第3話・サボり

 梅雨の入りというにはあまりにも激しい雨が深夜から降り出して、朝になってもやみそうにはなく、勢いは増すばかりだった。古い雑居ビルの奥の忘れられた一室で彼女は窓に打ち付ける雨を見ていた。

「お嬢、外に行かないでよね? この雨で傘もささないで歩いていたら、さすがに怪しいよ。ケーサツに補導されるよ」

「……補導?」

「だって、お嬢、制服姿じゃん。キョウイクテキシドウ? だっけ? ただでさえ昼間っから制服の女の子がうろうろしてて、もし見えたら危ないっていうのに」

「よくそんなこと知ってるのね」

「お嬢は無頓着すぎ」

 振り返った彼女が不思議そうに言うので、青年は寝転がっていたソファで背を向けた。

 何年、何十年、何百年たっても彼女の姿形が変わらないことを青年は知っている。青年もまた同じ。人間ではないから。──だから、人間の目に映ることの方が稀で、本当は天候などに行動を左右される必要も、ねぐらのような場所も必要ない。けれど、いつからか彼女は待ち合わせ場所のようにねぐらを定めるようになった。

 どこかの廃れた寺社の庫裡や社務所。山の洞窟。朽ちかけた納屋。役目を終えた学校の教室。雑踏の中、存在を忘れられた街のどこか。

 彼女がどこに行っても、その場所に居ればいずれは戻ってくる無言の約束が交わされた場所。

「……雨」

 青年は背中を向けたまま呟いた。彼女の気配は留まったままで、きっとまだ窓辺に居る。

「雨降ってるからさあ、今日はサボろうよ」

「サボる?」

「怠けること」

「……よく知ってるのね」

 ついさっきと似たような言葉のやり取りをして、彼女に背中を向けていた青年はソファに座りなおした。

「いいじゃん。こんな天気だし」

「何を怠けるの? 何もしていないわ」

 彼女はまだなお、窓辺で首を傾げた。確かにそうなのだが。

「いいの。何もしないの。何も考えないの」

 どう見ても青年の方が見た目は上に見えるのだが、内面は明らかに逆転している口調で言い、彼女に手を伸ばした。

 彼女は青年の差し伸べる手をしばらく見てから窓辺から離れた。触れる距離まで近くになると、青年は彼女の手を引き寄せてソファに転がった。黴臭い匂いがするけれども、それも懐かしい感じがする。突然の青年の行動に、彼女は驚きもしない。ただ、されるがままに青年の腕の中で一緒にソファに転がった。

「お嬢さあ、いつも何か考えてるけど、何考えてるの」

「……なにか。その時に考え付いたこと」

「ずっと考えてると疲れるよ」

「別に」

 彼女は変わらない淡々とした声で答えるけれど、わざわざ青年から離れようとまではしない。

「今日はさあ、こうしていようよ。何も考えないでさ」

 それでも青年は彼女がいつものようにするりとどこかへ行ってしまわないように掴んだ手を離さず、悪戯に誘った。彼女は青年から離れようと思えばいとも簡単に姿を消してしまう。

「考えないのは、よくないって」

「考えすぎもよくないよ」

「ちゃんと間違わないように見なさいって」

「目を瞑ってもいいよ」

 誰が彼女にそう教えたのか青年は知らない。だから、無責任に彼女に怠惰を許す。青年の言葉など彼女には響かない。緩く彼女を捕まえていてもなんの意味もないことを青年は知っている。

 けれど、彼女は青年の手に捕まったままでそっと顔を伏せた。

「サボるって、どうするの」

 ぽつりと呟いた声は何も知らない透明感に満ちていた。

「えー……そうやって聞かれると俺も困るんだけどなあ……。何にも考えないで、雨の音聞いて寝ちゃえばいいよ」

「雨の音? どっちの雨」

「俺じゃないよ。降ってる方の。俺は音なんてしないでしょ」

 まさかそんなことを言われると思っておらず、青年は驚いたけれど苦笑して返した。

「するよ」

 人間ではないから鼓動もない。呼吸の必要もない。身動きすれば衣擦れくらいはするだろうが、それくらい。姿形はただの仮初めなのに、彼女は断言して片手を青年の胸の上に置いた。

「雨の音なら聞いててもいい」

 彼女の言葉の意味をどちらか図ろうとして、背年はすぐに放棄した。期待することも虚しい。彼女は青年にそんな感情など持っていない。青年もどうして彼女の隣にいるのか元の約束を忘れてしまった、無意味と曖昧の間に契約だけがある関係でしかない。

「いいよ。お嬢がしたいなら、そうやってサボっちゃえばいんだ」

「うん」

 彼女は青年に捕まえられたまま、顔を伏せて胸の上に手を置いて瞼を伏せたようだった。体温など感じないけれど、青年の上の重みがほんの少し軽くなって彼女が意識を手放した。眠るのではなく、意識を手放す。生き物ではないから休息のために眠る必要はない。けれど、意識を手放して外界の情報を遮断したい時はある。

 青年はふと、息を吐いて空いた方の手で彼女の長い黒髪を撫でた。

「お嬢が何をずっと考えて見ようとしてんのか、俺は知らないけどさあ……そう言われたのっていつの話だよ。いい加減、もう無効でいいんじゃないの」

 もう意識を手放している彼女には届かない言葉を零して、青年はもうひとつ彼女の髪を撫でてソファにぐったり体を埋めた。確かにサボろうと言い出したのは青年であるけれど、彼女を体の上に乗せたままでは青年は身動きが取れない。外の雨は勢いを増して窓に打ち付けている。

「俺もこのまま寝ちゃおうかな……」

 薄暗いままの窓の外を見て青年は呟く。

 雨はひどいし、青年の上で彼女が眠っていて動けない。温もりなどないけれど、重みはある。何も考えることも見ることもやめてしまって、雨の音を聞きながら眠ってしまえばいい。街中の忘れられた場所で。

 そうして、きっとまた目覚めたなら人間を見て、考えることをしてしまうのだから。

 何のためにそうしているのかも解らないまま、ただいつの間にか教えられたことを続けている。先に何があるのかも、何を求めているのかも忘れてしまっているのに、それをやめられないのだから。

 一日くらい、サボってしまっても誰も咎めない。咎める者もない。

 彼女と青年はそういう存在。

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