第2話・夜

 満月の夜に彼女は必ず行方をくらます。青年であっても所在を把握できないほど遠く、あるいは故意に気配を消しているのか。

青年と彼女は事実上の契約関係にあるため、通常であれば青年は彼女の居場所をある程度把握できる。それは彼女も同じことで、満月の夜に限って必ず行方をくらます彼女には理由があるのだろうと青年は長い年月をかけて納得した。

 親が近くにいないと不安になる子どもではない。けれど、彼女の不在は青年を心許なくさせる。所在が、気配があればいいだけの、実体としての近くではなく存在の有無の問題だ。

 月の明るい満月の夜、青年はひとり月明かりを掻き消すネオンの不夜城を歩く。夜だというのに昼間よりも姦しい場所。人間の淫らな欲に溺れた街。

 そんな街を眺めて青年は彼女が人を嫌いだと言う理由がほんの少しわかる気がする。彼女にも青年にも明確な欲は備わっていない。ただ、静かに人間を観察する傍観者だ。

「木を倒して平にして、埋めて代わりにコンクリートの建物が生えて花や実の代わりに光るネオンね……」

 騒がしさと人いきればかりで、敵味方こそないものの戦場に似ている。そう思った青年は「嫌だな」と呟いた。

 青年は彼女よりも人を嫌うことはないけれど、それでもそんなことを呟いたのは彼女が不在であったからかもしれない。

 こんな場所が良くないのだと、歩く先を変えてネオンの不夜城を離れて静かな公園に落ち着いた。地上の光が強くて星が見えない空、月だけがぽつりと白い。

 人気のない公園のベンチから見上げる月はずっと変わらないはずなのに、昔のほうが綺麗だったような気がする。

「ひとりは嫌だな」

 だらしなくベンチに背を預けて誰にともなく呟く。単純にひとりにならない方法は簡単だが、それではなにも満たされないことを青年は知っている。

 青年の孤独を埋められるのは主に当たる彼女しかいない。けれど、彼女にも青年にも相互に束縛を許さない矛盾がある。好意だとか恋慕とかいう感情ではない。そんな単純な感情であったならとっくに破綻しているだろう。

「あーあ……嫌だなあ……」

 青年は凭れたベンチから朧な月を恨めしく見上げて呟いた。彼女がいなくなった訳ではない。もし、そうなっていたなら青年も存在しなくなる。ただ、放ったらかされてるだけだ。そんな事が青年の普段は感じない不安を煽る。

 出会った時になにかを約束した。だから青年と彼女は共に存在している。普段は意図して思い出しもしないことを彼女がいない夜に青年はなんだっただろうかと考えるけれど、遠い昔のこと過ぎてもう思い出せない。なにか、たった一言であったことだけ覚えている。その言葉に、何もかもを委ねていいと思った。

 藍の空に白い月が浮かんでいた夜だったかもしれない。

 静かな──奇妙なくらいに静かな物音しない場所だったと思う。

「お嬢さあ……最近じゃ、拾った命には責任を持てなんて言うらしいじゃん? 責任持てよな」

 ただ、放ったらかされただけの寂しさに似た感情で空を見上げたまま無駄に呟いた。彼女は青年の感情に揺さぶられない。けれど、青年は彼女の感情に影響を受けてしまう。契約が、契りがあるから。青年の感情が不安定になっているのは彼女が不安定な影響だ。

「──あなたは、命、ではないでしょ、雨」

 青年の頭上から静かな声が降ってきて、背後から近寄った華奢な少女の腕がゆるりと青年を抱いて頭を撫でた。

「お嬢」

「雨、あなたは私に束縛されたいのではないはずよ」

「……久しぶりに、そうやって呼んだ」

「そう?」

 青年の元の名は忘れたが、「雨」という呼び名は彼女がつけた。呼び名がないと不便だからと青年が主張し続けたら、ある日「雨」と呼ばれた。その日は雨が降っていたはずだ。

「おかえり、お嬢」

「うん」

 先ほどまで欠片も気配を感じることができなかった彼女は、青年の寂しい呟きを傍で聞いていたかのように緩く抱いて頭を撫でる。彼女の撫でる手のひらを掬って、忠誠の唇を落とすと青年はやんわりとその腕から離れる。

「お嬢、またどっか行く?」

「ううん」

 自分からその腕を話しておきながら、青年は矛盾したことを彼女に聞く。彼女は静かな返事をして青年の隣に座った。

「雨が呼んだから、帰ってきた」

 たったそんなことで彼女はひとりを手放してしまうのかと青年は驚いた。確かに、今まで彼女の不在に彼女を指す言葉を口にしたことはなかった。そんな簡単なことだったのかと、青年は思わず笑った。

「俺が呼んだら、帰ってきてくれるんだ?」

「うん」

「なんで?」

「理由は、ない」

 きれいな無表情から紡がれる言葉は相変わらず淡々としているけれど、どうしてか青年には嬉しかった。

「お嬢はさあ、夜、どこ行ってんの」

 聞いたことがなかったと青年は返事を期待しないまま問いかけてみた。背中を預け切っていたベンチに座りなおして、足を組んで頬杖をついて。

「誰もいなさそうなところ」

「ふうん」

 青年は自分から問いながら、それ以上深く詮索しない。普段は基本的に一緒にいるのに、夜──特に満月の夜は決まって姿を消すのだから、彼女がひとりになりたいと思う時なのだろう。ただ、気配も察知できないところに彼女が隠れてしまうことが青年をほんの少し不安にさせるけれど、呼べば戻ってくるのだと今日、知った。

「……ひとりでいると、なにかを思い出せそうな時がある」

 ぽつりと彼女が呟いた。

 長い長い間、存在しているから薄れるものはたくさんある。記憶、感情、大事なもの。それは彼女も青年も同じく薄れてなくしかけているもの。

「大事なもの?」

「たぶん、きっと」

「思い出せるといいな」

「雨にはないの。大事なもの」

 ふと、珍しく彼女が青年に問いかけた。黒い大きな瞳がまっすぐに青年を見る。長い黒髪が夜風に揺れる。

「ないよ。お嬢がいるから」

 さらりと青年は返事する。

 契約でも契りも関係なく、青年が大事に思うものは彼女以外にない。だから、彼女の不在が不安になる。彼女の不安を青年も共有する。眷属だから気配を辿れて、感情の影響を受けるが、その関係を無視ししても青年に彼女以上に大事なものはない。──理由は、忘れてしまったけれど。

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