第6話 同僚

 デスクの上でスマホがブーブーと音を立てて震えた。相手は母からだった。周辺の同僚達は自分の携帯を確認した後、誰の携帯がなっているのか周囲を見回していた。

 慌てている私を見て、次々と自分のデスクに目を戻していく。ここで出るべきか、部屋を出るべきか。きっと買い物の依頼だろう。胸ポケットにボールペンが入っているのを確認して、付箋を握りしめてオフィスの出口に向かった。


「え? 仕事中じゃないの?」

もしもしさえ言わない母は動転しているようだった。

「仕事中よ。どうしたの?」といつも通りを装うが、業務中の応答に実は緊張していた。

「あ、バター買って帰ってほしいのよ。ついでに食パンもあっていいかな。今日ね、鮭のバター焼きにしようと思ったらね。明日の朝の分が足りそうにないの。あ、そうだ。もうマリンったらね、トイレの掃除したらね。」

その先の話は見当がつく。

「掃除したすぐにトイレしちゃうんでしょ?食パンとバターね。仕事中だから戻らなきゃ。」

「あぁ、ごめんごめん。よろしくね。」

母には逆に困惑させてしまった。そして緊張から胸の動悸を感じて、応答することが正しかったのか分からなくなった。


 席に戻ると、隣の席にいる斎藤さんと目が合った。

「珍しいですね。何かあったんですか?」

心配と好奇心が入り混じるなんとも複雑な表情をしている。それはそうかもしれない。いつもなら応答せずに着信を切るだろうと誰しもが思っていたはずなのだから。

何事かと気にしているのは、多分彼女だけじゃないらしい。向かい席の上司ですら、ちらりと視線を向けていた。


「なんでもないですよ。母から用事の連絡あっただけで、大したことではないです。すみません。」

まさかスーパーのお使いとまでは恥ずかしくて言えない。恐縮しながら愛想笑いでごまかした。


「それならよかったぁ。いつもと違うから何かあったのかと心配しちゃいましたよ。」

「お騒がせしてしまって、ごめんなさい。」

座ったまま、軽く頭をさげる私に彼女は微笑んで、上司達を見回して軽く頷きあっていた。微笑んだ上司とも目が合う。別に電話の応答が問題にはならなかった。私は今まで何に拘っていたのだろうと自嘲しながら仕事の続きに戻ろうとした。


 しかし、続けざま斎藤さんは話しかけてきた。どうやら来月の全体会議の資料作りに苦心しているらしい。運営している店舗からの報告書の取りまとめや、昼食弁当の手配の全てに戸惑っていた。


 無理もない。派遣スタッフとして入社した斎藤さんは、まだ日が浅く日常業務をようやく処理できるようになったばかりだ。指導を任されている向かいの同僚も、入社二年目でわずかに早くこの部署に配属されたばかりだから、的確な指示が出せているとも言い難い。斎藤さんには同情するべき状況だった。


 参考となる前回資料の保存場所を伝えると斎藤さんは懸命に資料を読み比べている。やがて休憩時間に入ったにも関わらず、手元の資料とモニターを見比べて、何やら目印をつけていた。


 ミルクティーは斎藤さんのお気に入りらしい。自分の飲み物とついでに買ってきたそれを、そっと斎藤さんのデスクに置いた。はたと手を止めて、見上げてきた斎藤さんのまんまるい目が、ちょっと可愛い。

「お昼…… ですよ。」

急いで腕時計を確認した斎藤さんは照れ笑いしてみせた。


 「私、ミルクティーが好きなんです。」

斎藤さんにミルクティーを勧めると、手に取って小さく会釈しながら礼を言ってくれた。

知ってる。疲れるだろうなという量の書類を片付けた後は、いつもミルクティーを買ってきていたから私もそれを選んだのだった。


 昼食を食べながら、斎藤さんは会議までの段取りをすでに見立てていた。斎藤さんは飲み込みがいい、後はその通りにこなしていくだけだ。しかし、彼女は前回資料と見比べて足りない資料があると不安そうにしていた。


 その足りない部分は各店舗が発表する部分だった。全体会議の日程が決まって、まだ数日と経っていない。おそらく各担当者が愚痴りながら、絶賛作成中といった状況だろうと説明した。

 すかさず、発表資料を送ってくるメンバーを後で教えてほしいという。それは資料提出が遅れた場合に連絡するかもしれないという理由だった。


 出来る人だ。感心して斎藤さんの顔を眺めていると、彼女は急に申し訳ない顔になった。

「ごめんなさい。休憩時間なのに、仕事の話をつづけてしまって。」

斎藤さんは肩をすくめて小さくなる。特に気にしてなかったが、そういえばそうだ。続きは休憩の後でと言って、私はスマホ画面に目を向けた。


 私のスマホには、マリンの画像が随分と貯まってきている。休憩中はそれを眺めるのが日課になっていた。今日は斎藤さんにも見せようと思った。


「斎藤さん、うちの猫なんですけどね。これ、無防備すぎやしません?」

斎藤さんは体を寄せるようにして、私のスマホを覗き込んできた。お腹を上にしてクッションで寝ているマリンの画像を見せた。

「うわぁ、へそ天。完全に気を許してますねぇ。」

斎藤さんは目を細めて画面を覗き込んでいる。他の画像もみたいという斎藤さん、やはり猫が好きらしい。そりゃそうだ。自前の文具は猫グッズばかりなのだから、言わずとも自明すぎる。


猫用起き上がりこぼしで夢中になっている動画、紙袋に入り込んで遊ぶ姿を楽しそうに斎藤さんは眺めていた。ペット禁止のアパートに住んでいる為に猫が飼えないのだと、小さく溜め息つく横顔は少し寂しそうだった。

猫と触れ合いたい欲求が貯まることを「ネコミン不足」と表現する彼女のセンスは面白い。そんな時は猫カフェに遊びに行くのだと満面の笑顔で斎藤さんは話していた。今日の昼休憩は楽しい時間だったが、無情にも業務再開のチャイムがなった。


 早速、今回の会議で発表する必要がある担当者リストを斎藤さんに渡す。それまでにすでに提出があった集計資料を取りまとめるといって、斎藤さんは印刷済の書類を取り出した。少し違和感を感じる。

 集計資料はエクセルデータで送られているものを関数処理すればそう時間がかかるものではないはずなのにと様子をみていた。斎藤さんはどうやら新規のエクセルシートに前回資料のレイアウトを真似て、表作成から作るつもりらしい。


 口をはさむべきか、任せるべきか。私は戸惑った。

「お節介ですけど、データから数字を引っ張ったら早いかなと……」

反発されるかもしれないと不安に駆られながら、小さく声をかけた。斎藤さんはどうしようもないという困惑の表情で答えた。

「前のデータに何か関数が入ってるのは見たのですけど、ちんぷんかんぷんで…… もう目視入力するしかないなって。頑張るしかないんですよね。」


 これを青天の霹靂といわずして何という。斎藤さんは関数や集計処理の操作には慣れていなかった。

「何とか頑張って、間に合わせますから。」と斎藤さんは申し訳なさそうな顔に変わっていた。いやいや、そんな苦労はしなくてもいいです。関数を使えば、その処理が半日もかからないことは経験済みなのだが、今はそれを口に出せない。


「それだと結構時間かかっちゃいますよ。前回資料は私が作ったので、そこだけ手伝いますよ。けど、全店舗からデータが揃っているかは確認してほしいです。」

そもそも論、今回の会議に出席する店舗リストも渡していなかった。段取りが悪い会社でごめんなさい。それでも恐縮する様子の斎藤さんだったが、まだ未提出の店舗がいくつかある事にすぐに気づく。


 集計資料の提出期限は過ぎているのだが、遅れて提出する店舗があるものだ。斎藤さんはその担当者を確認すると、すぐに連絡をいれている。その手早さと担当との会話のスマートさに見惚れてしまった。


 斎藤さんのおかげで、前回よりもスムーズに集計資料が揃った。この集計資料については恐縮する斎藤さんから、USBでデータを受け取った私は集計部分の資料を作成する。

 去年の私は揃わないデータを上司に相談して、なんとか集計が出来た。それに比べて、担当者に愛想よく資料の提出を依頼してしまう斎藤さんが、私にはまぶしかった。しかし、これが切欠となって二人で社外にランチに出かけるようになった。


 今日は仕事を手伝ったお礼だと言って、近くの日替わりランチをご馳走になる。メニューは斎藤さんが絶品というデミグラスソースのオムライスだ。

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