第9話・絵画
平日の人の少ない美術館。週末の賑わいのある美術館。
どんな時でも彼女は一枚の大きな絵の前に据えてあるベンチに座って、何時間もじっと見ている。青年には彼女がその絵に何を見ているのかわからない。けれど、青年も彼女の隣で絵を眺めている。
その場所に展示してある絵画は時々、入れ替わり別の絵画になる。水墨画の時もあれば、浮世絵の時もあり、さらには油絵やモザイク画の時もある。おそらく彼女には展示される絵画がどんなものでも構わないのだ。ただ、きっとその絵の中に描かれているものの本質を見ようとしている。絵画に託された言葉を読み取ろうとしている。
平日の閑散とした美術館には人が少ない。しかも場所柄、空調はちょうどよく涼しくて静かだ。昼間も夏も間近の強い日差しに照り付けられることもなく、ひんやりとしているくらいだ。美術館という場所は人間よりも、絵画をはじめとした美術品を大事にして中心に設計されている。
夕時になって閉館時間が近くなると彼女はすっと立ち上がって、それでもしばらく絵を見詰めてから青年を振り返る。言葉が少ない彼女はそれだけの仕草しかしない。彼女が立ち上がって振り返ると青年は腰を上げて彼女の隣に並ぶ。
まだ昼間の熱気が冷めない外に出ると、熱風に吹かれてきっとこの気候を直に感じていたならむせてしまうのだろうなと青年は考える。隣の彼女は表情一つ変えないで、普段は下ろしている長い黒髪が風にたなびいてしまうのだけ気にしている。きっと、慣れないのだろう。
「今飾ってある絵さあ……お嬢に似てる」
ふと青年は美術館から出ていく歩を進めながらそんなことを言った。
「そうなの?」
「んー……まあ、美人画に似てるって言われても嬉しくないのわかるけどさあ。なんつーの。雰囲気かな。しっとりしてそうで周りの空気が綺麗そうだなって思って見てた」
興味なさそうな彼女の返事に慣れた青年は一方的に言いたいことを言う。
「周りの空気?」
彼女が青年を見て首を傾げると、彼はふと笑った。青年の言葉に少しでも彼女が反応を示すと嬉しいのだ。
「お嬢はさ、人間とはもちろん違うけどお嬢の周りだけいつも空気が綺麗でしっとりしてて気持ちよさそうなんだよ。でさ、膜が張ってるみたいに俺がこんだけ近くにいてもその綺麗な空気には触れらんないの」
つらつらと青年が彼女の隣を歩きながら喋っていると、言葉が終わったタイミングで不意に彼女側の手を掴まれて驚いた。頭一つ分背の低い彼女を青年が見下ろすと、前髪の下に珍しく憮然とした黒い瞳が見えて、怒っているらしいと気付く。
「えっと……お嬢、なに怒ってんの? んで、なんで俺、手え掴まれてるの?」
「私はそんな綺麗なものじゃない」
「え? お嬢は綺麗だよ? 人間に姿を隠してるから気付かれないだけで、姿見せてる時はみんな振り返ってるよ。お嬢が綺麗だからじゃん」
「そんなのどうでもいい。そうじゃなくて、雨が私を遠くに置いた」
「え? あー……そうなるの? それでお嬢、怒ってるの?」
彼女に片手を掴まれたまま、青年は開いている手で頭をがしがしと掻く。青年が口にした言葉に嘘はないのだが、彼女にはそれが〝綺麗の印象〟として伝わっていない。物理的に青年が彼女を高いところに飾ってしまったことになっている。
何十年、何百年と隣にいてもいまだに言葉は真っ直ぐに伝わらない。
「あの絵だって、そんな風に描かれているの? そのままを切り取って残したいと思ったんじゃないの。雨は、私のそのままを見ないの?」
彼女が青年を呼び名で呼ぶことは多くない。この短時間で複数回その呼び方をするという事はかなり機嫌を損ねている。青年は頭を抱えてしまいたくなった。彼女の方が長く存在しているというのに、時々、見たままの少女のような拗ね方をする。そういう時、青年は決まって手を焼くのだ。
「お嬢、ごめんって。そんなつもりなかったんだよ。機嫌直してよ。あー……こないだ、公園出たとこにあった喫茶店さ、ラムネ出してた。行こうよ」
「行かない。物で釣らないで」
「じゃあさ、どうしたら機嫌直してくれんの。お嬢、頑固だからさあ、俺困っちゃうんだよね」
早々に青年は白旗を揚げる。ここはあの手この手で機嫌を直そうとしても無駄なことを既に知っている。彼女は不機嫌なまま青年の手を離さない。だから、彼女が青年を捨てることはないことだけはわかっている。
とは言え、そのままでいるのは青年の方が嫌だ。彼女には笑って欲しいと願っているのだから。
「お嬢? ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「どうしたら機嫌直してくれる?」
「このままでいて」
ゆっくりとねぐらにしている古いビルへと歩きながら、彼女はぽつりぽつりと青年に返事をした。
「このままって?」
「雨が、近くても触れないって言った」
「うわー……根に持ってる」
彼女の言葉に青年は肩を落として、一方的に掴まれた手を繋ぎ直した。
「ごめんって。でもさ、俺、お嬢が綺麗なことは撤回する気ないからね」
青年が気を取り直して、そこは譲らないと言い張る。彼女はなにも返事をしなかった。
ただ、手を繋いだまま公園の美術館から古いビルの廃墟の一室に並んで歩いて帰った。街中の雑踏で青年と少女が手を繋いで歩いている姿は、人間の目に触れたならそれこそ現実離れした絵画のようにも見えただろう。
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