第8話・喫茶店

 氷のたっぷり入った背の高いグラスに透き通った緑色の涼し気なソーダ水、その上にアイスクリームを乗せて赤いサクランボをトッピングした飲み物。ひんやりと甘いクリームソーダはもう随分と昔から女性の心を躍らせるらしい。百貨店や劇場の食堂で、パーラーで、夏には紅茶とケーキよりも女性を喜ばせる。

 青年はそんなことを考えながら、対面の彼女を見ている。彼女の好むものは少ないけれど、多くの人間の女と同じように甘いものを好む。綿あめ、かき氷、クリームソーダ。

 平日の昼間の客が少ない古風な喫茶店の窓側の席。彼女は普段の無表情に幽かな笑みを浮かべてクリームソーダを楽しんでいる。ソーダ水をストローから飲んで、アイスクリームを柄の長いスプーンで掬って口に運ぶ。涼し気な夏服の半袖から細い腕が覗いて、外見だけはとても大人しそうな可憐な少女が青年の前で無防備にしている姿は、傍から見たら少々怪しいかもしれないけれど、青年もそんなことは気にしない。

「お嬢、美味しい?」

「うん」

「お嬢はさ、甘いもの好きだけど、そういう……なんか儚いやつが好きだね」

「儚い? そう?」

 彼女は青年の言葉に首を傾げる。

「時間が経ったら、形を保ってられないような感じの、さ」

 綿あめ、かき氷、クリームソーダ。

 ぺしゃんこになってしまったり、溶けてなくったってしまったりするような。

「あなたにはそう見えるのね。あまり変わらないから好きなのよ。すぐになくなってしまわないから。こんな喫茶店も、ちょっと前まではもっとたくさんあったけれど最近は少なくなってしまったわね……」

 彼女は青年と真逆のことを言う。状態ではなく、存在のことを言う。

「ああ……そっか」

 青年は彼女の言葉に納得してコーヒーのカップに口をつける。彼女と青年にとってはまだまだ百年と半分ほどのこの近現代でもあまり変わらないものを彼女は好きだという。

「あなたは、新しいものにすぐ興味を持つから」

「そうやって移り気な新し物好きみたいに言わないでくれる? 確かにお嬢よりはそうかもしれないけどさあ」

「……本当はその方がいいんだと思う……」

 彼女は伏し目がちに可愛らしい色どりのクリームソーダを見詰めて呟いた。

「あのさあ、好きなもの食べてる時くらい難しいこと考えるのやめたら?」

「だって、雨が話し出したのよ」

 頬杖をついて青年が苦笑すると、彼女はもっともな返事をして彼は自分の失敗に気付いた。

「あー……それはごめん。じゃあ、今の話なかったことにして? いったん忘れて? ほら、アイス溶けそうじゃん」

 ほら、と指さすと彼女は少し慌ててスプーンでアイスクリームを掬って口に運んだから、恐らくいったん、その話は保留された。

 その後は、冷房の効いている店内でもゆっくりしていると溶けてしまうアイスクリームとソーダ水を交互に彼女は堪能して、やっぱりほんのり嬉しそうな顔をしていた。美味しいものを口にすると表情が緩んでしまうのは、見た目相応の少女となんら変わりない。彼女を喜ばせるものは多くないけれど、無防備に嬉しそうな顔を見せる彼女を青年は嬉しいと思う。

「お嬢さあ……季節のパフェが桃だって」

「……桃……」

 何気なく手にした別紙のメニューに載っていた写真がまた瑞々しい桃とクリームで可愛らしい姿だったから、青年は何気なく誘った。彼女は鸚鵡返しに呟いただけだけれど、返事をしたということは気になっている証拠だ。興味のないものに彼女は返事をしない。

「頼もうか」

 青年が訊くと、彼女はこくりと頷いたから彼は笑ってひらりと手を挙げて追加の注文をした。満面の笑みを浮かべなくても、彼女が嬉しそうにしていることくらい青年にはわかる。そして、普段はほとんど無表情でなにか考えてばかりいる彼女が年相応の少女のようにたかが甘いものに喜ぶのなら、青年は安いものだと思う。

 あまり変わらないもの。綿あめ、かき氷、クリームソーダ。けれど、一瞬で変わってしまう季節の果物のパフェ。同じく、彼女を少しだけ喜ばせる。

 しばらくして彼女の前に置かれた桃のパフェは瑞々しい果実とクリームと、ムースとジュレでできていて写真よりも美味しそうだった。

「なあ、お嬢。新しいものだって悪くないじゃん?」

 くつくつと笑って青年が言うと、彼女はフォークを手にして桃の果実に刺して青年の方へと向けてきた。

「あなたも食べて」

「ん」

 差し出された桃をそのまま口で受け取ると、彼女は満足そうな顔をした。瑞々しくて甘い桃を食べてしまうと、青年は彼女の手からフォークをそっと奪って「俺にもやらせて」と言った。なんてことはない。彼女に食べ物を差し出されたことなら何度でもあるけれど、青年がしたことはないのだと気付いただけだ。

 パフェグラスの桃とクリームを乗せたフォークを彼女に差し出すと、案外すんなりとそのまま口にしてくれて青年は驚いた。──それから、恥ずかしいと思った。

 少しだけ顎を上げて、フォークから直接桃とクリームを小さな口に受け取る姿。そのまま伏し目がちな長い睫毛の影が落ちる角度で咀嚼している姿。青年が結い上げた髪が肩の上でさらりと落ちた。美しい姿をした少女だということは知っているのに、初めて気付いたような感覚に驚く。普段しないような真似をしたせいだろうか。

「どうしたの?」

 青年の内心を知らない彼女は顔を上げて首を傾げる。長い結い上げた黒髪がさらりと揺れる。

「……なんでもない……」

「へんなの」

 彼女は青年の手からフォークを奪い取り、そのまま自分で食べ始めるのかと思ったら、再び青年にパフェを掬って差し出してきた。それを青年は再び受け取って咀嚼して飲み込んでからテーブルに突っ伏した。

「俺はもういいから、お嬢食べなよ」

「どうしたの」

「なんでもないから、食べて」

 くぐもった声で青年は返事すると、彼女はそれ以上をしなかった。青年の耳には幽かにグラスとフォークやスプーンの触れる音しか聞こえない。その音がどうしてだか心地いい。青年の理解しえない羞恥を次第に宥めていく。

 青年はしばらくして突っ伏してた顔を上げて、頬杖をつくとなんとはなしに彼女を眺めた。いつもは結い上げていない髪が新鮮だが、それでもいつもの彼女だ。ただ、今は制服の少女たちと同じように喫茶店のクリームソーダと季節のパフェを前にほんのりと嬉しそうな表情を浮かべている。

 たった、そんなことが青年に嬉しいことは間違いない。なにが急にそんなに恥ずかしく思ったのは忘れることにした。

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