第6話・真夏日
「お嬢さあ……その冬服はそろそろ暑苦しいんじゃないの? 気温とか関係ないっていうのは知ってるけどさあ。見た感じが」
そういう青年も気温に左右される作りはしていないけれど、涼し気な夏服を纏っている。彼曰く、「気温を感じなくても季節感は大事でしょ」である。
「女の子なんだからさ、大事にしようよ、季節感」
青年が忘れられたビルの一室でそんなことを言うと、彼女は返事もしないままふいと隣の部屋に消えていった。どこかに行ってしまったわけではないことは気配でわかる。口うるさくして拗ねてしまっただろうかと、青年は彼女の真意を図り切れないでいた。
彼女の言葉は少なくて、表情もほとんど変えない。それでも、青年は彼女ともうずっと一緒にいるのに、まだ彼女の逆鱗を知らない。時々、拗ねてしまって少しの間青年を困らせるように姿を消す。
しばらくして戻ってきた彼女は黒い冬の制服から白の涼し気な夏の制服を身に着けていた。
「これないらいい?」
「うん。いい。お嬢さ、ちょっとこっち来て」
青年はほっと笑って、ソファの隣を叩く。彼女はその仕草を見てから、無言で青年の座るソファまで来てすとんと腰を下ろした。
「知ってる? まだ六月だってのに真夏日になったんだってよ。ちょっと前ならありえないくらいに毎年夏の気温が上がっているって」
「……どうりで、虫の鳴き声が早い……」
「なあ? 夏ってもっと風情があったよなあ」
そんなことを言いながら、青年は隣に座った彼女の向きを変えて長く背中に落ちる黒髪を手櫛で整えた。するすると指通りのいい髪はひとつも絡まない。
「髪、下ろしたままだったら暑苦しいよ」
「暑くはない」
「知ってる。でも結ってたら、首筋に風が触れるよ」
彼女が止めないから、青年は彼女の髪を手櫛で整えてポケットからいつか遠い昔に与えられた結い紐で結い上げて固く結んでから蝶々結びにして髪の先に唇を落とした。
「お嬢がくれた結い紐で結んだから、なくさないで」
掬い上げた彼女の髪先を離して青年は呟いた。結い紐の房が彼の前でほんの少し揺れている。青年が揺れる結い紐を何とはなしに見詰めていると、彼女が振り向いて彼の手を取って立ち上がった。
「かき氷」
突然言った彼女の言葉に青年はうっかりぽかんとしてしまった。彼女の言葉が唐突なのはいつものことなのだが、結い上げた髪の向こうの項にでも見惚れたかと苦笑した。
「うん、かき氷が?」
「食べに行こう。もう真夏日なんでしょ?」
きゅ、と握られた手。白い夏の制服と普段とは違う結い上げた長い髪。それはそれで充分夏らしいけれど、季節が先取りのようにもう真夏日だから、どうせならもう夏らしいことをささやかに。
「行こっか。お嬢好きだねえ、かき氷。イチゴのやつ?」
「うん」
「どれくらい前からだっけ、夏にかき氷食べるようになったの」
「忘れた。でも、そんなに前じゃないわ」
先に歩き出した彼女の後を追って、隣に並んで青年はふと笑う。そんなことも忘れてしまうくらい、長く隣にいる。例えば青年が彼女の髪に結った結び紐がどこかへ行ってしまっても、青年はそんなに落胆しない。物は物でしかない。いつかは形を失う。
ただ、繋ぐ手だけなくならなければいい。
古いビルの外に出ると、生暖かい風が吹いていて彼女の結い上げた髪がたなびいた。
「首に風が吹くの、慣れない」
「夏の間だけ、慣れないこともいいんじゃん?」
片手で首を抑える彼女に青年は笑った。彼女の長い髪を結い上げたのは確かに初めてで、彼女には慣れないことかもしれない。こんなに長く存在していてもまだ慣れないことなどあるのかと、青年はおかしくなってしまった。
「お嬢、今年はさ、髪結うだけじゃなくて普段しないようなことしよっか」
「どんなこと?」
彼女は青年を見上げて首を傾げる。普段より大きく結い上げた髪がさらりと揺れた。
「んー……水遊びとか?」
「人のいないところなら、いいよ」
ふと思いついたことを口にした青年だったが、彼女は普段の無表情のまま条件付きで了承した。珍しいこともあるんだなと青年が驚いていると、手が引っ張られた。
「でも今日はまずかき氷」
また一歩先に行って青年を振り返った彼女は笑っているように見えた。一年の数か月しか見ない彼女の白い夏服のせいか、見慣れない結い上げた髪のせいか、表情をめったに変えない彼女が青年にはそう見えた。見た目年相応の、無邪気な少女のように。
「はいはい。どこでもお供しますよ」
そんなことが不思議に嬉しく思えて青年は笑って彼女に追い付いた。
夏が毎年早く、長くなっていくというのも悪くないかもしれないと、そんなことを考えながら。
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