第2話 お買い物
毎朝、母は私が仕事に出かける前に一杯のコーヒーを入れてくれている。マリンが来た翌日の朝もいつもどおりにテーブルの上にコーヒーがおいてあった。これまでと違うのは、ダイニングの隅でごはんを食べている子猫がいる。
「マリン、ケージから出してくれたんだ。」
出勤準備の合間にコーヒーをすすりながら声をかけた。
マリンはまだ小さくて、私達が寝ている間も自由にさせたら、万が一押しつぶしたりしないかと心配で押し入れの奥から随分前に使っていたケージを、昨晩引っ張り出したのだ。
「寝る前に入れておいたカリカリは全部食べていたわよ。」
朝までにお腹をすかせるかもしれないと、おやつ程度のドライフードをケージに入れておいたのだ。それでも尚、朝ご飯を無心に食べているマリンを見て、私は口元が緩んだ。
「よく食べるね。」といって、通勤カバンの中身を確かめる。
「しっかりトイレもしてたわ。」と言って、お茶の入った水筒を渡してくれた。
「ありがとう。ウンチしてた?」
水筒をカバンにつめながら問うと、母は微笑みながら頷いていた。
「マリン。大丈夫そうね。外に出ないようにだけ気をつけてあげて」
私の言葉に母はケージを置いた私の部屋で遊ばせると答えながら、足早に玄関に向かう私を見送ってくれた。仕事が終わったら、マリンにおもちゃでも買って帰ろう。そして車に乗り込んだ。
正直、ゆーたんを見送ってからの半年は気分がふさいでいるのを自覚していた。そりゃそうだ。16年ずっと一緒にいたのだから、ペットは家族同然とはよく言う。昨夜、遊ばせる為に適当に見繕った紐でさえマリンが夢中で遊んでいたのと同じように、ゆーたんも子猫の頃は何を見てもおもちゃにして遊んでいたものだった。
おもちゃも色々買って与えてきたけれど、その全てを気に入ってくれた訳ではない。
父が吸っていた煙草の銀紙、私が飲んだペットボトルの蓋。こんなものでさえ、ゆーたんには格好のおもちゃになった。
さぁ、今日の仕事は定時で終わらせるぞ。そう思った私の足取りは、いつもより颯爽とした気分だった。
仕事が終わって携帯を見ると母からの着信があった。留守番メッセージには卵とレタスを買ってこいとのご指示が残されていた。メッセージを消去しながら、「かしこまりました。」と呟く。
仕事中に携帯がなっているのには気づいていた。だが、仕事中に個人的な連絡には極力応答しない。私の姿勢に慣れている母は、留守番電話に用件を残してくれていた。内心はショートメールでもいいんだが、母はあまりメールの操作に慣れてはいない。
基本的には着信音を消しているのだが、時々それを忘れて、社内に着信音をならしてしまう。そんな時、私は応答するより、急いで着信音のボリュームを落とすのだ。同僚からは時々訝しがられているが、着信相手をみれば大方の用件は想像つく。仕事が終わってからでも十分間に合う話だ。今日の電話だってそうだ、単なるお使いの依頼でしかなかった。
帰り道、近くのスーパーで母から頼まれたものを買った後、隣接している百均を覗いてみる。店内を見回していると、マリンのベットになりそうな布製のかごを見つけた。値札には300円とある。これに合うクッションでもあれば具合よさそうだった。ペット用品のコーナーはまだ奥にあるのだが、先に猫用ベットを調達することにした。百均グッズは馬鹿にならない。ちょうどいいサイズのクッションを見つけた。色は何しよう。白?洗濯回数増えそう。ピンクもあった。可愛らしくなりそうでいいな。そうしてピンクのクッションを手に取って、お目当てのペット用品のコーナーに向かった。
そこには当然、犬用も猫用も陳列されてサイズも様々においてあった。私はそれぞれを見比べながら、マリンが遊びやすそうなものを物色した。そして手に取ったのは猫用おきあがりこぼしという300円のおもちゃだった。
箱に印刷されているのをマジマジと眺める。おきあがりこぼしのボディ部分は透明で中に恐らく鈴の入っているらしいプラスティックのボールが入っている。その先には20センチ程度の細い棒があって小さなネズミのぬいぐるみが釣り下がっていた。
猫がこのネズミで遊び出したら、ボディ本体はゆらゆらと揺れてさらに猫の狩猟本能を引き出す仕組みらしい。そして鈴のボールもついているならお買い得かもしれない。百均でハイクオリティを求めるのは厚かましいとは思うが、試しに買ってみようと買い物かごにいれた。
問題はマリンがこのおもちゃを気に入るかどうかなのだ。それはマリン次第でしかない。百均でケチって仕方がない。今、かごの中の総額はベット用に揃えたものを入れても千円にも達していない。百均様のありがたい所だ。他にもよくある猫じゃらしや小さめサイズのぬいぐるみを買い込んで、私は帰宅した。
おもちゃを見せた時のマリンの反応が楽しみで仕方なかった。家に入るなり、マリンを探しに自室に直行した。今日の彼女は背中を丸めて警戒態勢こそ取らなかったものの、明らかに部屋の隅に逃げてこちらを伺っていた。
「ただいま、マリン。」ひとまず声をかけて、ケージの中を確認した。少し匂うのだ。ケージの中にも用意したトイレには使用した後があった。よく食べ、よく排泄することは健康な証拠。しかし、猫のそれは匂う。
まずはケージの中のトイレを掃除することから始めた。マリンは買い物をしてきた大きなビニール袋を警戒している様子だった。ケージにつけてある水飲み器の残量は十分だったが、猫皿は綺麗に空っぽだった。今日は母も出かけている。お腹が空いているかもしれないと、少しおやつを用意した。
マリンはケージの中でおやつを食べている間に、さっそくおきあがりこぼしを開いてみた。私の期待は少し裏切られていることを知った。ボディに入っているボールは確かに鈴の音がするのだが、取り出すことは出来なかった。仕方ない、またボールはどこかで調達することにしよう。
おきあがりこぼしから聞こえる鈴の音が気になったらしいマリンはおやつを半分残した状態で傍によってきていた。まだボディに装着していない棒にぶら下がったネズミに恐る恐る手を出している。私は棒をもったままネズミをゆっくり大きな円を描くように振り回した。彼女のスイッチが入るのは早かった。
しばらく遊ばせた後、棒をおきあがりこぼしに装着してみる。これで遊んでくれたら完璧だ。完成形となったおきあがりこぼしにぶら下がっているネズミの動きは小さく、マリンは不思議そうに観察していた。それでもちょんちょんと前足でそっと触れると動き出すネズミ。やがてマリンはテンションを上げて遊びだしていた。
私はその様子を眺めながら、マリンのベットを準備していた。それはほんの束の間の事でしかないのだが、ボディに差し込んだ棒はあっさりと抜けてしまっている。これまた期待したのとは違っている。そう思いながらおもちゃを直して、マリンの様子を眺めていた。そして、また棒は外れた。
飛び跳ねるように遊ぶマリンを見ながら、外れやすいのも怪我防止になるかもしれないと考え方を改めた。それはそれでいい。しかし、このおもちゃ何日もつかしら・・・と少し不安になったが、マリン自身はどうやら気に入ったようだった。
ただ、用意してみたベットはお気に召さなかったらしく、すぐに飛び出してしまう。自分の気に入った場所でなければ、何を用意しても受け入れない。猫とはそういう動物だ。
急に部屋の扉が開いた。母が帰宅したのだ。
「帰ってたのね。」と私に声はかけるが、おもちゃで遊ぶマリンに母の目は向いていた。
「よく遊んでいるじゃない。買ってきたの?」
ご機嫌に遊んでいる様子のマリンを見て、母は微笑んでいた。
「うん、買い物帰りに近くにある百均で探してみたのよ。あ、それから卵とレタスはテーブルにあるからね。」
という私の返事に冷蔵庫位入れて欲しかったと苦情を言いながら、マリンに近づく母。残念なことに、マリンにまた逃げられていた。
「まだ懐かないかぁ・・・」とため息をつく母、昨日きたばかりなのだ。私だってやんのかポーズされなかっただけで、帰宅早々警戒されていたのだから、仕方ないよと母を慰めた。
「裕子のカバンだけどさ、そろそろ買い換えたら?取っ手の部分が随分傷んでいるじゃないの。」
そう、今使っている通勤用カバンは買ってから2,3年は経っている。私もいい加減買い替えなければとは思うのだが、都合のいいカバンが見つからない。
「ちょうど具合のいいカバンが見つからないのよ。」
「駅前のショッピングセンターとか、たまには出かけてみたら?」という母に私の拘りを主張しても仕方のないことだ。
つい最近も出かけたついでに、そのセンターで新しいカバンを探してはいたのだ。しかししっくりくるカバンは見当たらなかった。もちろん、おしゃれで素敵なカバンはたくさん売ってあった。だが、通勤に持っていくカバンには、それよりも使い勝手という機能性こそが大事なのだ。それに適したカバンが見つかるまで、我慢して探していくしかない。と私は思っている。これをいちいち説明するのは面倒くさかった。
多分、母もそこまで聞くのは面倒くさいだろう。
また探しに出かけてみると曖昧に返答をして、私は風呂掃除に逃げだした。母は晩御飯の支度を始めるのに忙しくなり、マリンはおやつが途中であることにようやく気付いて、再び猫皿の前に戻っていた。
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