猫とおひとり様

錦戸琴音

第1話 子猫

 猫のいる風景は、基本的に平和だ。

猫の一挙手一動から家族との会話に切欠を与えてくれる。

今、帰宅したばかりの私の目前には、小さな子猫が背を丸めてこちらを凝視している。私は玄関で固まってしまった。・・・この子は?

「おかえり」

母の声が聞こえて、私はようやく子猫から目を離すことが出来た。

「北村さんと話してたらね、子猫が生まれたから貰ってくれないか?って。名前、何がいいと思う?」

母はそう言いながら子猫に手を伸ばすが、すかさず子猫は部屋の奥へと走り逃げて行ってしまった。

 何もきいてないぞ?と心の中で呟いたが声には出さなかった。

「びっくりしたわ。玄関開けたら、いきなりやんのかポーズの猫がいるんだもん。」と笑いながら玄関をあがった。

「ドアを開ける音にびっくりしたのかもね。今日、話の勢いでもらってきたばかりだから、家中をうろうろしていたわよ。」

勢いでつれて帰るって・・・私に事前相談なしかーい!


「ゆーたんが死んでから、あんたも家が暗いって言ってたじゃん。その話をしたら、北村さんが見においでっていうもんだから、ゆーたんによく似てると思わない?」

私は言葉を濁した。半年前まで家にいたゆーたん・・・ハチワレ君だったじゃないか・・・帰宅して早々に、やんのかポーズで出迎えられたあの子は三毛猫・・・どこがと困惑していた。

 リビングでそろりそろりと家中を嗅ぎまわっている子猫を眺めて、強いていえばなのだが、耳から目の付近の黒毛がハチワレのようには見える。しかし、三毛猫ってわりとそういう子多くないか。しかも三毛猫ということは、おそらく女の子。ゆーたんは男の子だった。母には猫なら全部同じに見えているようだ。

「生まれてどれ位なの?」

どうしても似ているとは言えないまま、問いかけた。

「3カ月位前に産んだんだって、4匹いたわよ。で、なんとなくゆーたんに感じが似てるあの子をもらってきたの。トイレも覚えているし、ご飯はカリカリも食べられるようになったから、北村さんも貰い手を探し始めたところだったんだって。」

「そう。」

半分は北村さんに押し付けられたんだと察した。近所に住んでいる北村さんは、世話好きで良いおばさんなのだが、少々強引なところがあった。人には良し悪しというものが必ずあるもんだ。


 子猫は家中を嗅ぎまわっては、距離を置いて私達を見ている。私は周囲を見回した。まだ幼い猫が遊べそうなものを探していた。生後3カ月の子猫はまだ手のひらに乗りそうな位小さいから、あまり大きなものでは遊べそうにはない。母の裁縫箱が目に入って、中を覗くと丁度よさそうな紐を見つけた。

紐を垂らして、しばらくゆっくり回していると、子猫はそれに気づいて駆け寄ってきた。そっと前足でちょんちょんと触っては咥えようと模索してみたり、少し離れてみたりと興味はあるようだ。

「ところで名前なにがいいかなぁ。」と母。しばらく考え込んだ私は

「三毛猫だからトリンにしようよ。」と答えた。

「えー?なんでよ?それならマリンちゃんの方が呼びやすい。ねー」と言って、偶然近づいていた子猫を捕まえようとした母は、またもや逃げられていた。

私はその様子を見て笑いながら、

「マリンちゃんってパチンコのキャラクターみたいやんか。しかも逃げられてるし。」とからかった。しばらく子猫の命名論争が続いたが、結局は母に負けてマリンに決まった。その時間、マリンと名づいた子猫は紐で遊ぶことが面白くなってきたのか、紐を追いかけるように右周り、左回りと走り回るほどのテンションになっていた。


「ところで母さん。マリンのごはんやトイレは?」

遊び疲れる様子さえ見せず夢中に紐で遊ぶ子猫を眺めながら問いかけると、当然用意していると思っていた猫の飼育用品はまだ揃っていないと返事が返ってきた。仕事から戻った私よりも少し前に子猫を連れて帰ってきたばかりなのだと言い訳をしていた。

半年前まで飼っていたゆーたんのトイレ用品は残っているらしく、母に用意を頼んで急いで餌と猫砂を買いに出かけた。

 全くどうして必要品を買いに行かなかったのかと車の中でため息が出た。

近くのホームセンターに車を止めて、ペット用品売り場へ向かった。

久しぶりに立つにも関わらずシニア猫用のドライフードの前に立ってしまい、まだ習慣というものが残っていたのだと自分に苦笑した。


 子猫用のドライフードに缶詰、ついでにおやつと選んでいると、猫用の牛乳が

目についた。不意にゆーたんを拾った頃のことを思い出した。

 酷い雨が降っていた夕暮れに父が子猫を手にして帰ってきた。仕事から戻った父が車庫に車を入れようとした時、ガレージにびしょ濡れでうずくまっていたのがゆーたんだった。

 あの時は父が餌を買いに走った。そして私と母はとりあえず食べれそうなものをと、牛乳を飲ませて父の帰りを待っていた。

猫にとって人間用の牛乳が栄養にはならないと知ったのは、それからずっと後のことだった。しかしあの時、ゆーたんはのどを鳴らしながら牛乳を懸命に飲んでいた。あれから16年でゆーたんは天国に行ってしまった。

 マリンには猫用の牛乳も買って帰ろう。気づけば19時、いくらなんでもマリンもお腹が空いているはずだ。そして私もお腹が空いている。

家に戻ると、リビングの隅に当然のように猫用トイレがおかれていた。ゆーたんがいた頃にもそこに置かれていた。


 母はマリンが猫用トイレを跨げるかと心配しながら、砂を入れていた。子猫は距離を置いて、母の様子を伺っている。台所には洗ったばかりの猫皿がおいてあった。

私は買ってきたドライフードに缶詰を混ぜて、子猫のご飯を用意した。

 ダイニングの隅には見覚えのあるランチョンマットが床に敷いてある。これもゆーたんが食事する場所に敷いてあったものだ。

「あのランチョンマット、まだ残ってたんだ。」

トイレに砂を敷き詰めた母はなんとか捕まえた子猫を猫トイレに降ろしていた。

「なんとなく捨てられなくてね。さて裕子もお腹空いたんじゃない?カレー温めるから、晩御飯にしようかね。」

マリンは新しいトイレの匂いを嗅ぎまわった後、そこから飛び出した。その様子を見守っていた母はそう言って台所にやってきた。


 母と入れ替わるように私は母が準備したランチョンマットにご飯をおいて、マリンを呼んだ。子猫はどうやらご飯らしい匂いにつられてやってきた。やはりお腹も空いていたのだろう。目の前で無心になってご飯を食べている。

前にいた猫、新しく来た猫。そうしたことを区別しているのは、私達だけなのだろうか。そこにゆーたんの匂いも残ってはいないからに過ぎないのだろうか。

まだ見慣れない空間に少しばかり緊張している様子の子猫は、自分の名前すら理解していない。マリンはただそういう状況でしかないのだ。

 ちょっと感傷的になったものの、マリンが遊ぶ姿に餌を食べる物音に居心地のよさも感じていた。


 母がカレーを温め、二人で食事を始める頃にマリンは食事を終わらせ、またもや部屋中を歩きはじめた。母はおもむろに小引き出しからゴルフボールを取り出し、リビングで転がしてみた。案の定、ボールに気づいたマリンは飛びはねるように走り寄って、ボールを追いかけまわし始めた。私達親子は微笑ましいその様子を眺めながら食事を終わらせた。

「マリンが来ただけで、なんだか賑やかになったねぇ」

母は目を細めて、ボールを追いかける子猫を眺めていた。

「そうだね。」

私も同じ方向に目を向けて、そう答えた。マリンとの新しい生活が始まった。



 





 

 







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