第7話・七夕
夏は年々訪れが早くなり、梅雨も駆け足で真夏日が続く。風が吹いても暑く、街中では貴重な木陰や日影にばかり人が多い。
そんな中、さらさらと涼し気な音が彼女と青年の足を止めた。音の方へ目をやると、商店街の大型店の店先に大きな笹が飾ってあって、葉が風に揺れる音だった。
「あー……七夕かあ」
そんな時期かとばかりに青年がのんびりと呟いた。こうも暑苦しくてはとうに七夕など過ぎたのかと勘違いしそうになるが、まだ七月に入ったばかりで夏本番ですらない。
笹飾りには色とりどりの短冊がくくられて風に揺れている。飾りの横には机が用意してあって、短冊と筆記用具があるところを見ると自由に短冊を書いてもいいようだった。
「お嬢、短冊書いてかない?」
「あなた願い事なんてあるの」
「なくても、年中行事じゃん。いいじゃんよ」
「……私は、いい。書いてくればいいわ」
彼女は頑なに短冊を書くことを拒んで、ふいと顔を背けてしまった。
「じゃあさ、お嬢、そこで待っててよ。どっか行かないでよ?」
「うん」
青年は拒絶する彼女に念を押して笹飾りのある店先に走った。学校の机のような小さな机上には律儀に五色の短冊が箱に入っていて何種類かの色のペンが置かれていた。
「へえ……五色の短冊なんてまた律儀なんだか……」
妙に感心したように青年は呟いて、短冊の色を選ぶのに少し迷った。
緑、赤、黄、白、黒の短冊は色のついたものがよく減っていて、一番残り数が多いのは黒い短冊だった。
「でも、どう考えたってこうじゃん?」
青年は独り言を呟いて黒い短冊を手に取ると、銀色のキャップのペンを取ってさらりと見た目に似合わない達筆な字を書くと、笹飾りにくくって彼女の元へと戻った。
「お待たせ」
「雨は結構ああいうこと、好きよね」
「まあ、好きかな。願い事が叶うとか別に信じちゃいないけど、なにもしないよりはいいかなと思ってさ」
「黒い短冊だった」
ぽつりと彼女は呟く。
「なんだ、お嬢。見てんじゃん」
「黒は命の水よ。どうして」
彼女は青年の向こうでさっき彼がくくったばかりの短冊が揺れる笹飾りを見て言う。
「水がないと木は枯れて生きていけないんだって」
ほんのりとばつが悪い気持ちで青年は答えた。さすがに短冊に何と書いたのかまで言う気はないが、そこまで白状してしまえば半分言ったも同然だった。
色とりどりの短冊がかかる笹飾りの中で、黒い短冊はひときわ目立つ。緑、赤、黄の短冊に時々白が混ざっていて、黒の短冊は青年の書いたものだけのようだった。きっと青年の短冊以外に色に願いが込められたものなどない。無作為に、好きな色を手に取ったのだろう。用意された五色にもう意味を知るものなど居ないのだろう。
木は燃えて火を生む緑。燃えた後灰になり土に還る赤。土を掘って鉱物を得る黄。鉱物の表面に凝固して水を生む白。木を養う水の黒。
「お嬢がさあ! 俺を置いてどっか行っちゃったら困るからさあ!」
冗談めかして青年が笑ってけれど、彼女はひとつも表情を変えなかった。
しかも、青年の言葉など聞いていないかのようにさっさと歩き始めて、彼は慌てて小さな背中を追った。
「ねえ、お嬢。聞いてる? いま俺、お嬢が俺を置いてったら困るって言ったんだけど?」
「本気じゃない言葉は聞いてない」
青年を見もしないで、前を向いたまま彼女は静かに答えた。そんな冗談を言っても彼女は少しも気にかけないことは知っているけれど。
「少しは本気なんだけどな」
「知らない」
なにが彼女の機嫌を損ねたのか図り切れないまま青年は肩を落として彼女の隣を歩く。
いつも隣を歩いている青年にはわかる。彼女に触れても許される時と許されない時。いまはそれが許されていないから、いつものように繋ぐ手を伸ばせない。薄い膜のような拒絶。
たかが七夕飾りなどで彼女が機嫌を損ねる理由が青年には思い当たらない。七夕飾りなどもう何百年と見てきて、時には短冊を書いたことだってあったのに。梅雨時期のような気紛れであればいいけれどと青年はそっと溜息をつく。
「お嬢がさ、居ないと生きていけないなんて本気で思ってないよ。眷属だから、本気で契約を解除されたら消えるかもしれないけど、わかんないし。ひとりだって、そのうち慣れるんじゃない? だから、俺がお嬢が居ないと生きていけないなんて思ってないけどさ」
「じゃあ、なに? 私はあなたの命の水なんかじゃない」
そんなことで機嫌を損ねていたのかと青年はもう一度溜息をつく。少女の内心は複雑だ。
「お嬢は、ひとりになったら寂しくない? 俺はひとりになっても生きていけると思うけど、お嬢が居ないと寂しくて苦しくなると思うから」
ほんの気紛れにしか笑わない彼女を少しでも見たいと願った。
商店街の人通りもまばらな昼間に、青年は歩く足を止めた。ひとりで居た時間は青年にもあった。けれど、その時間を彼女の隣にいる時間がとうに追い越してしまって、ひとりきりをどうしていたか忘れた。それを多分、孤独と言うのだ。
立ち止まって俯いてしまうと、泣きはしないのに泣きそうな気持ちになってしまう。
「たぶん、私も寂しい」
どこにも行けない手が彼女に握られて、青年は驚いて顔を上げた。笑うより珍しく、彼女は少し眉を下げて困っているらしい顔をしている。
「だって、一緒に居てくれるんでしょう」
一緒に居てとは言わない彼女を青年は不器用だと思う。頼りなく握る手なんて振り払えてしまうのに、青年はぎゅと握り返す。
「居るよ。それでさあ、俺はずっとお嬢と居るけど、もうちょっとお嬢が笑ってくれたら俺は嬉しいの」
願いなど結局は口にしないと伝わらない。行動にしなければ叶わない。願うだけではなにも起きない。一歩踏み出すきっかけにしか過ぎないと知っていた。
「だからさ、お嬢、笑ってよ」
「……いきなり笑ってって言われても困るわ」
彼女は笑うよりもずっと珍しい困り顔で青年をゆるりと抱いて頭を撫でた。青年には彼女が撫でてくれる手がとても心地いい。
「雨、降るといいなあ」
「そうね。うれし涙ね。でも雨はいいのよ。だって、あなたの願いは私が叶えるもの」
くすりと背伸びした彼女は青年の耳元で悪戯に笑う。青年は彼女に囚われたまま、つられてふにゃりと笑ってその腕に懐いた。
「優しいな、お嬢」
さっきまで機嫌が悪かったのに、青年が立ち止まってしまうと一緒に立ち止まって手を伸べてくれる。彼女はいつもそうで、青年はそれを優しさだと初めて気付いた。願いなど短冊にしたためなくても、星に願わなくてもいい。言葉にしてしまえば簡単なのだ。もっと、言葉にしても叶わないような願いが心に浮かんだら、また短冊にしたためてもいいかもしれないと青年は笑う。
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