第10話・海岸
真夏の雲一つない晴天。平日の昼間でガラガラの電車に青年は少女と一緒に乗っていた。遅くに起きた青年は窓の外を見ている少女に「おはよう」と言ったら、ぽつりと「……海……」と呟かれた。滅多にどこかに行きたいとは言わない彼女の気紛れか、あまりの天気の良さのせいかはわからないが、それで青年は少女と一緒に電車に乗っている。海まで。
海を眺めるだけならばもっと近くでもいいのだが、少女がビルの立ち並ぶ街でふと呟いた声には懐かしさが含まれているような気がして青年は少し遠くを目指していた。砂浜を踏める海岸。
車窓から見える景色に時々、海の青が混ざるようになってきて、都心部から離れたことを知る。電車などに乗らなくとも、青年も少女も距離を超越できるけれどそういうことをほとんどしない。人間には備わっていない力の存在を知っているけれど、なるべく使わない。人間の作ったものを使う時は提示された使用料金を払う。それが少女のやり方で、青年は自然とそれに慣れてしまった。
次の駅のアナウンスで青年はふと顔を上げた。随分と長い間、電車に揺られていてどこにいても窓の外を見詰めている少女の横顔を見ながらほんの少し夢を見ていた。目的の駅を聞いてひとつ伸びをするとすっきりした。
「お嬢。次で降りるよ」
「うん」
普段は無表情でいることがほとんどなのに、少女はのんのりと嬉しそうな顔で頷いた。ふと、青年は少女のそんな顔にどきりとする。
がたん、と電車が止まって停車のアナウンスが流れて青年は慌てて少女の手を取ってホームに降りた。少ない人の流れに流されて改札を出るともうほんのりと潮が香った。
「あー……ええと、どっちだっけかな」
もう遥か昔に来たきりの海岸の町で、青年は駅を出た道を眺める。当然、道も景色も変わっていて海岸へと向かう方向に迷う。
「こっち」
手を繋いだままの少女が立ち止まった青年の手を引いて先に歩き出した。青年は少女に手を引かれるまま「うん」と言って後に続く。
ゆっくりと歩いて、道路の途中に海岸へ降りる簡素な階段を見つけてそこから浜辺に降りた。階段から降りてすぐはまだ砂が固いけれど、歩くにしたがって足元が柔くなっていく。
ふらりと出かけて、着るものなど構ってもいないから砂浜に近付くごとに靴に砂が入ってくる。けれど少女はそんなこと気にならないのか、歩く速度が普段よりも早くなって、青年の手を離して走り出すとその先で砂に足を取られたのか、ぺしゃりと転んだ。
「ちょ……!? お嬢、なにやってんの! 大丈夫?」
ありえないものを見たような気分で青年は驚き、少女に駆け寄った。
「お嬢、立てる?」
転んだ場所で起き上がって、少女自身も驚いた顔をしてぼんやりとしていて青年は本気で心配した。転んだくらいでどうにかなるような存在ではない。怪我もしない。けれど、少女の様子がいつもと違う方が青年には心配だ。
「砂浜、久しぶりね」
ふと、少女は青年が見たことのない綻ぼような顔を見せた。その顔に青年はまたどきりとする。
「そうだねえ。前に来たのっていつだっけ」
「忘れちゃった」
青年には雁字搦めのように見える少女が全部投げ捨てるように返事して、笑う。真偽のほどは定かではないが、普段の少女ならいつなのかちゃんと答える。今日の少女はどこか普段と違う。青年が戸惑っていると、少女は靴と靴下を投げ出して立ち上がると波打ち際に駆けていく。走る少女の結い上げた長い髪が潮風に靡いて、揺れる。
どうして海などと言ったのだろうかと考えながら、青年は少女が転んだ場所に座り込んで波打ち際に遊ぶ後姿を眺めていた。
白い制服姿の少女が素足で波打ち際で遊んでいるのは無邪気で可愛らしい。その光景だけならば。
けれど、青年はどうしてだか寂しいと思う。世界から雁字搦めにされて自分も雁字搦めになっている少女が無邪気に遊んでいると置いて行かれたような気分になる。自分もまた、少女を縛っている一部なのだと気付く。形式上は眷属で、実際にもそのように作用しているのだから事実なのだが、少女は気持ちひとつできっと青年を手放すことも簡単なのだ。
「雨! ねえ、あーめ!」
大きく呼ぶ声に青年はぼんやりとしていた視線の焦点に少女を戻した。白くて細い手を振って青年を呼んでいる。彼女が青年に与えた名で。
「おいで」
そんな簡単な一言が青年に動く理由を与える。
「お嬢さあ、また転ばないでよね」
青年も靴と靴下を放って少女の方へと走った。青年が波打ち際に足を踏み込もうとしたときに、いきなり少女はこちらに向かって手を伸ばして水を蹴った。
「あ! 待ってお嬢!」
咄嗟に青年は叫ぶけれど、それより先に小さな躰の重みを受け止めてなんとかバランスを保った。
「あのさあ、お嬢。転ばないでよって言ったよね? なに? 俺、巻き込みなの?」
青年より背の低い少女にジャンプして抱き付かれると、少女の足は地面につかない。それがわかっているならまだしも、不意打ちではいくら青年でももろとも倒れてしまうところだった。
「受け止めてくれたじゃない」
くすりと少女は楽しそうに笑う。
「そりゃ、お嬢のことは受け止めるよ。でも、俺が転んだらお嬢だって道連れなんだからさ」
「いいの。雨と一緒ならどっちでもいいの」
「今日はさ、楽しそうだね」
青年が抱いた少女を下ろして、そんなことを言う。いつもより随分とよく笑う。人形のように整った美貌なのに、人形のように表情を変えない少女が、見た目通りの年頃の子のように笑う。
「天気が良くて、夏で、久しぶりの海で、雨と一緒だから」
「あのね、お嬢。そんなの、海以外だいたいいつもと変わんなくない?」
「いいの。もう。雨なんてこうしちゃうのよ」
不機嫌を表したかと思うと、少女はまだ距離の近い青年を両手で突き飛ばした。思わず不機嫌顔にも見惚れていた青年には不意打ちで、軽い衝撃なのに足元の砂が滑って波打ち際に倒れた。盛大な水音がして、海水が跳ねて口に入ってきて塩辛い。
「お嬢ー。ねえ、お嬢? これなんの仕打ち?」
波打ち際に倒れたまま青年は青い空を見上げたまま大の字になった。もうここまで濡れてしまったら諦めもつく。
「雨が楽しそうじゃないから。説教臭いこと言うから」
ばしゃんと水音が鳴って、青年の隣に躊躇いなく少女は倒れ込む。本当は海水に濡れようと着替えがなかろうと困る存在ではない。人間に紛れ込もうとして、それらしい仕草が身についてしまっただけで着るものさえ必要ない存在だ。形式上、便宜上、ただその真似をしているだけ。本来はそうで、転ぼうと濡れようとなんら支障もないことを思い出して青年は笑った。
「あー……、うん。ごめんね、お嬢」
ひとしきり笑った後、青年は波に揺れる砂に埋もれかけた少女の手を繋いだ。
「ねえ、お嬢さあ……こんな天気いい夏の海でずっとぼんやりしてたらこのまま一緒に溶けないかなあ」
「それもいいわね」
握った手の先で少女は笑った。
仮・無題 御景那智 @mikage_n
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