第5話 通り穴

 仕事が終わって、鳴らなかったはずのスマホを確認する。今日は母からのお使い依頼はなかった。まっすぐに帰宅すると、マリンより先に出迎えてくれた母の泣き言に衝撃を受けた。

「マリンがね。和室の襖に穴をあけたのよぉ……」

「え……」

母の後ろから飛び出してきたマリンに二人で注目する。マリンは立ち止まって、私と母の顔を交互に見上げた。


「マリンちゃん! もう困った子ね。」

めっという母は眉をひそめて口を尖らせていたものの、どこにも怒っている凄みなどなかった。子供の頃、私が悪戯でもしようものなら、震え上がるほど釣り上がっていたあの目の面影はどこに行ったのだ。


 荷物を部屋へ置きにいったついでに和室を確認するために入った。奥の部屋を仕切っている襖にマリンが通れる程度の穴がぽっかり空いていた。それ以外の襖にも、ゆーたんがつけた爪痕があちらこちらに残されている。一枚だけ直す訳にもいかないけど、修理を頼んだらいくら請求されるのだろう。


そうしていると背後に猫の気配がする。ちらりと目を向けると、おもちゃを咥えたまま、こちらを伺っているマリンがいた。

「いたずらにゃんこめっ。今、遊んでいる場合ではないのですよ。」

マリンはおもちゃを落として小首をかしげている。

襖の哀れな惨状に対して、猫が自分の罪を自覚しているわけもないこの光景に、不条理な滑稽さを感じた。つい吹き出して、マリンを抱きあげる。

ごはんのお時間です。そのまま二人でダイニングへ向かった。


 マリンは母が準備した食事をもくもくと食べている。

「まぁ、見事に空いてたね。」

「もう全くマリンのおてんばぶりには参るわ。直さなきゃいけないけど、勝手に襖をあけて和室に入るからねぇ…… 」

母は箸とお茶を渡してくる。それを受け取ってテーブルに並べた。


「和室に入らせないようには出来ないよ。ゆーたんの時もそう言って爪とぎされているもの。」

「そうね。見張っているわけにもいかないし、また穴を空けられたら、ご飯を背負わせて旅に出てもらわないと。」

おいおい…… ふくれっ面の母の顔を眺めた。私達の食事にも興味があるマリンが足元に来ていた。

「マリン、悪戯もほどほどにしないと、追い出されるってさ。」


そして夕飯を食べながら、襖修繕会議となった。修理を頼めば、それなりの出費になる上に、またマリンが襖を破きかねない。家中走り回って遊ぶ無敵にゃんこが、今日の明日で落ち着くはずもないと親子二人でうなずく。


「ホームセンターで売ってる襖紙で直してみようか。」

母はそんなことが出来るのかと驚いていたが、見劣りする見栄えでも穴が空いている状況よりはマシなはずと見立てる私。その後、また襖が傷んで修理を頼む頃にはマリンも落ち着いているかもしれないと微かな希望を含めて母はうなずいた。


 どうかな……横の椅子に飛び乗ってテーブルを覗いているのは、話題のマリンだ。人の食事に興味津々の彼女は、人間からのガードに負けずにあっちの椅子、こっちの椅子と場所を変えては食事内容を確認しようとする。


 たった二人での食事なのだが、マリンのおかげで食事時間は賑やかになる。結局、食べられそうなおかずを少し口にして満足すると、マリンはおもちゃ箱へと向かっていった。


 この週の休日がやってきた。ホームセンターで襖紙一式を揃えて修理を始める。マリンは傍にいて、見慣れない道具に警戒しながら確認して回っている。襖紙を剥がし終わった時、山もりの紙屑にダイビングしているマリンは楽しそうだった。


 母は友人から誘いがあったと言って出かけている。明日なら手伝えるのだがと、襖の修繕の事を気にしていた。襖の張替は表裏あるのだ。一日で到底終わりそうにはない。明日に残った分は手伝ってもらおうと、折角のお出かけを見送った。


 今週は仕事中に母からの連絡はなかったなと、ふと思う。仕事中の私的な連絡に応答していないことを智代子に指摘されて以来、母からの電話が気になるようになった。もし次に連絡があったらどうすればいいだろうと思い巡らす。


 母はいつものことだから、気にしないだろうけど、流石に今の私は気になっている。そして同僚や上司達はどうしているのだろうかと気になって仕方ない一週間になった。


 他人の電話にそば耳を立てるのも失礼な話だが、意外にも席のまま家族らしいと電話をしているのも見かけた。或いは、着信画面を見て、そっと部屋を出ていく人も見かけた。今まで気にもしていなかったことだった。

 いつぞや、母の着信を切っている私に、大丈夫? と声かけられたこともあった。その時は苦笑いしながら周りに謝ったのだけど、周りは少し呆れた様子だったと思い出す。


 あの見合い相手が家族からの連絡でイチイチ帰れないとぼやいていた姿勢に反発したけれど、実はその連絡にきちんと応答していたからかもしれない。私は…… 

そもそも、それすら出来ていない。


 用付けが留守電に残っていることで頼まれた内容を確認出来ることは便利なのは確かだ。レジ前で頼まれたものをかごに入れているか改めて確認して会計に進めば、買い忘れ防止としては合理的なはずだった。


 言い訳に思える。

 勤務時間中なのだから、仕事に集中するべき。

それはごもっともなんだ。誰しもそうしている。

 仕事しているのだから、家族はそれを理解して当然。

そこまで奉公滅私しなくてもいいと思っていたはずなのに、結局はこれに迎合していたのだ。

 同族嫌悪。

そう言われて心の中では反発していたのに、言葉がでなかったのは至極、当然だった。


 自分が情けなく思いながら、巻き癖がついた襖紙の伸ばしているとマリンが寄ってくる。揺れる紙の端にちょっかいを出しているマリンの手をかわしながら、貼り付ける準備を進めていく。この後は糊付けだ。


 裏面に水を吹き付ければいいわけだが、念のために水で伸ばした糊を塗り付けていく。だが、困ったことに糊を入れたバケツにマリンが顔を突っ込んで来てしまう。あまつさえ、その糊を舐めようさえとしてしまう。やっぱり母がいる時がよかったのか。


 マリンには申し訳なかったのだけど、部屋の外に出てもらった。外で声高に鳴いている声が聞こえている。私は心を鬼にして作業を進めた。だんだんとマリンの鳴き声が強くなり、部屋の外ではガリガリと引き戸に爪を立てている音がし始めた。


 和室に入る引き戸は割と重たい。そう簡単には開けられないはずと踏んだ私の算段は甘かった。糊付けが終わった頃、ガラっと僅かに引き戸が動く音がして、マリンが飛び込んできた。追い出された不服を吐き出すように声高な鳴き声を上げながら近づいてくる。

マリンさん、ごかんむりです。そして、まだ華奢な手で引き戸を開けたマリンに脱帽しながら謝るしかなかった。


 マリンに邪魔されるのを承知で、襖紙を張り付けていくしかなくなった。襖の枠に紙を合わせて、ハケで表面を撫でていた時のことだった。

バンという音と同時に目の前にマリンが飛び込んできた。

「こぉらぁ。マリンーー。」

私の声は怒号ではなく、悲鳴でしかなかった。だが、マリンは聞きなれない声に驚いて飛びのく。襖紙が硬かったおかげで破けてはいないものの、すこし凹んた分の歪みが出来ていた。


 マリンは飾り箪笥にまで飛び移って、上目使いでこちらを見ていた。

脅かしてごめんとマリンを撫でた。そのままいい子していてねと願いながら、歪んだ襖紙を直す作業に戻った。


 その後もマリンのいくらかの邪魔があったのだけど、大きな問題にもならなかった。奥の部屋でマリンは小さなぬいぐるみ相手に遊んでくれたおかげで、予定の半分はなんとか仕上がった。


 その仕上がりは予定より遥かに出来が悪かったが、どの道また貼り直す日がくるだろう。それまで母の文句を受け流すことにして、最後の仕上げにカッターを持つ。奥の襖の間にある襖の一枚に穴を空けた。これでマリンの通り道も出来た。

 明日は母の協力を仰いで、残りの襖も仕上げてしまおう。

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