第4話・大正
公園の中の茶店の片隅。梅雨時期の日差しを遮るひさしの下に彼女と青年は座って、公園を散歩する老若男女を眺めていた。居るのか居ないのかの影の薄さ。席を借りるのだからと、そういう時だけは欠片ほどの存在を表して、茶代を彼女は払う。
「なんだかねえ、俺にはなにが変わったのか大してわかんないけどねえ」
茶をすすりながら、青年は苦笑する。
席に赤い敷布の茶屋の番茶。古い桜並木の公園。蓮の池。どれだけ前に見たか忘れた景色と青年には変わりない気がする。
「でも、何年もかけて少しずつ変わっているのよ。だってこの茶屋は前にお茶を飲んだ茶屋とは違うわ」
「そうだけどさあ」
「ほら、みて。女の人が男の人に連れられないで散歩している。ちょっと前ならお姫さまだったような人が隠れもしないで自由によ」
彼女は散策路を楽し気に歩いていく女性の一行を見て呟く。言われてみれば、都──と呼ばれていた多くの場所──では、一人歩きの女はたいてい下働きの奉公人だった。農村、漁村の方が割合は多いとはいえど、栄えている場所では女はとかく隠れて自由がない。家の中、あるいは遊郭の中。自由である女には、持ち物が少ない。昔から女に与えられた自由は僅かだ。
「──お嬢は……」
言いかけて、青年は続く言葉を飲み込んだ。
何を言うというのだ。何年、何十年、何百年隣にいるのに、今更。
「なに」
珍しく彼女が青年の言葉に耳を傾けようと彼を見詰めたけれど、青年はその視線から逃れるように顔を逸らした。彼女の視線は真っ直ぐで、青年には嘘を吐ける気がしない。
「いや、なんでもない」
ただ、なんとか言葉を濁して茶をすする。
「あなたには羨ましそうに見える?」
青年を見詰めたままの彼女は静かに問いかけてきた。
文明開化──らしい。そうして、それぞれに構えていた国が一つになったのだと聞く。外国との交易を再開したのが、ひとつ前の時代。それから、また時代がひとつ新しくなった。結局、この国は古い家系を頭に据えていないと落ち着かない。
「羨ましそうではないかな」
青年は少し笑う。
彼女はきっと何にも囚われたくなくて、ひとりで居たのだろう。出会い頭に衝突するような偶然で青年と出会わなければ、きっとまだ彼女はひとりで居るのだろう。
「お嬢はさあ……俺なんか振り払おうと思えばいくらでもできるのに、どうしてしないの」
唐突に青年は問いかける。彼女は青年を見詰めた視線をふいと離してしまって、温くなった茶を飲んでいる。
彼女は普段は寡黙で、青年との間に会話が成立することの方が珍しい。青年の問いかけなど、答えたくないと思えば答える必要もない。視線を逸らした彼女に青年は、矢張り答えてくれないかと溜息を吐きかけた。
「……また、ひとりにしてしまってもいいの?」
不意打ちで彼女が独り言のように呟いて、青年は驚いた顔を上げた。
「え。嫌だよ」
思わず真面目な声で返事をする。
「大丈夫。今更、ひとりにしないわ」
余程、青年は情けない顔をしていたのか、茶碗を置いた彼女は茶席に放られた青年の手に手を重ねた。温度はないけれど、感触はある。青年よりも華奢で小さな手に、彼はなぜかほっとする。
「ねえ。人の歩いている姿も、着ているものも、建物や町並みだって凄く変わったように見えても、中身はあまり変わっていないのよ。きっと、男の人なしに歩いている女の人だって、少し怖いんだわ。そういう風に変わってきて、そういう風に慣れようとしていても急な変化には追い付かないのよ。……だから、あなただって、明日私が居なくなってしまったらきっと怖くなってしまうわ」
「子ども扱い」
「……きっと、私も、寂しい……」
青年がぶっきらぼうに呟くと、彼女はぽつりと零した。
時代がいくつ変わっても隣にいたから。
青年が推し量れない彼女の気持ちの中にも、そんな感情があるのかと驚いた。彼は彼女ならば、青年を放逐してしまっても変わらない無表情で次の日には知らないどこかへ行っているのだろうとばかり思っていた。
涙も流したことがない癖に泣きそう、などと思った青年はすん、と息を吸って彼女の手を握り返した。
「お嬢の方が寂しいんだ」
負け惜しみのように呟いて、青年は勢いよく立ち上がった。自然、彼女も青年の手に引っ張られる。
「あのさ、あれ買いに行こうよ。なんかふわふわした雲みたいな菓子」
「え……?」
「俺はいいけど、お嬢さっきから気になってるみたいだし」
「そう?」
「女の人も見てたけど、あの菓子持ってる子どもも同じくらい見てた」
青年に言われると彼女は黙ってしまった。彼女はよく目の前の人間を見ている。青年は人間を見ている彼女を見ている。間違っているとは思わなかった。そうやって、長い間隣に居たのだから。
「行こう?」
念を押して彼女を覗き込むと、また視線を逸らされたけれど小さく頷く返事が返ってきた。
彼女の好きなものは少なくて、青年が知っているものはもっと少ないけれど、普通の少女のように甘いものは好きだ。女や子どもが喜んで手にしている菓子なのだから、彼女も好きかもしれない。
「舶来の菓子かな。最近になって見かけるやつだ」
手を繋いだまま青年が菓子を持っている女や子どもが多い方へと足を向けながら言う。ほんのりと香ばしい甘い香りがしてくる。
目的の屋台のそばには女や子どもが賑やかしく店を囲んでいた。青年と彼女がその間から覗くと、ざらめを入れた機械から雲のような薄物のような白い菓子が湧き出て店主が器用に棒にからめとっては売っていた。
「へえ、どんな仕組みなんだろうな」
青年が感心したように零すと、彼女の手を握る力がほんの少し強くなった。
「親父、うちのお嬢にもいっこ頼むよ」
くすりと笑って青年は屋台の店主に声をかけて、銅貨を渡した。「はいよ」と威勢のいい声が返ってきて、少し後には今さっきからめとったばかりのふわふわの白い雲のような菓子が手渡された。
「はい、お嬢」
青年が菓子を彼女に手渡すと、珍しく彼女はきらきらとした目で受け取った菓子を見詰めていた。
「俺にはさ、大して変わってないようにも見えるし、変わったかもしれないし変わってないかもしれないけど、目新しいもんも悪くないんじゃない?」
屋台の人だかりを離れながら青年は独り言のように言う。
彼女はしばらく雲のような菓子を眺めていたけれど、食べ方に迷った末か舌を伸ばして舐めるように口にするとほろりと「甘い」と呟いた。
「気に入った?」
珍しいこともあるものだと青年が嬉しそうに訊くと、彼女は静かに頷いた。いつも、達観しているように何かを見ている彼女が、その時だけは見た目と変わらない少女のように見えて、青年には少しおかしかった。
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