第5話・似たもの同士

「あー! お嬢、いたいた」

 聞きなれた青年の声を背中に聞いて、彼女はそっと手を止めた。突然の他人の声に今まで地面に転がって撫でられるがままに腹を出していた猫の耳がぴくりと反応して、するりと起き上がって何事もなかったかのように彼女の前から去っていく。彼女は猫の後姿をひとつ見てから立ち上がって、青年を振り返った。

「あー……ごめんって。間が悪かったなあ」

 青年は彼女の足元から去っていく猫の姿を見たのか、ばつが悪そうな顔をしている。

「いいよ。あの猫だってずっと私に撫でられているわけじゃないもの」

「でも、ごめんって。俺が声かけなかったらまだ遊んでられたじゃん」

「いいの」

 重ねて謝る青年に彼女はふいと顔を背けた。

「お嬢、動物好きじゃん」

「なにしにきたの」

「またお嬢が居なくなったから」

「私が居なくなったら、どうして探すの」

 いつまでたっても彼女は青年に同じことを問いかける。少し離れたくらいでは青年の存在を彼女は脅かさない。確かに彼女には強引に契約を解除できる力があるが、それを施行するつもりは今のところない。青年が何百年と経っても彼女を信用しないというのであれば、彼の勝手で彼女に何か言う気もない。

「お嬢が泣いてないか心配になるから」

 ところが、思いがけない返事をされて彼女は少なからず驚いた。

 彼女が青年に泣いているところを見せたことはない。寂しいと言ったこともない。どうしてそんな発想になるのか彼女にはわからない。

「泣く? 私が?」

「そう。別に涙を流すっていうんじゃなくてさ、そうじゃなくても泣くでしょ。あのさあ、猫とか……他の動物もそうだけど、動物には話したり撫でたりすんのに、お嬢、俺には碌に喋ってもくんないじゃん? 俺ってそんなにお嬢には邪魔?」

 そんな風に言われて彼女はぱちりとひとつ瞬きをした。邪魔だなんて思ったことはない。ただ、手を伸ばすと懐いてくれる動物と同じように青年を見ていない。

「邪魔じゃないよ」

 簡素な言葉で彼女は返事をした。

 彼女は青年ほど言葉が多くない。だから、時に青年に驚かされると返す言葉が普段より短くなる。言い訳することを知らない。そんな虚飾を無駄だと思ってしまう。その代わりに、彼女は青年の手をきゅ、と握って繋いだ。

「……猫ってさあ、懐く相手を選ぶじゃん……あと鴉とか……そういう動物と仲良くなるじゃん」

 青年はするりと話の方向を少しだけ変えてくる。繋いだ手が繋ぎ直された。

「似たもの同士仲良くなるって本当?」

「あなたはどうなの」

 ふと彼女が問うと青年はおかしそうに笑う。

「お嬢は俺を猫や鴉と似てると思う?」

「ううん」

「だろうねえ。俺は犬なんじゃない? どっか行かねえもん」

 青年の返事に、彼女はくすりと笑う。確かに青年は彼女がひとりでどこに行っても追いかけてきて、もう何百年と一緒にいる。犬と言われて違うとは言えない。

「お嬢さあ」

 少しだけ無表情から笑みを零した彼女を嬉しそうに覗き込んで、青年は見た目よりも悪戯な視線を寄こす。

「名前、呼んで」

「え?」

「いいから。呼んで欲しいの。だって滅多に呼ばねえじゃん」

 唐突な要求に彼女がぱちりと瞬きをすると、青年は子供のように屁理屈をこねた。

「──雨……」

 そう呼び出したのは、ずっと青年の呼び名がなくて不便だと言われ続けた日の夕方で霧雨が降っていたような気がする。その呼び名は彼女と青年が識別するためだけのもので、本当の名ではない。

 なのに、青年は彼女が静かにその呼び名を口にするだけで嬉しそうに彼女を抱き締める。

「捕まりに来た」

「──……?」

「お嬢に捕まりに来たから、撫でてよ。偉いじゃん、俺」

「呼んだら、来るの」

「そうだよ」

 温度も呼吸もないけれど、声が耳に触れる。抱き締める腕の感触はある。

「猫や鴉は呼んでも帰ってこないよ」

「そうね。いい子ね、雨」

 片手を繋いだまま、片腕で抱き締められて彼女はそっと瞼を伏せてずっと背の高い青年の頭に手を伸ばして撫でた。彼女は青年を動物と同列には見ていないけれど、彼にとっては比較対象であるようだった。違うのに、と訂正したくても彼女には丁度いい言葉が見つからなくて、代わりに手を伸ばして青年を撫でる。

「でも、好きなところへ行ってもいいのよ」

「は? 契約があるじゃん? って言うか何言ってんの? 俺はどこにも行かないってさっき言ってるんだけど」

 無理に縛っている訳ではないと言いたかったのに、拗ねた声で青年は反論して彼女が身動きできない程に強く抱き締められた。離さないとばかりに彼女にのしかかった重みが更に動きを封じてしまう。

「怒っているの?」

「怒る程じゃないけどさあ、信用されてねえなあとは思う」

「信用?」

「いいけど! 俺が好きでお嬢と居るんだし」

 ぱ、と抱いた腕を離して青年はおどけて見せる。その奥に、傷が垣間見える。

「私より雨の方が、ずっと泣くんでしょう? だから、私が居ないと泣いていないか心配するんだわ」

 抱いた腕は離れたけれど、手は解かれなくて繋がれたまま。彼女が静かに言うと、青年は返事をしなかった。

「……似ているのね、きっと……」

「もういいから! 雨降りそうだから今日はもう帰ろうよ、お嬢」

「そうね」

 雨はただの口実だと知りながら、彼女は頷いて青年に手を引かれて今ねぐらにしている場所へと帰る足を向けた。空が湿気を含んだ雲に覆われていく。濡れても何も構わないけれど、青年は彼女を殊更大事にする。一歩、先を歩く青年が顔を見せてくれないのは、涙を流さなくても泣いているからだと彼女は心が痛む。そんな傷をきっと無数に付けてしまっているのに、青年は彼女と居ると言って離れる様子もない。

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