彼方のあなたへ、歌を紡ぐ
冷たい風が喉を刺すなかで、世界で最も偉大な神山を見上げる者がいる。
「タムリアよ。行くのか、かの死地へ」
古より半分の高さで、なお最高峰たるジゼの山嶺。
タムリアは視線を下ろし、長く世話になった王と目を合わせた。
「バスカニア王。一年待ちました。この時間が我が心を変えない以上、私は使命を果たさねばならないのです」
聖女の死から199年後。
ジゼ大陸中部北東寄り。ログターニア諸国家群の都市ハディオ。
昨年の冬に大怪我を負ったタムリアは、ジゼの山嶺を前にして進行中断を余儀なくされた。
怪我が癒えても、体力をつけても、冬が来なければジゼの山嶺へ挑むことはできない。
一年の遅れのを取り戻さんと、タムリアは瞳には強い光を湛えていた。
「ニズアの黒蛇を葬った勇士を、こうも見送らねばならんとは。……その魔を早々に剥がすべきであった」
「ししょーは魔ではありません。剣の、旅の、騎士としての、私が敬愛するししょーです」
「ふー……勇士タムリア、バスカニアはその名を忘れん。死の間際に助けが欲しくば、我が名を呼ぶがいい」
巌の如き肉と鋼の骨、身につけた鎧は実戦の傷すら装飾とする。見上げるべき巨漢は、厳めしい顔に柔らかさを浮かべていた。
戦士たちの王にして勇士の庇護者を、タムリアは決然と見上げ――――ふっと笑みを見せる。
「炎斧王バスカニア殿……ニズアの毒と傷を癒やされた恩、どうか我が献身にてお返ししたく」
ほんの一年前までは、陽気のままに笑顔があったのだ。
いつしか彼女が浮かべるのは、湯を捨てた器の残熱みたいな、寂しい笑みばかり。
「魔なる者よ」
「おや、君が話しかけてくるなんて珍しいね」
またもや反論しようとするタムリアを止め、青年は柔らかな笑みを浮かべる。ずっと、常に変わることのない“好青年”の仮面。
看病でも魔物狩りでも変わらない青年の笑みを、バスカニア王は酷く嫌っていた。
だが、今だけは個人的な感情を飲み込む。
「お前は強い。だからこそ言っておくぞ……自らの使命で殺すな。弟子を返しに来い」
バスカニアは王であり、外界から来る敵を討ち果たす力を権威とする。
おそらくは奇跡の高みへと上がった〈水晶〉の騎士とはまた違う、人間の肉体を鍛え上げた頂点。
絶対的でありながら民と歌う統治者は、同時に殺すことをこそ求められる。
「意外だね。タムリアが使命を果たそうとするのは、君にとっても都合が良いだろう。だからこそ君はこの地の王として、『役目を果たせ』と言うべきだ。僕に嘆願するなんて論外じゃないかな」
「民が求めるならば、生かすのも王よ」
北方の王はそう言い放つ。しかし青年は、その灰青の瞳に慈しみを見出す。視線の先には、ボロボロの鎧を纏うタムリアがいる。
最初タムリアが北に訪れたときには邪険にしたのに、随分と絆されたものだ。
「タムリアが駆け回った町が、どれほど明るくなったか。寒さと瘴気の犠牲になる者さえも、笑って先に行った」
王は膝を折り、タムリアと視線を合わせる。
「お前は、すでに英雄なのだ」
「ちがうっ!! まだ英雄なんかじゃないッ!」
「英雄になることが目的ならば、ここで止まれ。バスカニアの勇士は、死する英雄を求めんのだ」
「ならなんで死んでいくの⁉ 北の地に来てから何人も死んだ! あなただって見たはずです、雪の下に置き去りにされた人たちをッ…………だから、わたしの使命をうばわないでください……どうか、使命を……」
騎士然とした姿は、たった一言で幼子のそれに変わった。ただ泣きそうな女が、今のタムリアだ。
情緒の不安定から見て、タムリアは正常とは言いがたい。そんなことは青年も王も分かっている。それでも彼女の犠牲に価値があり、青年は期待し、北方の王は心苦しく思う。
“使命”――――『怪物』を殺すことだけが、今のタムリアに偽りの強さを与えていた。
原因があるとすれば、タムリアの旅は早すぎた。たったひとりの箱入り娘を“英雄”にするには、二年の時間は短すぎる。
ここに至るまでの道筋は、必要な強さとほぼ最低限の覚悟を少女に与えるためのもの。人間を“刃”にするには十分でだが、それ以上を望むことはできない。
「…………風が止みました。もう行かなければ」
「タムリアッ」
ジゼの山嶺に吹き荒れる北風が、ひととき収まる。
この時間を逃せば、タムリアは一年先を待たなければならない。
「タムリア、誰もお前を責める者はいない。誰もお前だけを犠牲にする者はいないッ。お前がこの地で足踏みすることで多くの者を救ったのだ。ここが本当の分かれ道だ。お前が人間でいられるかどうか、その先に進めばもはや戻れんぞッ」
風が止まり、霧が立ちこめる。ほんの一時、瞬きの間だけ去りゆく者を隠してしまう。
王は人の世界を護る者で、人の世界を出た者を守ることを許されない。
「生きたければ戻れッ! 十年磨けばお前は天上の意思さえものともせん!」
ハディオの門を越えることはせず、王は言葉だけを届ける。届くと信じて叫ぶ。
それだけが北方の王にある、目一杯の自由なのだから。
「魔なる者ッ……腐れの獣ッ! 必ず生きて連れ戻せッ! また人を殺すのか!?」
50余年の王位において、戦いの場以外でここまで吠えたバスカニア王はいなかった。
タムリアが特別だから、タムリアが民ではないから――だけではない。
「死にたくないと……叫んでいるだろう……」
戦士たちの王は、願望と心の在処を聴く。
「死にたくない」なんてよくある願望だろう。だが、肉が腐る音が聞こえそうな「死にたくない」などそうそうない。
まして、願望を含めた心を預けることで誤魔化すなど。預けた先が旅の終わりであり、心の主自らを――――
ひとつ息を吐き、王は門に背を向ける。風が霧を晴らした先に、雪原以外の何者も見えない。
その日、王は屋敷の前に座り、訪れた民ひとりひとりに告げた。
戦士と並び、子供とあそび、物語りを唄って、笑顔と癒やしをもたらす。
我らが友は……
「……もう二度とこの地を踏むことはない。歌を作るのだ。この地の息吹潰えるまで忘れられんように……涙が友を縛らんように」
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