
「オレンジジュース入れ替えてますね。確か、その前のお客さんが頼んでいたものじゃないですかね。」
私の前に立っている斎藤さんが状況を察して、声を潜めて話しかけてきた。
つまり、前の客が注文したジュースを準備するために店員はレジを離れたのだが、このヒステリーな客はようやく自分の番になったとたんに自分を無視してレジを離れた失礼千万な店員だと詰っているのだ。
「余計なことをしないで、早く注文を聞きなさいよ。」
これでもかとレジの前で怒鳴り声をあげている。理解しがたいという周囲の白い視線がレジ前の客に集まっているが、レジ前の客は一切気づきもしないで怒鳴り続けていた。さっきまでの幸せ気分が一気に台無しになった。
「あの、静かに待てませんか。」
一瞬だけ、店が静かになった。私は一歩踏み出して、レジ前の客に話しかけていた。多分、これで落ち着くはずはない。
「あなたに関係ないでしょ。長々と待っていたのに、どうして私の番になって注文を聞かないなんて、ありえないわ。」
想像とおりの理由すぎて、ありえないのはあなただと言ってやりたくなった。
「まぁ、まぁ。」
割って入ったのは斎藤さんだった。しまった…… 斎藤さんを巻き込んでしまったと心がしぼんだ。
「ようやく注文が出来ると思った瞬間にレジ離れられたら、どういうことってなりますよね。」
斎藤さんはレジ前の客に同情した言葉をかけた。それを聞いたレジ前の客は声のボリュームが下がったが、それでも店員への悪態は続いていた。その悪態を頷きながら聞いている斎藤さんが言葉を返した。
「もし、自分の注文品を準備しないで次のお客さんを接客したら、どう思います?」
奥で注文品を待っているお客さんが頷いていた。
「そりゃ注文したんだから、ちゃんと出すべきよ。」
至極、真っ当な返答が返ってきた。斎藤さんもこれを聞いてほっとした目の色に変わった。
「ですよね。彼女はあなたの前に注文を受けたジュースを準備していたのですよ。運悪く新しく準備しなくてはいけないタイミングだったみたいで、それでも急いで用意しようとしているじゃないですか。こうして怒鳴ったりしたら、余計に時間かかっちゃいませんか。」
ようやくレジ前の客は周囲を見た。後ろに並ぶ人達の視線は斎藤さんを擁護するように冷たい。その隙に怒鳴られていた店員さんはオレンジジュースを包んだ袋を先に待っていたお客さんへ手渡す。その手は微かに震えていた。
「ありがとうね。」
店員に向かって優しく声をかけたのは、レジ前の客の奥にいた人だった。そして沈黙することになったレジ前の客に振り向くと、レジへ手を向けた。その目は明らかに軽蔑していた。
店員さんはレジ前の客にすら丁寧に対応した。私達を含め、後続のお客さんはその様子を心配しながら見守っている。レジ前の客は注文の袋を手荒に受け取ると足早に店を出ていった。
そうこうしてようやく目の前に現れたケースには猫に似せたドーナッツが色とりどりに並んでいる。店内の空気がようやく平和になったのを感じながら、私達は思い思いのドーナッツを買った
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