熱願冷諦

 ジゼの山嶺。そこはかつて、神が世界を見下ろす場所であったという。

 地上に連なる場所で、その頂きより高い場所は存在しなかった。それは半分の高さに崩れた今もであり、全盛の威容は只人が想像するにあまりある。神と人の声が世界に響き渡るいにしえの神代時代には、ジゼの山嶺は大きく、凍てつくことも燃えることもなく、万物流転の中心として大陸を巡る風が渦巻いていた。

 なぜ今の環境と違うのか、詳しいことは分からない。怪物が現れる以前に、山嶺の環境は変わっていたのだから。

 地獄のような今ほどでは、決してなかっただろうが。


「お疲れ様、タムリア。うん、近くに別の個体はいないようだね」


 魔獣を切り伏せた剣を杖にして喘ぐ弟子に、青年は朝食を食べるときと変わらない調子で言う。

 張り付いた唇を引き剥がし、裂けた喉から赤が混じり泡だった体液を息と吐き出す。タムリアの姿が見えていないのかと、人間ならば……そう疑問を抱くだろう。


「あ゛……り、が……グゥ――っぉ、ざい゛…………ます」


 タムリアは自分でも聞き取れるか怪しい言葉で、青年への礼を口にする。

 青年が誰よりもタムリアを見ていることを、彼女自身がよく知っていた。だからこの「ありがとう」も届く。


「登り始めて十日だ。ちょっと傷がふえてしまったかな。休むかい?」

「………………」


 熱に焼かれ風に凍った肌が、横に振れた首に合わせて薄く剥がれる。

 割れた皮膚が爬虫類のウロコのような両手に力を込め、タムリアは今一度両の足で地を踏みしめた。上を向いた目が映すのは、果てしなく高い山嶺。山脈と呼びたくなるが、それはひとつの山。近道はなく、ひたすらに登る以外の踏破は許されない。

 一度に吸い込めば地獄の苦痛をもたらす空気を、タムリアは口に含んでからゆっくり肺に送る。どのみち激痛は避けられないが、生物である以上苦痛を避ける行動をしてしまう。タムリアの姿は、とても苦痛を避ける本能があるようには見えないとはいえだ。

 目に見えるほどに濃くなり始めた瘴気にまた一歩を踏み出し、加護の刻まれた靴が氷の棘を踏み砕く。

 騎士はまた一歩、怪物に近づいた。

 一日、一日、また次の一日も……止まることなく歩みを進める。

 襲い来る魔獣は少なく強くなり、弱り果てた騎士は剣を振るっては足を動かしていく。

 柄を握る手から皮がなくなっても、左半身から頬と表情が失われても、篝火の魔術を編まれたコートが燃え尽きても――――騎士は北方からの風に背中を押され進む。


「タムリア、タムリア。着いたよ、ここが山嶺の崩壊地。そしてあの大穴にいるのが、『怪物』だ」


 風から響くように、青年の声が言葉をかける。

 いつぶりだろうか。魔獣も出てこなくなり下げたままだった頭を、騎士は緩慢に上げた。

 初めて、己の立っているのが傾斜に挟まれたわずかな地面であると気付く。忘れかけていた陽光があることも、なんとか認識する。

 血と土を混ぜた色が周囲を覆い、風と混ざって騎士鎧に纏わりつく。瘴気そのものの風は、本来ならば熱によって全てを朽ちさせ塵に還す。だがここまで辿り着いた者の身体は、すでにぼろぼろと崩壊を進めていた。肉体が崩れた灰で覆われたが故に、瘴気の影響を弱めたのだ。


「さあ、降りようか。怪物はすぐそこだ」


 青年の声の通り、怪物までは異様なほどに近い。

 凄まじい高さの山嶺が半分から崩れたのだ。その中央にある大穴は、怪物の居場所まではかなりの距離があるはず。そのはずなのに、大穴と思われる場所はほんの城一個分程度しかない。

 考える力も惜しいと、傾斜に灰を落としながら怪物へと進む。

 呆気ないほど確実に怪物との距離は縮まり、ある一線を越えたところで、香しい春の風が正面から灰を散らした。


「…………ぁ、ぁあ……こんなの、ないよ」


 地面にぶつかった膝当てが、耐えきれずに割れる。

 崩れ落ちたタムリアは剣を手放し、しかし意識だけは目の前の光景に捕らわれていた。


「どうしたんだいタムリア。君は怪物を殺すんだろう?」


 不思議そうな問いかけに、タムリアは答えない。

 失うことのなかった目は、まず花の海を受け入れる。風に揺れる白と黄色と紫の花弁が隙間なく寄り添い合い、彼らを育んでいるだろう大小の川が区切るように中央から流れていた。身体に積もった灰が飛ばされると、包み込む春の息吹が痛みもなくタムリアを温める。

 その中央。花の海と清涼な水、春の風の発生源。金色の山脈が眠っていた。

 ジゼの山嶺中腹、その本来の広さを満たす楽園を創っていたのは、黄金のウロコを誇る一柱の龍。身体を丸め瞳を隠し、山脈に見紛う神体が清廉なる世界を維持しているのだ


「ねえ、ししょー」

「ん、なにかな」


 痛まなくなった喉を使い、タムリアは音を紡ぐ。

 ゆっくりと膝を立て、立ち上がり、拾い上げ――――姿モノに剣を突きつける。

 悲しみと希望を運命力へと導く、マーシャルの剣。潤むように刃を滲ませる剣は、今は春の風さえ従えていた。いや、春の風を従えているのは、剣を握るタムリアの方か。


「ししょー、は、『怪物』だよね」

「そうだよ」


 青年は肯定する。


「あの龍が、『怪物』なの?」

「うん、そうだよ」


 青年の形をした『怪物』が、うなずく。

 春の風が水気を与え血が止まった手が、柄を握りしめ再び赤を垂らした。


「ししょーは、聖女様をたべたの?」

「食べたよ。そうやって僕は、僕を封じた。君の考えている通り、この風は聖女アハトラナのものだ」

「ししょーは、なんで自分を殺せって言ったの?」

「君がそれを望み、僕には約束があったから」

「なんで私だったの?」

「んー……偶然かな? 僕がこの形を作れたのが最近だから」


 タムリアはゆっくりと剣を下ろし、青年から外した視線を黄金の龍に向ける。


「ししょーは、聖女様とお話しした?」

「ん、まあ、したような、してないような?」

「そうなんですねっ、聞きたい!」


 剥がれ壊死し灰色となった左半分が気にならなくなるような、タムリアの顔右半分に浮かんだ輝くような笑顔。

 青年の記録の中で一番多い、太陽のような笑顔。


「私は聖女様と会いたいけど会えないから、ししょーのお話を聞きたい」


 剣を花の咲き誇る地面に突き立て、バッグを立てかけて簡易の椅子に。


「私はなにもしらないから、ししょーの話を聞きたい」


 バッグから冊子にまとめられた『タムリアが怪物を殺すためのマニュアル』を取り出し、裏表紙から開けば白紙のページたちが。一面にしか書き込まれていないページは、ぎっしりと書き込まれた表とは違い裏側に白紙を残していた。


「西から南に行って、東を通って、北まで、そこから世界の中心にたどり着いた。まるでおとぎ話みたいな物語を、全部残したい」

「君は怪物を殺すんだろう?」

「ししょーを倒すのに、必要なんです……!」

「んー……そう言うのなら。ちょっとだけ付き合おうかな」

「こっちですっ、となりに座ってください!」

「敵をとなりに座らせる英雄か。珍しい」

「過去には囚われないのよ」


 本を抱き、バッグの底で潰れているペンを取り、花の上に並んで、温かな風に抱かれる。


「……良い天気です、ししょー」


 片目に映った空は、とてもとても心地よい晴天だ。


「うん、空が近いね……タムリア」


 傷に覆われていない眼界を追って、青年は柔らかに同意を返した。

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