渇き

馬村 ありん

渇き

 最後の牛が倒れるのを、裕也はボンヤリしたまなざしで見ていた。骨と皮ばかりにやせ細った牛の口から密度の高い唾液が垂れた。死の臭いを早くも嗅ぎ取った牛舎の蝿が牛の周りを飛び回っていた。

「廃業だな。うちも終わりだ」

 父親が言った。その声にいつもの活気はなく、その細い目はいつもより悲しげだった。

「どうなるんだろうな、俺たち」

「なるようになるんだよ」

 父親はウインドブレーカーのポケットに手を突っ込んだまま言った。


 裕也と父親は穴を掘った。牛舎の横だ。骨と皮ばかりになっても牛の体躯は大きい。人間のために掘る穴とはその面積はまるで異なる。

 裕也はせき込んだ。背中が激しく痛んだ。水を一杯でも飲めば、この痛みも楽になるのだろうが、ここにはなかった。

 五年も前ならコンビニで買ったペットボトル入りの水をがぶ飲みすることができた。別に水じゃなくてもいい。コーラでもサイダーでも。とにかく渇きをうるおすことはとても簡単なことだった。


「立てるか?」

 父親が言った。父親もとても荒い息をついていた。六十を過ぎた男の体力だ。疲れ切っていることは間違いないだろう。

 粘っこい唾を吐き出して、裕也は首を左右に振った。

「自分で立てる」。


 あれだけあふれていた水はどこかに消えた。

 気候変動の影響で、いつの日からか降水量が減っていった。ダムの水は減り、山の枯れ木が目立った。水の使用制限がはじまり、人々が風呂に入ったり、シャワーを浴びたりできなくなった。

 水源地は外国に買われていた。

 あふれんばかりの水を楽しめるのは金持ちだけになり、ペットボトル飲料はドンペリみたいに重用された。

 一般の国民は配給の水を、雨水をちびちびと使っていくしかなかったのである。


 裕也が家に帰ると、妻の美咲は我が子を寝かしつけているところだった。美咲の腕のなかに収まった、流星のやせ細ったその顔を見ていると、裕也は涙が出そうになった。

「今日はどうだった?」

「疲れてるわよ。流星の世話をひとりでやってるから」

 両目をこすりながら美咲は言った。

「つっかかる言い方だな」

「……いつもそうやって怒る」

「俺だって汗水流してきたんだよ。お前だっていつも自分ひとりが苦労していると思いやがって」

「そんなこと言ってないでしょう! 馬鹿なんじゃないの」

 裕也は美咲の頬を平手打ちした。美咲の顔が赤くはれ上がった。

「裕也、何やってる!」

 土間から部屋に入ってきた父親が怒鳴った。

「こいつが……馬鹿呼ばわりするからッ」

 裕也は叫んだ。

「わかってやらんか。流星がこんな状態なんだ。美咲さんもツラいんだよ!」

「クソッ」

 裕也は部屋を飛び出した。


 橋の欄干らんかんにもたれ、裕也は風にふかれていた。橋の上からは干上がった川床が見えた。乾燥したヘドロのなかに空き缶や空っぽのペットボトルが横たわっていた。動物の骨があった。おそらく野良猫か狸のものだろう。


 流星は神経の病気を患っていた。病気に追い込んだのも水不足が遠い原因にあった。

 外で一人遊びしていたある日、のどが渇いた流星は水分を求めて道端に生えていた草を口に含んだ。道端の草など口に苦い物で、口に入れてもすぐに吐き出すのではないかと裕也は思うのだが、流星は飲み込んだ。流星はたくさん食べた。そこに除草剤たっぷりがかけられていたのも知らずに。

 そのせいで、神経に変調をきたし、流星は自分で立って歩くことも口をきくこともできなくなったのだ。


 すべてが良くなると信じていたころも裕也にはあった。

 ざあざあと雨が降り、流星の病気も治ると。

 町の教会の看板にあった言葉『雲は雨をあふれさせ 多くの人の上に降り注ぐ ヨブ記』。

 不信心者の裕也だが、なぜかこの言葉に胸を打たれた。希望を捨ててはいけないのだと。

 しかし、度重なる不幸に何もかも信じられなくなった。


 サイレンの音に裕也は顔を上げた。赤々と光を発して、真っ白な救急車が裕也のすぐそばを通り抜けた。すぐ近くだ。橋のたもとから坂を降りた場所に救急車は停まった。

 近所の人たちが出てきて、救急車の停まった家の前に群がった。裕也も足を運んだ。

 担架を運んだ複数の救急隊員が木造家屋の中に入った。

「また熱中症か?」

 誰かが言った。

「違う。自殺だってよ。一家心中だ。首吊ったんだと」

 また別の誰かが言った。

「何だって自殺なんか……。なにも死ぬことは」

「珍しい話じゃねえよ。そこらじゅう自殺者だらけだ。こんな災害のひどい世の中だもの」

「水の取り合いで殺人コロシが起こる時代だものな。確かにそうだ」

 男たちは黙り込んだ。


 その夜は無言でテレビを見ていた。食卓に並んだのは、電子レンジで温めるおかゆだった。美咲の実家から送られてきたものだ。

「トップニュースです。海水を真水に変える研究に国際科学大の研究チームが成功しました」

 テレビは希望をうたった。

「これはいいニュースだ。海の水を飲めるようにするとは恐れ入った」

 父が言った。

「海水なら無限にありますものね。これが実現したら、水不足も解消ですね」

 美咲が微笑んだ。

「でも、実用化はいつなんだ?」裕也が言った。「せまい研究室で成功しようが、今すぐ水が届かなきゃ何の意味もないんだよ」

 二人は押し黙った。


 ニュースは続いた。

「熱波は今月中ずっと続く見込みです。飲み水を確保し、健康でいられるように努めてください」

 アナウンサーはそう読み上げた。

 飲み水を確保しろだと? どの口が言う。何日も前に降った雨水を何度も煮沸しゃふつして使っている小市民に向かってそんなことを言うのか。

 こいつらテレビマンは一体どこを見て報道をしているんだ。水が簡単に手に入る富裕層の連中か。

 じゃあ何だ、俺たちみたいな小市民には死ねと言っているのか。


 その夜、流星は口から血を吐き、苦しそうに咳き込んだ。

 原因が何かは分からなかった。

 口内には何の傷もない。

 自動車で病院に運んだ。

 家に帰って、処方されたくすりを飲ませると、流星は落ち着いて眠った。

 みんな世話に疲れ切った。

 寝不足だった。裕也も、美咲も、父親も。


「雨は降るのかな。前みたいに。たくさん」

 夜空の星々を見ながら美咲が言った。

「降ると思うか?」

 裕也が言った。

 美咲は少し考えて、首を左右に振った。

「死のうか」

 裕也は言った。

 

 あくる日の夕方、裕也の運転するワンボックスカーで街まで向かった。

 ホームセンターに着いた。カートを運び、DIYのコーナーでロープを選んだ。どのくらいの太さが良いのかひとしきり議論した。大人の体重を吊り下げられるのに十分なものを選んだ。

 父親は農作業用のコーナーをぶらぶら歩いて見ていた。もはや何の必要もないはずだが、いつもの習慣なのだ。うれしげに道具類を見やっていた。


 その後、ファミリーレストランに行った。客はほぼおらず、ウエイターがすぐにやってきた。牛肉のステーキを四皿。コップ入りの水を四つ。それからパンを注文した。

 牛の飼育には草を育てるための多大な水を必要とする。この外国産の牛は、健康を保てるだけの水をたっぷり飲めていたということだ。

 水不足に苦しんで死のうとしている人間が、水を浪費してできた牛の肉を最後の晩餐ばんさんにしようとしている。その皮肉に笑いそうになった。


「昔はね、牛肉といえばそれほど高いものではありませんでした」

 美咲が言った。

「輸入のアメリカ牛ならとても安くて。学生時代は毎週のように近くのファミリーレストランで千円のステーキを食べていました」

「俺のころは高級品だよ。ご馳走だった。ステーキなんてのはな、めったに食べることができない。めでたい時に食べるものだったよ」

 父親が言った。

 会話は不意に途切れた。

 この後に起こること、自分たちが行おうとしていることの虚しさの前に、何もかもが空虚になるのだ。


「流星、うまいか?」

 流星の口元のよだれをナプキンでぬぐいながら裕也はたずねた。流星のために肉を細切れにして食わせてやった。

 流星は答えなかった。

 でもその目の輝きで喜んでいることがわかった。

 目を見れば分かる。

 口では何も答えなくても。


 帰りの車の中で美咲が泣いた。後部座席にすわる彼女の横顔を夜景が照らし、痩せこけた頬に涙が伝った。

「こんなふうに死にたくない」

 誰も何も言わなかった。

「病院のベッドで天寿を全うして死にたかった」

「やめるか?」

 裕也は車を停めた。

「降りればいい。家族を捨てて」

「どうしてそんなこと言うの」

 チャイルドシートにこしかけている流星の体をひしと抱いて、美咲は言った。

 車内は沈黙が支配した。赤信号が照らす夜の街並みがフロントガラスを通して車内に飛び込んでくる。

 ステアリングを操作し、家路に向かった。二度とこの街並みは走るまい。裕也は目に焼き付けた。幼年時代から今まで過ごしてきた街並みよ。


 人生最後の風呂に浸かりたかったが、そんなことはできない相談だった。代わりに残った水を沸かして、タオルに染み込ませて、身を清めた。

「準備できたぞ」

 ふすまを開け、父親が居間に入ってきた。隣の部屋の天井の梁には三本の輪っか付きのロープがぶら下がっているに違いない。何十年もこの家を支えてきた梁だ。頑丈であることはお墨付きだ。

「ああ」

「隣で待っている」

 なんだかんだ父親は肝がすわっている、と裕也は思った。父親は平然としていた。裕也はというと怯えていた。恐怖が心中で吹き荒れていた。顔をこわばらせ、声を硬直させ、全身を震わせていた。

 美咲に目を向けると、彼女は流星を両手に抱えたまま、微動だにしていなかった。寝ているようにも見えたが、ひしとわが子を抱きしめていたのだ。

「行くぞ」

 返事がなかった。

「行くぞ」

 繰り返した。

「わかったわよ」

 美咲は流星を抱きしめたまま、裕也の後をついて隣の部屋に入った。


 まるで神道が何かの儀式のように、裕也たちは畳の上に正座して、父親がおちょこに注いだ酒を何度か口にふくんだ。ひさびさの酒が口を灼いた。

 裕也は何もかもが目に焼き付いていくのを感じた。あとこの光景を見るのも最後だと思うと全てが愛おしくてたまらないのだ。

「みんな、本当にごめんな」

 誰も何も言わなかった。


「流星」

 裕也は我が子のもとに近づいた。流星は視線を裕也に向けた。

 流星の頭をなで、頬に何度もキスをした後、その華奢きゃしゃな体を畳の上に寝かせ、その生白い首筋に自分の両手を当てがえた。

 まず、流星からだというのは決めていた。手を下すのは誰か、それは自分しかいないと裕也は思っていた。その後、大人たちで後を追うことにした。

 美咲はこの光景から目を逸らし、わっと泣き始めた。

 裕也は最後に我が子の頬を指先でなぞった。視界がかすんで流星の顔がうまく見えない。

 後悔はないか。

 もう決めたことだ。

 裕也は指先に力を込めた。


 うまくいかなかった。

 力が空回りした。指先はただただ震えるばかりで、我が子の首の骨を折るのに至らない。荒い呼吸が喉をついて出た。

 何をしている?

 簡単なことじゃないか。

 無力な少年の首の骨を折ることくらい。

「あああっ!」

 裕也は叫んで、さらに腕に力を込めるが、やはり無駄だった。梁からぶら下がる白いロープが冷房の風に揺れていた。それはまるで裕也を嘲笑っているかのように見えるのだ。


「もうやめよう、裕也」

 止めに入ったのは父親だった。

「泣いている」

 見れば、流星の両のまなざしからは水滴があふれ出していた。流星が死を望んでいないのは明白だった。

 泣いていたのは流星だけではなかった。わが子の命を奪おうとしているこの男こそ涙が頬を伝っているのだ。

「人には決められた天寿というものがあるんだ」父親は言った。「それを待ってみてもいいじゃないか」

「やめる……やめる。すまない」

 かすれきった声で裕也は言った。深くこうべを垂れ、畳のうえに額をこすり付けた。

「すまん、流星」

 枯れ果てた声で裕也は流星を抱きしめた。その裕也の背中に体温が感じられた。美咲だった。美咲も裕也の背中にしがみつき、嗚咽おえつをもらしていた。


 その二日か三日後のことだ。

 黒雲が太陽におおいかぶさり、夜みたいに暗くなった。

 雨が降った。

 土砂降りだった。大きな雨粒が土煙をはねあげ、草もまばらな地面に降り注いだ。

 気象台でも予想できなかった奇跡的な雨だった。


「嘘だろ……」

 信じられなかった。今見ているものが幻なのではないかと思い、裕也は疲れ切った体を起こした。


 裕也たちは元は牧草地だった場所に出て、雨の粒を全身に浴びた。

 雨は髪を濡らし、鼻筋を流れ、Tシャツに染み渡った。口を広げ、裕也は水滴を口内に含んだ。水滴がかわいた舌を濡らした。雨粒を飲み込み、嚥下した。

 美咲は雨に濡れるわが子を愛おしく見つめていた。

「信じられない」

 美咲は言った。

「信じるべきだったんだ。降ってくるって」

 裕也は言った。美咲に頭を下げた。

「許してくれ。俺はひどいことをしようとした」

 美咲は何も言わず、裕也の目を見返していた。


「ほらほら、集めにゃいかん」

 父はバケツというバケツ、鍋という鍋を物置から持ってきた。バケツの底を雨粒が打ち付ける音が響いたと思ったら、水滴はあっという間にバケツを満たした。

 切れ目なき雲がどこまでも空をおおっていた。まつげにかかる雫をぬぐっては、裕也はいつまでも空をながめていた。


 雨は三日三晩降り注いだ。

 乾いた牧草地を濡らし、乾いた川床を濡らし、水源地である山々に降り注ぎ、ダムの水量をかさ増しした。

 川には水流が走り、滞留していたヘドロも動物の骨も押し流した。

 少し降りすぎではと心配になるくらいの降り方だったが、それでも雨だった。


 長らく干ばつが続くと見られていたわが国だが、潤沢な水資源が戻り、日常を取り戻しつつあった。

「ただいま」

 裕也はネクタイを緩めて部屋へと入ってきた。食欲を誘う匂いが漂い、美咲の作った食事を父親がお盆に乗せて運んでいた。

「流星、ただいま」

 流星は介護用の椅子に横たわっていた。あいさつをすると、流星はきらきらしたまなざしで見返してくるのだった。

「会社はどうだった? 実験はうまくいった?」

 美咲はたずねた。

「まだまだ塩辛かった。でもいつか真水の味になると信じてるよ」

「期待しているわよ、あなた」

 美咲はほほえんだ。

 牧場業から手を引いた裕也は、市内のベンチャー企業に勤めた。海水を真水に変えるビジネスの会社だ。干ばつがまたいつやってくるかわからない。そのために今世の中から切望されている仕事だと思ったのである。

 食卓には白米と味噌汁。それから豚肉とキャベツの野菜炒め。いずれも水が育んだ食べ物で、水により調理されたものだ。

 裕也はもりもりと食べた。


終わり

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